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盛期ルネサンス絵画の展開(その六)

盛期ルネサンス絵画の展開(その六)

ミケランジェロについて (その1= 1516年 ルーブル2体の奴隷像まで)

*********************** 概略年表 **********************

1475年 フィレンツェ近郊のCaprese に生まれる。数週間後には家族ともフィレンツェに戻った。

1488年 ギルランダイオ工房( 13 歳頃)(親の反対を説き伏せて)に3年の約束で入る

メディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。

彼から彫刻も学んだ。二つの浮き彫り彫刻が残っている。

(1489年 ローマでアポロの像(ベルベデーレのアポロ)が発掘される)

1492年 ロレンツォ メディチが死す。

この頃 サント・スピリット病院で解剖を学んだ。

1494年 フランス王シャルル8世のフィレンツェ侵攻。メディチ家追放。その後サボナローラによる陰鬱な神権政治ができた。

  • Venezia、Bolognaに逃げる
  • Veneziaでは作品を作らない
  • Bolognaには3体の彫刻が残っている・・祭壇の装飾の一部

1496年 ローマに行く・・・・5年滞在  「ピエタ」と「バッカス」を制作

1502年 フィレンツェが共和国宣言 フィレンツェに戻り 「ダビデ」を作る。

1505年5月 ユリウス2世の巨大な墓碑を作るように要求される

(1506年 ローマでラオコーン発掘される)

1506-08年 トンド・ドーニ(ドーニ家の円形画)制作

1508年 ローマに再び行く ユリウス2世からの墓碑の制作要請に応えるため。

ユリウス2世の都合により、墓碑が後に回され、天井画を先に取り掛かる。

1508~12年 システーナ礼拝堂天井画・・・・・別の投稿欄(*)で詳しく説明

—-ここから様式が変わり始める—-

1513年 ユリウス2世死去

1513~16年  墓碑の制作に専念し、「モーゼ」像、「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」の彫刻作品を完成

*********************************************

ミケランジェロについての最初の伝記は、1520年代半ばのノチェーラの司教パオロ・ジョービオがラテン語で書いた短い伝記がある。しかし、内容は慎重に扱う必要がるものと言われている。

ミケランジェロについての既存の知識の大半は、ジョルジョ・バザーリ(1511年~1574年)とアスカニオ・コンデヴィ(1525年~1574)が描いた伝記によっている。

バザーリは1550年に「美術家列伝(建築家、画家、彫刻家の伝記)」を出版した。出版当時75歳のミケランジェロは、歴史の流れの頂点にたつ芸術家として登場している。この伝記はミケランジェロの大々的な英雄崇拝であると言われている。但し、ユリウス2世の墓碑に関する記述などはミケランジェロをして憤懣やるかたなしと思わせた。

コンデヴィは1540年代末にはミケランジェロの助手として活動している。近くにいた者のみが知りうる情報を得ているが、ミケランジェロへの身びいきが過ぎる点が多いともいわれている。

幼年期のミケランジェロ( 15歳~20歳)

作品  スケッチ三点  ジョットやマザッチョの絵をスケッチしたもの

  • Two Male Figures after Giotto (recto)
    1490-92
    Pen and gray and brown ink over traces of drawing in stylus, 317 x 204 mm
    Muse du Louvre, Paris

    二人の男性のスケッチ  1490-92 ペンとインク(灰色と茶色)

    317 x 204 mm  ルーブル美術館

    ジョットー サンタ・クローチェ聖堂 ペルッチ礼拝堂の「聖ヨハネの昇天」部分のスケッチ

    ジョット―

  • Male Figure after Masaccio, Arm Studies (recto)
    1492-93
    Red chalk, pen and brown ink, 317 x 197 mm
    Staatliche Gaphische Sammlung, Munich

    男性の姿スケッチ 1492-93  赤いチョークとペンとインク

317 x 197 mm    ミュンヘン市立美術館

マザッチョの カルミネ聖堂 「貢の銭」部分 から

マザッチョ

Three Standing Men (recto)
1494-96
Pen and brown ink, 292 x 200 mm
Graphische Sammlung Albertina, Vienna

三人の男の立ち姿  1494-96   ペンとチャのインク

292 x 200 mm    ウイーン アルベルティ-ナ 美術館

マザッチョ カルミネ聖堂の中庭の回廊の装飾(消失)から

このデッサンだけは、オリジナルのモデルを逸脱していると見うけられうる。

 

ギルランダイオ工房(13歳頃)に親の反対を説き伏せてに3年の約束で入った。

サンタマリア・ノベッラ聖堂のマリア伝の装飾を手伝ってフレスコ技法の基礎をギルランダイオから学んだ。 ジョットやマザッチョの絵をスケッチしたものが残っている。(ルーブル、ウフィチ、ミュンヘン)

 

浮き彫り彫刻 二点

Madonna of the Stairs
1490-92
Marble, 56 x 40 cm
Casa Buonarroti, Florence

Battle
c. 1492
Marble, 84,5 x 90,5 cm
Casa Buonarroti, Florence

メディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。彼から彫刻も学んだ。上記二つの浮き彫り彫刻はそこでの学んだ成果。

  • #メディチ家の庭園にあった古代彫刻

    15世紀にメデチ家からナポリ王に寄贈

「バッカス(とキューピット)」   現在  ナポリ 考古学博物館

ボローニャ(1494~5) 時代

1494年 フランス王シャルル8世のフィレンツェ侵攻によりフィレンツェではメディチ家が追放され、その後サボナローラによる陰鬱な神権政治ができた。ミケランジェロは庇護者を失い、Venezia、Bolognaに逃げる。Veneziaでは作品を作っていない、Bolognaには3体の彫刻が残っている・・祭壇画の中の装飾

St Petronius
1494
Marble, height 64 cm with base
San Domenico, Bologna

 

St Proculus
1494
Marble, height 58,5 cm with base
San Domenico, Bologna

Angel with Candlestick
1494-95
Marble, height 51,5 cm
San Domenico, Bologna

「ボローニャ守護聖人彫刻3体(聖ペトロニウス、聖プロキュラス 燭台を持つ天使)」

ベルベデーレのアポロを見る前の作品。

聖ペトロニウスはボローニャの守護聖人、両手に単純化したボローニャの街の模型を持っている。髭の彫りや目の窪みなどはやや深すぎて不自然さがあるが、スッキリとした立ち姿のポーズを取っているにもかかわらず、マント(ガーメント)の襞の彫刻と右足のポーズにより、今にも前に歩を進めそうな、生命感のある彫刻になっている。

聖プロキュラスは、既に コントラポストのポーズをとっている。

燭台を持つ天使は、サン・ドメニコ聖堂の祭壇を飾る燭台で、二つが対になっている。一つを若いミケランジェロが掘り、他方はNiccolò dell’Arca.が彫った。先輩のヤコポ ・デッラ・ クエルチャが数年前に製作した祭壇装飾を崇敬しながら、そこに古代彫刻の知識を加味している。

ドナテッロ、ヤコポ ・デッラ・ クエルチャ(シエナ派:ドナテッロ、ギベルティ、ブレネルスキーと同時代)の影響が大きいが、ミケランジェロが若いときにメディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。古代の彫刻の影響が大きい。様式が変わる要因になっている。

祭壇全貌 (参考)

  1. ミケランジェロの初期

作品

  • 「ピエタ」  ・・・ローマ時代
  • 「バッカス」 ・・・ローマ時代
  • 「ダビデ」  ・・・フィレンツェに戻った後

「聖家族」はジャンルが異なるので後で説明する

「ピエタ」

Pietà
1499
Marble, height 174 cm, width at the base 195 cm
Basilica di San Pietro, Vatican

ミケランジェロ, 1499年 大理石、高さ174 cm、幅 195 cm サン・ピエトロ大聖堂

 

銀行家のヤコポ・ガッリ(Jacopo Galli)の紹介でフランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグローラからサンタ・ペトロネッラ聖堂のための聖母マリアと死せるキリストの大理石像が委嘱された。枢機卿の墓のためにであったと推測される。サンタ・ペトロネッラ聖堂は初期キリスト教時代の旧サン・ピエトロ聖堂の南側に位置した比較的小さい聖堂であったが、ユリウス2世の新たなサン・ピエトロ聖堂建設のために間もなく壊されてなくなった。すなわち、この像はミケランジェロの存命中に予定された設置場所から移動させられたことになる。

契約は1498年8月だが、1497年11月には素材となる大理石の調達のための馬の代金が前払いされており、契約よりも前からミケランジェロは大理石のためにトスカーナのカッラーラに出向いている。

 

図像の元はアルプスの北からもたらされたと考えられ,中世末期、14世紀初頭にドイツで創出された新しい図像、いわゆる〈アンダハツビルトAndachtsbild(祈念像)〉の一つで,個人が自己の魂の救済を願ってその前で祈ることを目的として作られた。

〈フェスパービルトVesperbild(夕べの祈りの像)〉
Early Bohemian Pieta of 1390 -1400

ドイツでは〈フェスパービルトVesperbild(夕べの祈りの像)〉と呼ばれ,死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像。埋葬する前にわが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を,説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。呼称は埋葬の祈りが聖金曜日(復活の日曜日の3日前)の夕べにささげられることに由来する。

サン ピエトロ大聖堂の中に安置されている

ミケランジェロのピエタは、バッカスとは異なり、クラシック的な感情の高揚を生み出そうとはしていない。むしろ逆で、極めて抑制の効いた彫像になっている。

キリストの肉体には苦悶の跡はなく、聖母の顔には悲しみで乱された様子がない。膝の上の亡骸を一心に見つめていて瞑想をしているようだ。聖母はその左手の指先を伸ばして、参拝者にもキリストの犠牲による贖罪の意味を噛みしめるように促している。

聖母の顔には悲しみで乱された様子がない

 

キリストの肉体には苦悶の跡はない

その像では、イエスキリストがそれなりの人生経験を踏んだ姿に表現されているのに対して聖母が若々しい姿である不合理について、コンデヴィによれば、ミケランジェロが次のようなことをいったという。

聖母のみずみずしさと若さの華は自然によって保たれているばかりでなく、聖母の処女性と永遠の純潔を人々に証するために、神の御業によって守られているのだ。御子イエスにあっては神の子が人間そのままの肉体を持って、普通の人間のようにすべての経験をした方として表したいと思った。したがって人間性の中に神性をとどめる必要がなく到達した年齢が正しく示されるようにしなければならない。したがって不合理ではなく驚くことではないと。

聖母の帯に銘が刻まれている
「MICHELANGELUS BUONARROUTUS FIORENTINUS FACIEBAT」
「フィレンツェ人 ミケンランジェロ・ブオナローティがこれを作る」

バザーリ(「美術家列伝」1550)は、ミケランジェロが作品に署名を入れたのは、これだけであるといっている。

レオナルドの「最後の晩餐」のヨハネに似ている。

最後の晩餐 同時代の複製(部分)

ローマの前、ボローニャに行っていた。その際「最後の晩餐」を見た可能性が高い。

  • 三角形による安定性
  • 気持ちの交流を表現する
  • 顔のタイプ・・レオナルドが女性の顔に使うパターンと同じ

ミケランジェロはフィレンツェでは、レオナルドに逢っていない、ミラノに行ったかもしれない(1494にボローニャに行った) レオナルドが1501年にミラノからフィレンツェに戻る。サンティシマ・アンヌンツィアータ聖堂  オスピターレ・インノチェント孤児養育院 dell’Ospedale degli Innocenti の主祭壇のための「聖母子と聖アンナ」の原寸大のデッサン 1499~1501(喪失)

これが発表されたと同じ時期にミケランジェロがデッサンを残した。

St Anne with the Virgin and the Christ Child
c. 1505
Pen, 254 x 177 mm
Ashmolean Museum, Oxford

「女性の膝の上に大人の身体を抱く」という意味で、ピエタと同じ課題である。

レオナルドの「岩窟の聖母」とミケランジェロの「ピエタ」を比較

Pietà
1499
Marble, height 174 cm, width at the base 195 cm
Basilica di San Pietro, Vatican

Virgin of the Rocks (detail)
1483-86
Oil on panel
Mus馥 du Louvre, Paris

 

 

 

 

バザーリ によると、レオナルドは初めて絵の対象の人物に魂を入れた、まるで命を持っているかのように(精神を持っているかのように)。

レオナルドは、対象が夫々内面的なものを持っていることを観るものが感じるように、そしてそれらが相互に交流する様子が感じられるように描いた。

その手段としてピラミッド構造を創案し、物理的にも精神的にも密接につなげる工夫をした。ミケランジェロはこのピラミッド構造をレオナルドから学んだ。

「ピエタ」において、マリアの悲しみ、キリストの無念さ、そしてそれを超えた人間の贖罪などをピラミッド構造の中で静謐に峻厳に表現した(1490代)

二人は当時ミラノとローマで場所は離れていたが情報は双方とも知っていたはず・・影響があった。マリアの頭部の表現は近い。

ミケランジェロがレオナルドとつながる証はデッサンにもある。

フランス王ルイ12世の依頼による

Madonna and Child with St Anne and the Young St John
1499年頃
Charcoal with white chalk heightening on paper, 141,5 x 106 cm
National Gallery, London「

「聖母子と聖アンナ」画稿(下絵) レオナルド ロンドン・ナショナル・ギャラリー

「聖母子と聖アンナのためのデッサン」 ミケランジェロ 1505年ごろ  を比較

注:レオナルドは「聖母子と聖アンナと幼児洗礼者聖ヨハネ」には3作 取り組んだ(*) 

①1501頃 サンティシマ・アンヌンツィアータ聖堂の祭壇画用のカルトン(原寸大) 現在逸失

②1498~08 画稿として 現ロンドン・ナショナル・ギャラリー

③1512 第2のミラノ滞在時の作 ルーブル 自分でフランスに持ち込んだ3つの絵の一つ? 

ミケランジェロがレオナルドから受けた影響について述べたが、ミケランジェロの時代にローマでは古代の彫像が発掘され、彼はその影響も強く受けている。

 

「バッカス」

バルジェッロ美術館 階下の部屋に彫刻の展示室がある。そこの最重要な作品はミケランジェロの「バッカス」像  1497年(22歳の時)

バッカスは豊穣の神/酒の神。 サティロス(人間と山羊の合体で牧神)が後に付いていて、葡萄を食べている

Bacchus
1497
Marble, height 203 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

Bacchus (detail)

「バッカス」の像を依頼された時、‘古代の彫像を超えるような像がほしい’と頼まれた。

ミケランジェロは、1488年にサンタ マリア ノベッラ聖堂の奥をギルランダイオが装飾していたとき彼の弟子となったが、直ぐにメディチ家の彫刻庭園に行った。ナポリの「考古学博物館」に古代彫刻「バッカス」がある。ロレンツォ・メディチがナポリ王に献上したもので、この頃はメディチ家の彫刻の庭園にあった(前出)。ミケランジェッロは、古代彫刻を手本にして彫刻を学んだ。

ある日、サティロスを作っていると、一人の画商が素晴らしい、少し工夫をすれば、とてもよくなるといって、ローマのリアーリオ枢機卿に伝えた。

リアーリオ枢機卿がローマに来たミケランジェッロを呼んで自分の庭に作らせたのがこの「バッカス」、古代彫刻のように作ってほしいと注文した。ところがリアーリオ枢機卿は完成したこの彫刻が好きになれず一旦は受取を拒んだ。両者の話し合いの結果、両者と取引のあった銀行家のヤコポ・ガッリ、Jacopo Galli が引き取って彼の庭園に置かれた。

Garden of the Casa Galli
1532-35
Engraving
Staatliche Museen, Berlin
ミケランジェロのバッカスが置かれたガッリ家の庭のスケッチ
Maerten van HEEMSKERCK (ネーデルラントの画家)

このスケッチが描かれた1535年ごろまではまだローマのガッリ家の庭にあった。杯を持つ右腕が欠けている理由は分らない。古代彫刻と見せかけるために敢て折ったのかもしれない。現在は修復されてフィレンツェのバルジェッロにある。

ミケランジェロと古代彫刻との関係について

シスト4世教皇がローマ都市再建計画を起こしたのが1471年であった。次いでユリウス2世は、ブラマンテ、ミケランジェロ、ラファエロを活用してローマを新しくしようとした。その開発工事の中で、地下から古代ローマ時代の彫刻が出ていた。

1489年ローマでアポロの像(ベルベデーレのアポロ)が発掘される・・ヴァチカンのベルベデーレ宮に配置された。 ローマ時代のコピーである。オリジナルはBC4cクラシック期の彫刻である。

これがこの時代の彫刻家たちに刺激を与えた。

彫刻は、絵画と違って人物像のみを描き他を省く。ポイントはポーズということになる。S字形の正中線とコントラポストがクラシック期の特徴である。ポーズでは頭が大きい/小さい 身体をひねる/伸ばす

彫刻を見るポイント

:人体の描き方==石であって石でなく、人の肌を感じる

:内面性を感じる                     がある

「アポロ」が、人物像としてどうなのか(ローマ時代の表現)、を検証

ベルベデーレのアポロ  ユリウス2世は古代彫刻が好きであった。

1489年にグロッタ・テラータで発掘、まだジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の時代である。1506年からここに置いてある。

古代彫刻は、紀元前1世紀に完成してしまう。ローマ時代になって、ギリシャの彫刻をブロンズのオリジナルから大理石の摸刻にしたといわれている。(真偽は分からない。)

レオポリス(ギリシャ)をコピーした。当初はブロンズと大理石の両方があった。 紀元前4世紀のクラシック期の特徴であるコントラポストのポーズをとる。

コントラポストの意味=相反するものを並べる。知性、理性←→バッコス  盾か弓を持っていた。

ミケランジェッロが強い関心を持った。アポロのデッサンが残っている。ラファエロ・リアーリオ(教皇ジュリアーノの母方の甥)の親戚であった。

「最後の審判」のキリストの顔 1535年~ アポロの顔に近い

The Belvedere Apollo

ローマは、ギリシャの様式をそのままコピーしたので、ローマの摸刻からギリシャ時代(特にクラシック期)の美術の特徴を見ることができる。

ギリシャ クラシック期(BC5C~)の特徴

粘土で像を模り、ブロンズ(青銅)を流し込んで作る。うすい銅板で、中は空洞・・そのため自由な動きが表現できるようになった。‘ひねり’身体にひねりを入れて表現することができた。

The Belvedere Apollo
(手を修復後)

アポロは正面向きではない、少し傾き、頭にひねりを入れている。動きを出しながらも安定感がある。そのクラシック期の代表的な質の高い彫刻家の作ったものをローマ時代にコピーした。

Bacchus 1497 Marble, height 203 cm

The Belvedere Apollo

 

(その後の時代になりヘレニズム期(反古典)には、螺旋でひねりすぎて誇張が出る)

地下から発掘されたときのイタリア人に与えたショックは大きかった。それを超えるものがほしいと考えた。それができるのは、ミケランジェロしかいない、彼へ大きな期待が集まった。

古代の神々も多種多数いる、それを写実に造形することで、人間の理想の形を表現したものに到達していた。

プラトンの考え・・現実は「理想形の不完全な写し」である・・が根底にある。プラトニズム

バッカス(デオニソス)は、酒、性、土地、豊饒の神。写実主義の彫刻である。中世に写実主義が崩れたのは、キリスト教の神は見えないものであるという考えから来ている。

ヤハベは唯一絶対・・抽象的に表現するようになっていった。それが中世700年も続いた。キリスト教以前の神々の像が地下から発掘されるにしたがって、神は人間の理想形であるという考えが生まれる。加えて、古代文化研究(メディチ)が成果を出し始める。

それ以降、人間の像に対する考えが変わっていく。盛期ルネサンスへと転換してゆく。という流れになる。

‘アポロ’に負けないものを作るとの意気込みで、バッカスは制作された。アポロとバッカスでは性格は全く異なる。知性の象徴と本能の象徴の違いがある。酒を一方の手に、他方の手に葡萄を持たせて、人間の理性を失わせて本能に任せたものになる。

牧神サティロスを側に置く(上半身人間、下半身ヤギ)、サティロスとは人間とヤギの混ざったもの・・・金欲と性欲を表現する。酒を飲んでチドリ足をしているバッカス。良く表わされている。

アポロとサティロスはよく対比される。理性と本能

アポロの竪琴対サティロスの笛(アウロスという木管楽器)の音楽合戦の例

ヨーロッパでは、絃は管に勝るという俗諺がある。ミネルバは自分で作った笛をほっぺたが膨れるので捨てたという神話もある。それを拾って巧く吹けるようになったのがサティロス。アポロの竪琴に挑戦して音楽合戦をしたあげくに敗北して生きながらにして皮をはがれるという話。

Apollo and Marsyas (ceiling panel)  By Raphael. 1509-11
Fresco, 120 x 105 cm  Stanza della Segnatura, Palazzi Pontifici, Vatican

地上の情熱は神の調和には勝てないという寓意

バッカスは、獅子(ライオン)の毛皮を持っている・・・何故か分からない。 古代ギリシャではヘラクレスがもっているもの。弓矢、棍棒、鎌、と獅子の毛皮はヘラクレスの象徴である。一説では、虚栄を表現する。すなわち、栄光の虚しさ、時間の儚さ、を表現したとも。

コンデヴィは、持っているのは毛皮を虎の皮と見做して、本来なら聖獣である虎が捧げられるのだが、ミケランジェロは皮を描いて、酒をむさぼり飲むものは挙句の果ては死に至るという寓意を込めて彫ったという。

「ピエタ」と同じ時期に作った。ピエタはレオナルドを学んだ成果が発揮され、バッカスは古代彫刻に刺激された成果が発揮されている。

このときのミケランジェロは、全く異なるものを同時進行で作っていたことになる。

「ダビデ」

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

ミケランジェロがローマで仕事をしている間に、フィレンツェでは政治構造が劇的変化をとげた。1498年にサボナローラが処刑され、貴族と市民の妥協の産物である大評議会の後、1502年末終身の国家元首ゴンファロニエーレが設けられ、ソデリーニが選ばれ、1512年まで続く。ミケランジェロはこうした政治の混乱に巻き込まれたわけではないが、様々な影響は受けた。彼の芸術は共和国の栄光をたたえるために用いられた。「ダビデ」像もこうした時期に制作され、政治理念と強く結びついている。

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

1502年 ミケランジェロはフィレンツェに戻り、「ダビデ」像を作る

ドナテッロの「ダビデ」 バルジェッロ美術館と比較

David by DONATELLO
1430s
Bronze, height 158 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

何故 「ダビデ」がフィレンツェで多く描かれていたか?

ダビデは旧約の英雄で最初のイスラエルの王。大敵ゴリアテを退治した、BC1000頃のこと。旧約の預言者達が、ユダヤは、シリア、ペルシャ、エジプト、バビロンから攻められる、しかし、メシアがいずれは現れる。それはダビデの子孫から出ると予言していた。

マタイ福音書には、ダビデからの系譜が書かれている、これをキリストのタイポロジー(予型) という。ダビデの物語は、ドラマティックであり、当時のフィレンツェに状況が似ている。(大国に囲まれて孤軍奮闘)ペリシテ人が敵対していたがこれが大部隊で、無敵のゴリアテが大将だった。少年ダビデが立ち向かう。投石器だけを持って立ち向かった。石で先制して、相手のゴリアテの剣でゴリアテの首を切ることに成功し勝利した。

フィレンツェの状況は、ミラノ、ヴェネツィア、フランスからの攻めがあった。ミラノとの対抗は、知性で勝負する。

ヴェロッキオの「ダビデ」は、1470(70以前)に作られた。

The Young David 1473-75
Bronze, height 125 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

The Young David

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミケランジェロは、既に一度他の人が彫りかけて失敗し放置されていた大理石を渡された。正面からの屈強な体格に比して真横から良く見ると肉厚が薄い。それはこの元の材料の大理石の制限のためである。

ダビデ像
側面からの姿

しかし、バランス上は全く問題なく彫られている。肩に持っているものは、投石器の紐

顔の特に目の表情の鋭さ・・・これからやっつける強い意志を鋭く表現した。

ダビデ像 (頭部部分)

「ダビデ」伝統的な図像とは反対で、戦い済んで勝利した後の姿ではなく、当にこれから戦いを挑んでいく姿である。

フィレンツェ・アカデミア美術館の「ダビデ像」(1501~1504)のポーズをコントラポストにした。「アポロ」をモデルにして、アポロを見た記憶を基にして作った。

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

The Belvedere Apollo

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足の置き方は全く同じ、首のひねり(90°)も同じ。

当時の芸術家が乗り越えるべきものとして三つの課題があった。

  • 自然を超える・・人間を超える
  • 自然に頼った古代の人たちを超える
  • 先人たちの作品を超える

ダビデ像(手部分)

こうした中でミケランジェロは、理想の人間像を描くようにしようと変わった。

「ダビデ」  様式の特徴:

コントラポスト・・どちらかの足に体重を乗せて他のほうをリラックスさせて、そのアンバランスの中に人間らしさを表現する様式、コントラポストを上手く活かそうと考えるようになった。「ダビデ」(1501~1504)は、その影響が最も良く出たものといえる。

ダビデの像が完成した時、それをどこに置くか審査した。審査員にはレオナルドがいた。レオナルドがデッサンしたものが残っている。レオナルドに強い印象を残した証といえる。

Study of David by Michelangelo (detail)
1505 by LEONARDO da Vinci
Pen, ink, black chalk on paper
Royal Library, Windsor

候補の中から「市庁舎の入り口」のパラッツォ・ベッキオ に決まった。(現在は摸刻が置かれている。実物はアカデミア美術館)当時のソデリーニの共和国の政治理念と強く結びつけられた。

バッカスダビデは、ミケランジェロのクラシック期様式の彫刻である。

 

「聖母子と洗礼者ヨハネと天使たち」(マンチェスターの聖母) 97年 未完 ロンドンN.ギャラリー

ミケランジェロの帰属が決まったのは19世紀。(1857年マンチェスターの展示で市民が大興奮)左の二人の天使の色彩は手付かずのままである。

Virgin and Child with St John and Angels c. 1497
Egg tempera on panel, 105 x 77 cm
National Gallery, London

この頃バッカスの受取り問題の齟齬が元でリナイオーリ枢機卿との間が上手くいかなくなりローマでの立場が不安定になっていた。ミケランジェロがこうした状態の中で、自のお慰みのために彫刻を彫ったり、亡命中のピエロ・デ・メデチの後援を期待しながら当てもなく板絵を描いたりしていたらしい。(父や家族との手紙のやり取り)そうした時期の絵であると思われる。ヨハネのポーズにクラシック期の特徴が見て取れる。

「聖母子と幼児聖ヨハネ(トンド)」 浮き彫り彫刻 2点

Madonna (Pitti Tondo)
1504-05
Marble, 85,8 x 82 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

Madonna and Child with the Infant Baptist (Taddei Tondo)
1505-06
Marble, diameter: 82,5 cm
The Royal Academy of Arts, London

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブルージュの聖母」(彫刻)   等がこの時期に製作された。

Madonna and Child
1501-05
Marble, height 128 cm (including base)
O.L. Vrouwekerk, Bruges

 

  1. 古典的な様式から反古典主義の彫刻への変化

作品

  • 「システーナの天井画」(制作途中の途中(1510年頃)から様式が変わる)
  • 「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」ルーブル 1513年

古典的な様式が完成されてしまうと、それを超えるものはどうするか?芸術家たちが模索し始める。

社会的な不安定:世紀末の思想が広がる(最後の審判)不安が広がる。煽る聖職者も出てくる・・・フィレンツェのサボナローラがその典型例。また、アルプスの北では宗教改革の波が広がる。キリスト教が二分されることとなる。

こうした時代の流れの中で、古代ギリシャのヘレニズム期の彫刻すなわち反古典主義の彫刻が発掘された。「ラオコーン」1506年 の発掘が大きな衝撃となった。

Laocoonte e i suoi figli,ラオコーンと彼の息子たち
ヴァチカン市国『ヴァチカン美術館』ピオ・クレメンティーノ美術館

ヘレニズム期・・アレキサンダー大王の後(BC3~2c)の時代の作品

「ラオコーン及びその息子たちのグループ」像は、キトウスという皇帝の家の庭にロードス島出身の三人の摸刻を専門にする彫刻家が彫った。という話が伝わっている。紀元前200年にペルガモン王国で制作された銅像がオリジナルであるとする意見もある。

1506年1月に、コロッセオ近くのエスクイリーノの丘のブドウ畑から発見された。地下室の中に置かれていた。話を聞いたユリウスが購入。発見した人には、ローマ税を生涯上げる約束。これを飾るためのコーナーを作り、ついでに庭園も造った。ミケランジェロは、よくここを訪れたという。

ラオコーン(及びその家族のグループ像) (BC150年)主題について

ベルギウスがアイネアを著作した時期。物語は、トロイアの戦争においてギリシャ軍は戦局を打開するために、引き返すと見せかけて、弁の立つシノーンに木馬を持たせてをトロイに派遣。トロイの聡明な神官であるラオコーンはギリシャの策略であると見抜いて忠告した。それを知ったギリシャを支援する神はラオコーンにミネルバの2匹の蛇を送り込んでその二人の息子と共に締め殺させた。アイネアはトロイから逃げ出してイタリア半島に渡りローマを作った言う話がローマでは語られていた。

Laocoonte e i suoi figli,  ラオコーンとその息子たち                   ピオ・クレメンティーノ美術館「円形の間」Sala Rotonda  の様子

 

 

 

 

ダイナミズムと不安定感を強調して動きを持たせている。

ミケランジェロはこれを見てから様式が変化する。システーナ礼拝堂の天井画ルネッサンスが変わってくる。

特徴:ダイナミズムがキーワード・・感情を表すようなポーズ(ひねりを強く顔の表情を豊かに表現する) この発見がプッシュする形で、1510年頃から古典主義から反古典主義へ変わり始める。これを最初に具現したのがミケランジェロである。

ミケランジェロは発掘の責任者になった。そこで学んだ成果を彫刻で出してくる。

古代彫刻アポロとラオコーン

クラシック期とヘレニズム期の違いは、身体のひねりが大きくなる。躍動感を強調する。

1504年には、フィレンツェ政庁の大評議会ホールの壁面を飾る巨大な壁画「カッシーナの戦い」のカールトン(cartoon=原寸大図)に取り掛かっていた。聖ヴィクトリウスの祝日(1364年7月29日)におけるピザに対するフィレンツェ軍の勝利を現すもの。この時期のミケランジェロの最も重要な作品である。残念ながら、このカールトンは17世紀までには寸断された挙げ句に全て消失してしまった。ヴァザーリが1540年ごろバティスアーノ(アリストーテレ)ダ サンガーロに描かせたのがこの壁画の構図を最もよく伝えているといわれる。現在ノーフォーク(Lord Leicester’s Collection, Holkham, Norfolk)にある。しかし、これも20年以上前にかかれた素猫類に基づく二次的な模写である。もう一方が、1440年のミラノとの勝利を記念した「アンギアーリーの戦い」をレオナルドに委嘱していた。いずれも未完成のまま消失してしまった。

La batalla de Cascina(カッシーナの戦い)
カールトン模写 By Sangallo
Lord Leicester’s Collection, Holkham, Norfolk

 

[教皇ユリウスⅡ世の教皇選出と墓標の制作依頼、システーナ天井画製作依頼の経緯]

ユリウス2世は、一般には盛期ルネサンスの生みの親として知られている。新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設をブラマンテに委嘱し、ヴァチカン宮殿の公的な諸執務室の装飾にはラファエロを起用した。システーナ礼拝堂の天井画の装飾にはミケランジェロを指名した。

Portraits of Julius II as an old man exist in three versions: in the National Gallery, London, in the Uffizi Gallery, Florence and in the Palazzo Pitti, Florence. the London painting has proved it to be the original.

Portrait of Julius II 
1511-12
Oil on wood, 108 x 80,7 cm
National Gallery, London By RAFFAELLO Sanzio

ユリウス2世とミケランジェロとの関係については、双方の個性の強さがもとで時にはぶつかり合いが生じ、また教皇庁とフィレンツェ政庁との政治的な駆け引きに巻き込まれることも絡み単純ではないものがあるのでここで少し触れておきたい。

  • 1503年に10月30日ユリウス2世が教皇に選出された。 (ジュリア―ノ・デッラ・ローブレ枢機卿)

ユリウス2世の選出は意外なものと受け止められた。彼は賄賂と政治的取引でこの地位を獲得した。しかしユリウス2世は選挙前の約束はことごとく反故にして、名だたる独裁的教皇に成った。

同時代人のユリウス人物評は、「頑固で粗暴、扱いづらい人物」。

2度も戦場に兵を送った教皇である。

  • 1度目 ペルージャとボローニャを教皇領に取り戻すため
  • 2度目 フランス軍をイタリアから追い払うため

ユリウス2世の関心が、まだ若いミケランジェロに向った経緯は明らかではないが、フィ

レンツェのソデリーニ政庁と教皇ユリウス2世との間の政治的取引に利用されて、ミケランジェロはユリウス2世から断ることのできない墓碑の彫刻を依頼される(1505年)。その経緯下記

  • 1505年4月 ミケランジェロ カッラーラに大理石の調達に出かける
  • 1505年5月 ミケランジェロは ユリウス2世の巨大な墓碑を作るように要求される
  • 1506年1月 大理石を受け取るために、フィレンツェを経由してローマに行く
  • 1506年1月 この年 ラオコーンが発掘される
ユリウス2世の墓碑のための多数の計画の一つである。過去の度の墓碑よりも巨大な墓を作るように要望された。

Tomb of Julius II  1505年当時
ユリウス2世の墓碑のための多数の計画の一つ。要望は過去のどの墓碑よりも巨大な墓を作る。
Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

墓碑の製作を始める。

1506年4月 ミケランジェロは、突如製作を中止してフィレンツェに戻る。

原因は明らかではないが、教皇ユリウスは当初の契約条件を無視するばかりか、彼の性格からしてミケランジェロが正しいと主張するとそれが対立を生み、いつか自分の命にかかわると思ったらしい。当時ユリウス教皇はブラマンテに新しいサン・ピエトロ大聖堂の建築を委嘱していた。ブランマンテとミケランジェロとの間には確執があった。

  • ユリウス2世は再三にわたりフィレンツェ政庁のソデリーニに対してミケランジェロをローマに戻すように要求している。
  • ソデリーニは、ミケランジェロの説得に悩む。(教皇との戦争にはしたくない?)

ミケランジェロは、墓碑はフィレンツェに居て作る方がよいと考えたらしい。

ところがユリウス2世は、1506年ごろには、仕事の優先順位を変えて、墓碑を後回しにして天井画をミケランジェロに描かせようと考えるようになる。

  • 1506年11月 ユリウス2世はボローニャに遠征。その際、ミケランジェロをボローニャに呼びつける。(ミケランジェロはこのとき謝罪し命乞いの覚悟でボローニャに行っている。)

ユリウス2世がボローニャの聖堂前に巨大なユリウス像の制作を命じる。(3年後、破壊される)

  • 1508年ミケランジェロは一旦フィレンツェに戻り家を購入する。
  • 1508年に愈々本格的に墓碑制作に取り掛かるべくローマに行く。

ミケランジェロは、この墓碑制作の仕事に乗り気になっていたらしく、ローマに行く前にカッラーラに大理石の調達に出かけている。しかし、ユリウス2世はこの頃既に、優先順位の変更を決めていた。

  • ミケランジェロは、意に反してシステーナ天井画(*)を先に描かざるを得なくなった。 「ここ 」を参照

ミケランジェロは、システーナの天井画を製作中に様式の変化を始める。システーナ礼拝堂の天井画でラオコーン的な表現を試みている。例えば デルフィの巫女は安定したイメージ、ポーズであるが、しかし、リビアの巫女ではダイナミズムが発揮されたポーズ、配色も違っている。古典(クラシック的)から反古典(ヘレニズム的)への変化の具体例である。

預言者ヨナのポーズは反古典(ヘレニズム的)になっている。

 

天井画は、9年、10年、11年の3度、足場を変更して全体を完成。ルネッタは1512年に。

ミケランジェロは、10年前後の足場の変更を機に自分の天井画を描きながら、反古典主義に変化する。

    

1506年のライコーンの発掘は、ミケランジェロに強い影響を与えた。

1511年に天井画が公開される。(ルネッタは描かれていない段階)

The ceiling 1508-12 Fresco
Cappella Sistina, Vatican

4つのグループに分けられる。
中央;創世記から9場面
4隅;ユダヤ救済物語
周囲;預言者と巫女
ルネッタ;キリストの先祖たち

結果的に、ユリウス2世に関心を寄せられたことによって、彼による強引な制作要求と優先順位の変更が、ミケランジェロの世紀の傑作を生み、後世に残すこととなった。

その一方で、1505年から度々の計画変更によって、最終完成1545年までほぼ半生にわたり彼を悩ますユリウス2世の墓碑制作というお荷物を背負うことにもなった。

Tomb of Julius II
1545
Marble
San Pietro in Vincoli, Rome

1505年の計画
Tomb of Julius II (project of 1505)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1513年の計画案
(project of 1513)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

1532年の計画案
 (project of 1532)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」ルーブル 1513年~16年

魂を肉体が奴隷になって背負っているという彫刻。

Slave (dying) 「瀕死の奴隷像」
c. 1513
Marble, height 229 cm
Musee du Louvre, Paris

Slave (rebelling) 「抵抗する奴隷」
c. 1513
Marble, height 229 cm
MusEe du Louvre, Paris

天井画の完成後間もない1513年2月にユリウス2世はこの世を去る。また、1512年9月にはフィレンツェは共和制が崩壊しメディチ家が復権していた。ユリウス2世の後任はメディチ家のレオ10世(ジュリアーニ)が即位した。

この混乱期にもユリウス2世の墓碑の制作がミケランジェロの頭を悩ませた。

1513年の計画案
Tomb of Julius II (project of 1513)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

1513年5月にユリウス2世の遺言執行人たちと新しく変更を加えたユリウス2世の墓碑の契約をした。依然として巨大ではあったものの、最初の計画からは大幅に縮小されたものとなった。

1513年から1516年にかけてミケランジェロはこの制作に没頭している。

この時期に制作された彫刻が「モーゼ」像と「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」である この時期のこの3点は彼の不朽の名作となった。

「モーゼ」像は、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に据えられた墓碑の中心の彫刻になっている。

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」は、ミケランジェロ自身が、墓碑制作についての契約の紆余曲折の中で墓碑の設計から切り離して独立像の彫刻とし高名を得た。後に友人に寄贈し、その友人がフランスへ持っていった。(イタリアの美術史家に言わせれば、その友人がフランスへ“持ち去った”ということになる。)

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」の名前は後世に付けられた通称であり、魂を肉体が奴隷になって背負っているとは言っても、これらのポーズの解釈は実は定まっていない。

「瀕死の奴隷像」は、眠りから目覚めかけているようでもあり、死に瀕しているようでもある。当初の墓碑の計画では自由学芸を表した諸像の一つであるとも言われる。一方が抵抗しているのに対して一方が黙従を示していることからユリウスの死後の文化の服従的状態をミケランジェロが暗示しているという説明もある。

「瀕死の奴隷像」(部分)

「抵抗する奴隷」

 

様式的には、ラオコーンの発掘に刺激を受けたミケランジェロが古典から反古典に変化した直後のヘレニズム様式の傑作である。

反抗する奴隷のポーズはもともとが墓碑の角に配置されるものであったことから色々な角度から見ても自然なポーズとして考えられた。

 

 

 

(そのほか)

「聖家族と幼児洗礼者ヨハネ」板にテンペラ(パネル)トンド直径120cm 1506-8年

The Holy Family with the infant St. John the Baptist (the Doni tondo)
c. 1506
Tempera on panel, diameter 120 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

ウフィチ フィレンツェ 1985年に修復された(絵、額縁共に)。

The Doni Tondo (framed)

 

額縁は同時代のフランチェスコ・デル・タッソ作と推定されている。額入りの直径は170cm

トンド・ドーニ(ドーニ家の円形画)として、フィレンツェにあるミケランジェロ唯一の絵画作品、かつ、壁画以外の持ち運び可能な唯一の作品。

「ピエタ」・・サン・ピエトロ の成功で彫刻家としての地位を確立してフィレンツェに戻っての作品

アニョロ・ドーニ、マッダレーナ・ドーニ夫妻からの依頼、娘の誕生(1507年9月8日)を祝うもの。

Portrait of Agnolo Doni
1506
Oil on wood, 63 x 45 cm
Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence
By Rafaello S.

Portrait of Maddalena Doni
1506
Oil on panel, 63 x 45 cm
Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence
By Rafaello S.

 

 

(少し前 ラファエロが同夫妻の肖像画を描いている)

 

 

 

 

 

 

 

聖家族 聖ヨセフに幼子イエスを手渡している(あるいは受け取る)マリアを中心に三人が螺旋状に重なり合い、明るいが冷たい色調と、光の効果などで聖人家族の峻厳な雰囲気を衝撃的に表現している。

身体や手足のひねり具合、筋肉表現などミケランジェロ彫刻の特徴がこの絵には既にある。マリアの腕の表現など女性のものとは思えない。この後ミケランジェロがローマに行きシステーナの天井画を制作するがその中に描かれる預言者や巫女のポーズには、マリアのポーズから引き続くものが有る。

また、前景の聖家族とは対照的な表現が、背景の壁に凭れたり座ったりしている裸体の五人の若者達である。そのうちの二人のポーズには1506年にローマで発掘された古代彫刻[ラオコーン]を取り入れている。他の若者もやはり古代彫刻からそのポーズを取り入れている。

 

前景と後景の間をつなぐしきりの右側に寄りかかる幼児洗礼者ヨハネ。この意味はまだ不明であるが、聖書の中のキリストの誕生とヨハネによる洗礼の内容を象徴的にみせる表現といわれ、キリスト教以前の古代異教徒の世界とキリスト教後の新しい世界を区分している。額縁にはキリストと天使と預言者の5人が彫られ、絵の内容と関連付けてその意味を暗示している。

ミケランジェロがローマで古代彫刻を直に見聞きし学びそれに強い影響を受けたことがこの作品にも表れている。

盛期ルネサンス絵画の展開(その六) 終わり

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資料;;同時代伝記

  • コンデヴィ,A.「ミケランジェロ伝」 著  高田博厚 1978 岩崎美術社

Ascanio Condivi [Vita di Michelangelo Buonarroti,] ed E.SpinaBarelli,MIan.

――The life of Michelangelo trans.by A.S.Wohl Baton Rouge 1976

 

  • ヴァザーリ,G.「ルネサンス画人伝」 平川祏弘他 1982白水社

Giorgio Vasari [La vita di Michelangelo nella redazioni del 1550 e del 1568  ed. Paoro Barocci, Milan and Naple 1962

――The life of Michelangelo, in The lives of the Artists,trans.by George Bull, Harmondworth, 1965

――Lives of the Most Eminente Paintes,Sculptors and Architects, trans.by Guston du C.   de vere with an introduction by David Eksedjion.2 vols. London 1996

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資料;;伝記及び作品論(解釈論)

  • 岩波世界の美術「ミケランジェロ」アンソニー・ヒューズ著 森田義之訳、    2001岩波書店

Athony Hughes  [Michelangelo]、 Phaidon Press Ltd. 1997

盛期ルネサンス絵画の展開(その七)に続く

ミケランジェロ システーナの天井画以降の後期の展開

 

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盛期ルネサンス絵画の展開(その五)

–レオナルド ダ ヴィンチ の絵画(その3)

レオナルド晩年の探求課題

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晩年の作品のうち「聖母子と聖アンナ」、「女性の肖像《モナ・リザ》」、「洗礼者ヨハネ」(いずれもルーヴル美術館所蔵)の3点は、レオナルドがフランス王の招きに応じてアンボワーズに移る際にも携帯し王の元で死ぬ時まで、手元に持ち続けたという。レオナルドがこれらの絵を最後まで完成と見做さず、死ぬ直前(1517年ごろ)まで求め続けたものは何なのであろうか?ルネサンス美術の集大成ともなるべきその目的を探る。

モナ・リザ、 聖母子と聖アンナ、 洗礼者ヨハネ

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1499年秋 フランス軍のミラノ侵攻により、ルドヴィイコ・スフォルツァはミラノ君主の座から追放された。最大の理解者であり庇護者であった君主を失ったレオナルドは、17年間住み慣れた町を離れ、マントヴァ(ミラノ公妃ベアトリーチェの姉イザベラ・デステがマントヴァ公妃)に立ち寄った後、ヴェネチアを経由して、1500年に再びフィレンツェに戻った。

ミラノからフィレンツェに戻った1500年から、イタリアを去ってフランスに行く1516年までの間のレオナルドの生活基盤は定まりがなかった。1502年から1503年までと1506年から13年まではミラノを基盤にしたが、1513年にはローマに移った。しかし、彼の晩年の芸術活動は主に1500年から1506年のフィレンツェで行われたといってよい。

「聖母子と聖アンナ及び幼児聖ヨハネ」の画稿1499年(ロンドンナショナルギャラリー)      フランス王ルイ12世の依頼による

Madonna and Child with St Anne and the Young St John
1499年頃
Charcoal with white chalk heightening on paper, 141,5 x 106 cm
National Gallery, London「

ロンドン版「聖母子と聖アンナ及び幼児聖ヨハネ」の画稿は、レオナルドがミラノを離れる直前の1499年の秋にフランス王ルイ12世から依頼されて制作されたと推察されている。王は1499年10月5日から11月7日までミラノに滞在した。ルイ12世の王妃の名前がアンヌ《イタリア語でアンナ》で、王がミラノ到着の同じ日に女児を出産していることから、出産の記念の祝いの絵としてアンナに因む絵を依頼された。

レオナルドは、聖アンナを主題にした作品として、1483年に「無原罪の御宿り」信徒会から礼拝堂の祭壇画を依頼されて、「岩窟の聖母」を制作した経験があった。《この時点ではいまだ訴訟中》

Concezzione Immacolata すなわち、アンナもまた、処女のままマリアを生んだという純潔を重視したフランチェスコ会の考え方を、絵画で表現したのはレオナルドが最初である。しかしこの時は、アンナの彫像を直接は描かず、「岩窟の中」という抽象的な概念でアンナを表現した。

フランス王からの依頼は王妃アンヌのためのものであり、アンナの具体的な彫像を描き入れるという岩窟の聖母の実績を踏まえた上での新たな課題を克服する必要があった。そして、それは人物像を等身大にしながら、しかも二人の全身像を140cm*100cmの画稿の中に収めるというそれ以前には例がない課題である。

複数の大人を等身大で描くため、「座る・身体を曲げる・重なり合う」

レオナルドはこの難しい課題を、複数の大人を緊密に重なり合わせて小さい画面に纏まりのある構図を作る技術「座る・身体を曲げる・重なり合う」という人間の自然な仕草をピラミッド構図の中に密に連動させて描くことで見事に克服した。当にレオナルドならではの優れた創意である。ロンドン版の「聖母子と聖アンナ」の一番の特徴はこの創意にある。しかし、この画稿は実際の油彩画の土台になる同じサイズであるにもかかわらず油彩画には転写されずじまいであった。アンナの左前腕部にいたっては、予言をするように天を指さしてはいるが、ただ単純に書き入れた状態のままである。レオナルドがこの絵を完成させなかった原因は謎である。どのような困難がレオナルドを悩ましたのか。

サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画  画稿のみ完成(失われた) 1501年~

フィレンツェに帰国後、セルヴィ修道会の依頼によりサンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画に取り掛かった。もともとフィリッピーノ・リッピが依頼されていたが、レオナルドが製作を望んだためにフィリッピーノが遠慮してレオナルドに譲ったらしい。レオナルドにとっては「聖母子と聖アンナ」のロンドン版の画稿を描いた経験の直後に、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画の同主題の計画を目の前にして意欲を燃やしたと考えられる。

レオナルドは、セルヴィ修道会から賓客として寓され、工房も与えられて制作を行ったようである。このような便宜を受けつつ、長い時間をかけてようやく画稿のみを完成させたらしい。

ヴァザーリによると「それはあらゆる美術家たちを驚かせ」「老若男女がまるで崇高な祭礼に出かけるように2日間にわたり彼の部屋を訪れた」という。「レオナルドが成した奇跡に、これら全ての人が驚嘆したのである」とヴァザーリは称賛している。

この画稿は、残念ながら現存しない。

それを直接見たと思われるフラ・ピエトロ・ノヴェッラーラが、マントヴァ公妃イザベラ・デステ宛に書いた1501年4月3日付の手紙が残っている。それによると「レオナルドの日常は多様で定まりがなく、・・・彼がフィレンツェに来て以来、制作した仕事は一点の画稿のみです。そこには・・・・・・・(画稿の構図が具体的に詳細に記述されている)・・・・・・なお、この素描はいまだ完成しておりません。」

「聖母子と聖アンナ」 1501-1517頃 油彩画  ルーヴル美術館

The Virgin and Child with St Anne
c. 1501~1517
Oil on wood, 168 x 130 cm
Musée du Louvre, Paris

2012年に修復が終わりきれいな色彩がよみがえった。

2012年に修復が完成 右が修復前

この修道士フラ・ピエトロの記述は、ロンドン版の画稿とは細部で微妙に異なっており、むしろルーヴル美術館所蔵の「聖母子と聖アンナ」を想起させる。したがってこの油彩画がもともとは、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画となるはずのものだったと推測される。《松浦先生の著書「イタリア・ルネサンス美術館」P.398》

画稿と言う性質上から見て、レオナルドはこの画稿に基づいてすぐに油彩画の制作に取り掛かったはずである。しかし結局のところ油彩画は約束のアンヌンツィアータ聖堂の主祭壇には収められず仕舞いであった。

1516年にアンボワーズに移り住んだレオナルドをルイージ・タラゴーナ枢機卿一行が1517年10月10日に訪れた際の秘書の記録があり、この時に見せてもらった油彩画の記述が、ルーヴル美術館の油彩画と同一と見做されている。このことから、アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画「聖母子と聖アンナ」は制作の途中から何らかの重要な課題の追求のために本人の意思で完成と見なすことができず、手元に持ち続けたということになる。

この絵では、聖母マリアは幼児キリストが子羊と戯れようとするのを制するような仕草をしている。一方聖アンナは、聖母マリアに対してキリストがすすがままに任せるように伝えている。子羊は犠牲の象徴であり、幼児キリストは自分が人間を救済するために将来進んで死ななければならない運命を受け入れなければならないのだ。この場合、聖母の複雑な表情と仕草は人間の母親の葛藤の様子を示すものであり、一方聖アンナの言葉はキリスト教会の役割を象徴している。

「聖母子と聖アンナ」の画稿(ロンドン版)と「聖母子と聖アンナ」油彩画(ルーヴル

版)との比較

Madonna and Child with St Anne and the Young St John
1499年頃
Charcoal with white chalk heightening on paper, 141,5 x 106 cm
National Gallery, London「

The Virgin and Child with St Anne
c. 1501~1517
Oil on wood, 168 x 130 cm
Musée du Louvre, Paris

 

 

 

 

 

 

 

 

ロンドン版の画稿 を ルーヴル美術館の油彩画と比較すると全体の構図は良く似ており、「座る・身体を曲げる・重なり合う」という人間の自然な仕草をピラミッド構図の中に組み合わせて描くという点はロンドン版の創意がアンヌンツィアータ聖堂のそれに継承されているということになる。

「無原罪の御宿り」信徒会からの依頼を受けて「岩窟の聖母」で「聖アンナと聖母子」の主題を新しく発想したレオナルドの中ではルイ12世の依頼に際して、ピラミッド構図を進化させ、二人の大人のポーズを緊密に重なり合わせて小さい画面に纏まりのある構図を創意し、そしてフィレンツェに戻った際のアンヌンツィアータ聖堂の計画を積極的に請ける意欲に結びついていると考えられる。

 

どちらもすべての登場人物を二等辺三角形に納める「ピラミッド構図」を採って、安定感と人物間のつながりを密接にしている。140cm*100cmの平面に等身大の大人二人の人物をこの構図を納めるための工夫としてロンドン版では座る聖アンナの右太ももの上に身体を前に曲げた聖母マリアが重なるように座るという工夫を凝らした。基本的な構図の考え方「座る・身体を曲げる・重なり合う」によって小さい画面に等身大の人物を納めるという様式はルーヴル版でも採用されている。また、ルーヴル版の聖アンナと幼児キリストの顔立ちは、ロンドン版の聖アンナとヨハネのそれによく似ている。

やや異なる点として、

  • 登場人物はロンドン版がヨハネを配して幼児キリストが彼を祝福しているのに対して、ルーヴルの方はヨハネをなくして幼児キリストが羊と戯れるように変化している。
  • ロンドン版のマリアは幼児キリストをただ抱きかかえているのに対して、ルーヴル版は、羊と戯れるイエスの行為を制するように引き寄せている。

しかし決定的に異なる点は、

マリアの顔の表情である。ロンドン版の聖母マリアの表情が微笑みながら誇らしげにイエスを見ているのに対して、ルーヴル版の聖母マリアの表情は単純に一つの感情を示そうと描かれているようには思えない複雑な様子が伝わる。キリスト教において子羊は人間の代わりに神に捧げられる犠牲の意味を持つ動物である。わが子がかわいい子羊と戯れるほどに成長した喜びと、その子が成長して人々の犠牲になって死を遂げる運命を持っている悲しみという、真逆が同居している心情を、マリアの顔に表現しようとしている。

マリアの顔の表現の変化

ルーヴルの油彩画が約束のアンヌンツィアータ聖堂の主祭壇には収められず仕舞いであったわけは、この点、にありそうである。レオナルドは常々人物を描く際にはその人物が何を思っているか見るものに伝わるように表現すると考えていた。成人した女性の究極の美として、複雑な内面の的確な表現が必要と気づかされたレオナルドが、この頃からその描写を試みるようになり、この時点ではまだ納得のいく描写になっていない(未完成)とのレオナルドの拘りにあったのではないか。

この後レオナルドは、アンボワーズでも手元に置いて描き直しを続け、タラゴーナ枢機卿一行が1517年10月に訪れた時点では現在のものとほぼ同じものになっていた。

「女性の肖像(モナ・リザ)」 1503年~1517年頃c. Oil on panel, 77 x 53 cm ルーヴル美術館    Muse du Louvre, Paris

Mona Lisa (La Gioconda)
c. 1503-5
Oil on panel, 77 x 53 cm
Musée du Louvre, Paris

レオナルドが第2次フィレンツェ滞在中の1503年ごろ依頼されたと思われる。レオナルドは、この絵をフィレンツェからミラノへとその後フランスに行く際にも携行した。

レオナルドがなくなるまで手元に持ち続けた作品は三点ある。すなわち、「聖母子と聖アンナ」油彩画(ルーヴル版)以外に二点ある。そのうちの1点が、一般に「モナ・リザ」だとされている。(ルイージ・タラゴーナ枢機卿の秘書デ・ペアーティスは、1517年にアンボワーズのレオナルドのアトリエで「聖アンナの膝の上にいる聖母子像」のほかに2点の作品を見たと記している。(松浦先生))

ヴァザーリによると、この絵は Mona Lisa(マドンナ・リサの意味)の肖像である。彼女は1479年にフィレンツェに生まれ、1495年にフィレンツェの大商人Giocondo侯爵と結婚した。そのためこの絵の別名を「La Gioconda(ラ・ジョコンダ)」というと記している。

ヴァザーリはこの絵について書いている中で驚くべきことを言っている。「レオナルドは幸せな夫人を描こうとした。その為モデルの周りに音楽家や群衆を集めてにぎやかな雰囲気を作って描いた」と。これは実はヴァザーリがこの絵のモデルを結婚して幸せなラ・ジョコンダであると名付けたことを、巧妙に自己擁護するためのように思える。モデルについては、Giocondo侯爵夫人であるということには疑問も呈されている。マントヴァのエステ公爵夫人イザベラ・デステという説もある。(後述)

いずれにしても、実在する人間をモデルにする(少なくとも書き始めの時点では)ことで、釣り合いが取れていて、統合された人間性の概念の理想を、レオナルドは表現した。

光が当たっている額、鼻、胸、そして手の甲は、陰となっている顔の一部、髪、首などの暗い部分の表現によって穏やかな丸みを浮き立たせ、より明るく照らし出される。そして見るものはその目に引き寄せられ魅了される。モナ・リザの両目の中と唇それに両方の口角に、謎の微笑を表現する秘密が隠されているといわれ、それは奥深く定めがたく神秘的であり、その所為でこの数世紀の間にはいくつもの解釈がなされてきた。

16世紀のフィレンツェの研究者は、「夫人像の完璧な美について」の中で、口角の両唇が軽く開いて微笑んでいることが、当時は、優美さを示す一つの典型的な仕草であったと書いている。

この謎の微笑みこそが、「モナ・リサ」絵画全体に行きわたっている優しく、繊細な雰囲気の源であり、多彩な人生そのもの、魂の不思議さを象徴しているという解釈。

背景は、肖像の左右で地平線の位置がずれていると指摘されているなど不思議な描き方であり、平野と川の上にそびえる霧のかかった青い山々を4等分してそれぞれに意味を持たせて、誕生から死滅までを暗示しているとか、全宇宙を象徴しているとかの解釈がなされている。

優しく、繊細で、謎めいた雰囲気の効果をより高品質に達成するために、レオナルドはスフマート技法、形象自身の変化をゆるやかに転換する技法、光から影へ切れ目なく場面を移す技法、そしてその当時の世相の不確かな感覚を背景に描く手法などを駆使している。

絵についての彼の論文において、レオナルドは、良い絵のなかでは、輪郭はそれらがであった実態より遠くにぼやけている必要があると書いている。彼のスフマート技法は、全てのものをその間にあたかも空気を感じながら見ているたような効果をもたらしている。

レオナルドの卓越した技術によって、絵画の諸要素が一つの纏った全体に様々な形で調和されている。 例えば、橋は単にアーチ形の建造物であるだけではなく、モナ・リザの左の肩を横切って覆われたアーチ型のヴェールの線が上昇して橋へと連続するというようにである。

この絵の感覚的な品質の高さは特に両方の手の描写にも良く表れている。

その右手は、椅子のひじ掛けを掴んでいる左手の上にゆったりと乗せている。ヴァザーリはその記述の中で、見るものに脈拍が打つのさえ感じさせる手の甲の表現であると称賛している。

 

 

 

レオナルドが 女性の顔の表現に拘り始めたのは何時ごろか羅か?その動機は何か?

「モナ・リザ」もその書き始めの初期の段階では、現在私達が見ているような謎めいた優美さを備えた表情とは違っていた。そして何時のころからか、美しい夫人像には神秘性が必要であると気づき、その表現の完成に拘り始めて、1517年ごろまで掛かって今のような表現に到達したが、結局満足できずに死ぬまで描き(直し)続けるようになったのではないかと松浦弘明先生はそれを複数の角度から推察されている。

「白テンを抱く女性の肖像」1490年代 クラクフツァルトリスキー美術館

レオナルドが1490年代に油彩画で描いた「白テンを抱く女性の肖像」を見ると、このモデルはミラノ公ルドヴィイコ・スフォルツァの愛人チェチリア・ガッレラーニとされ、力強い眼差し、締まった口元にモデルの堅固な意思を感じ取ることはできるが、モナ・リザの複雑な表情は読み取れない。

Portrait of Cecilia Gallerani (Lady with an Ermine)
1483-90
Oil on wood, 55 x 40 cm
Czartoryski Museum, Cracow

 

「イザベラ・デステの肖像」(画稿)1500年  ルーヴル美術館

もう一つは、「イザベラ・デステの肖像」(画稿)であるが、レオナルドはミラノを離れてその足で、1500年初頭に、ミラノ公妃ベアトリーチェの姉のイザベラの嫁ぎ先であるマントヴァを訪れている。そこでイザベラ・デステの懇願で彼女の肖像画の画稿を制作している。その画稿は今でもルーヴルに展示されている。これは容姿や服装、全体のサイズが類似しているのでモナ・リザのために準備された画稿ではないという研究者も居る。

二つの作品にはいくつかの共通点があるといわれるが、しかし、頭部に限れば顔の向きだけではなく表情そのものに大きな違いが見て取れる。画稿のモデルは知的で清楚な雰囲気は感じられるが、モナ・リザの持つ神秘性が決定的にかけている。

Isabella d’Este
1500
Black and red chalk, yellow pastel chalk on paper, 63 x 46 cm
Musée du Louvre, Paris

 

ラファエロの「マッダレーナ・ドーニの肖像」1506年頃  フィレンツェ パラティーナ絵画館

更に同様のこととして松浦先生が例に引いているのが、同時代のレオナルドを剽窃した天才ラファエロの「マッダレーナ・ドーニの肖像」である。この絵は、ラファエロがフィレンツェに移り、レオナルドのモナ・リザの影響を受けて1506年ごろに描いたとされており、その構図やポーズはモナ・リザに良く似ている。しかし、二つの絵から受ける印象は大きく異なる。ラファエロの絵からは深遠で神秘的な雰囲気が伝わってこない。剽窃の天才が、現在ある状態に近いモナ・リザを見たのだとすれば、このような肖像画にはなっていなかっただろう。ラファエロが、モナ・リザからインスピレーションを得た時点では、レオナルドの夫人像はその神秘性の追求の初期の段階であって、「白テンを抱く女性の肖像」や「イザベラ・デステの肖像」(画稿)と同じ程度の感情表現であったと松浦先生は推測している。

Portrait of Maddalena Doni
1506
Oil on panel, 63 x 45 cm
Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence

 

 

すなわち、レオナルドがフィレンツェを離れる1506年以前においては「聖母子と聖アンナ」の聖母もモナ・リザもその頭部は、現在私たちが見ているものとは異なるものであったと推察している。

Madonna of Belvedere (detail)

ラファエロは、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇の画稿を見た上で描いた「芝生の聖母子」の聖母の顔には、謎の微笑みの表情はない。レオナルドの画稿には、まだその複雑な顔の表現の創意には至っていなかったと推測する。

「洗礼者ヨハネ」 1516年頃 ルーヴル美術館

St John the Baptist
1513-16
Oil on panel, 69 x 57 cm
Muse du Louvre, Paris

ルイージ・タラゴーナ枢機卿の秘書はレオナルドのアトリエで「洗礼者ヨハネ」を描いた作品を見たと記している。このルーヴェる美術館お「洗礼者ヨハネ」がこれに当たると考えられている。制作年は定まっていないが、画家がローマからアンボワーズに移るあたりの1513年~1516年とされる。

一人の聖人のみを胸像で表し、背景を暗色で塗り潰す形式はこれ以前にはあまり見られない。頭部の特徴を明確にするための肖像画でよく用いられるものである。暗い背景から半裸体の上半身を浮かび上がらせ、右肩は手前に突き出し人差し指を立てて天を指し示し、左手は胸元で十字架の形をした杖を持っている。その顔の微笑みはモナ・リザと同様にどこか悲しげに憂いを秘めている。

顔の表情には見るものを惹きつける不思議な特徴がある。明るい微笑というよりはどこか憂いを秘めた微笑である。イエスより半年先に生まれた洗礼者ヨハネは、荒野で修行中にイエスに会って洗礼を施した際に、天からの神の声としてイエスが神の子であると聞いて知っている。それと同時にイエスは人を救済するために人の罪を背負って神の子羊のように犠牲として捧げられることを最初に認識したものであった。こうして喜びと悲しみの相反する二つを同時に持つものの複雑な感情を顔に表現したと考えられる。

「聖母子と聖アンナ」の聖母もモナ・リザも、喜びと悲しみの相反する二つを同時に持つという点で共通する要素である。その頭部の的確な表現こそが、レオナルドの晩年の最大の課題として固執し続けたものと推察される。

女性の肖像(モナ・リザ) の謎の微笑 が意味するもの

マントヴァ公妃イザベラ・デステからも肖像画の制作を待ち望まれてもいたにもかかわらず、フィレンツェの一人の肖像に執着したことには不自然さが感じられる。

この頃は、レオナルドがアンヌンシアータの祭壇画において、わが子がかわいい子羊と戯れるほどに成長した喜びと、その子が成長して人々の犠牲になって死を遂げる運命を持っている悲しみという、真逆が同居している心情を、マリアの顔に表現しようと苦心している時でもあった。

マントヴァ公妃イザベラ・デステを凌ぐ魅力がモナ・リザのモデルの夫人にはあったと推察される。

Isabella d’Este
1500
Black and red chalk, yellow pastel chalk on paper, 63 x 46 cm
Musée du Louvre, Parisヴァザーリの言うようにエリザベッタ・デル・ジョコンダがモデルとすれば、彼女は喜びと悲しみの両方を味わっていた。1479年に生まれたエリザベッタは1495年に16歳で裕福なジョコンダと結婚する。96年には長男ピエロを出産するも、99年には生まれて間もない長女をなくしている。その悲しみを乗り越えて1502年には次男を出産する。そして翌03年にはフィレンツェの中心街に家を購入している。このことがモナ・リザをレオナルドに依頼するきっかけとなったといわれている。彼女は肖像画を制作してもらう前の数年間に子供の誕生する喜びとそれを失う悲しみの両方を味わっていたことになる。レオナルドは、エリザベッタのこうした経験によって培われた悲喜こもごもが複雑に顕われる顔の表情に魅了されると同時に、アンヌンシアータの祭壇画のマリアの顔への課題の答えを見出したかも知れない。

レオナルドの最期の課題

レオナルドは、1506年以降はほとんど絵画制を行っていないといわれているが、むしろそうではなく「聖母子と聖アンナ」の聖母とモナ・リザとの2点には、幸も不幸も経験し乗り越えて成人した女性の顔の表情の美しさを求めて長年にわたり筆を入れ続けたと考えられている。

モナ・リザのモデルがフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻エリザベッタかどうかはこれからも議論される課題となっている。

ただ、「聖母子と聖アンナ」のマリアの表情をどのようにすべきか考えていたレオナルドはエリザベッタの肖像を頼まれて彼女をモデルとした時、彼女の喜びと悲しみの両方を味わった複雑さを秘めた表情に魅了されたと考えるとこの2点の作品に共通する表情の謎が解ける。

そして、その顔に関する研究の成果として最晩年に制作の「洗礼者ヨハネ」が生み出されたと考える。

レオナルドは、当事多くの人体解剖を通して人体の内部組織に精通していて、身体の各部分がどのように機能するかも熟知していた。それら器官を作動させる人間精神の神秘を強く感じ取っていた。だからこそその精神性が最も顕著に表れる人の顔に最期まで固執したと思われる。

モナ・リザ、聖母子と聖アンナ、洗礼者ヨハネ

盛期ルネサンス絵画の展開(その五)を 終わります。

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盛期ルネサンス絵画の展開(その四)

盛期ルネサンス絵画の展開(その四)

--レオナルド ダ ヴィンチ の絵画(その2)  第1次ミラノ滞在期の絵

第1次ミラノ滞在期の作品

ミラノ時代  「岩窟の聖母」と「最後の晩餐」、この2点が重要な作品である

「岩窟の聖母」について   

  • 1485年;ルーブル美術館版
  • 1505年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー版

    二つのバージョンがある

 

3枚の板からなる祭壇画

岩窟の聖母 レイアウト図

依頼、納入、訴訟、再納入などの経緯について

1483年04月25日 ミラノ サン・フランチェスコ・グランデ聖堂内にある「無原罪の御宿り」信徒会より同礼拝堂の祭壇画の制作を依頼される。

両翼の楽器を奏でる天使をアンブロージュとエヴァンジェリスタのデ・プレーデイス兄弟が同時に依頼された。

1486年5月.25日 製作者側の訴訟に対して信徒会側が代理人を任命。このことからルーブル・ヴァージョンは、この年までに完成していたと考えられる。

1506年4月27日祭壇画の未完成を指摘される。このことから、祭壇画は、この年以前にロンドン・ヴァージョンに置き換えられていたと考えられる。

(1506~1512年 レオナルドは町のフランス人統治者チャールス・アンボワーズの庇護の下で、再度ミラノで生活)

1508年訴訟問題が全面的に解決される。このことからレオナルドがロンドン・ヴァージョンを完成させたと考えられる。

1576年 「無原罪の御宿り」礼拝堂が取り壊される

1781年 「無原罪の御宿り」信徒会が解散。

18世紀末に サン・フランチェスコ・グランデ聖堂が取り壊される。

このときまで、聖堂内にあったのは、ロンドン・ヴァージョン。これを画商ハミルトンが購入。

その後、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに入る。

1508年に、24,5年間の訴訟を終える。

  • どうしてそんなに長い時間がかかったか?           そして
  • どうして2点あるのか?

 

17世紀の記録があり、フランス王宮殿(別荘)においてルーブル・ヴァージョンを見た。

1506年の記録があり、「祭壇画は未完であり支払いしない」と、これは信徒会側の記録

1486年レオナルド側が請求して訴訟になっていることから1483~1486に完成したと推測される。

何らかの理由で信徒会が受け取りを拒否した。

1500年頃、フランス王に売却された。聖堂内の祭壇にルーブル・ヴァージョンが設置されたかどうかは記録がない。信徒会側が、修正を求めたのではないか、と思われる。

修正ヴァージョンが、1506年までは完成していない。

1486~1506年修正ヴァージョンを制作・・・1508年決着が付く。この間で、レオナルドがミラノにやってきて完成させたと考える。「ミラノに居ない画家には支払いしない」との契約がある。

1508年 ロンドン・ヴァージョンを礼拝堂の祭壇に設置。

その間に、レオナルドはルーブル・ヴァージョンをフランス王に売却したと考えられる。

発注者 「無原罪の御宿り」信徒会とは?

イタリア語で   Concezzione Immacolata (性的な交わりなしに懐妊する)の意味がある。マリアのことではなく、その母 アンナのことであり アンナは処女のままマリアを生んだという考え方に基づく。

マリア伝説は、13世紀の「黄金伝説」で触れられている。その後、盛んに議論されている。聖書に物語はない。

「純潔であること」を重視した。フランチェスコ会が積極的に 支持した。

絵画でこの考えを示したものは、レオナルド以前にはほとんどない。レオナルドが始めて試みた。

ジョットーの時代に、ジョットーの弟子たちはアンナの話を多く絵にした。

そこでは、ヨアヒムとアンナの連作「エルサレムの金門の出会い」で懐妊を表した。

夫 ヨアヒムとの間に永い間子供がなかった。ヨアヒムは家を出て、永い放浪の後、神の声により、エルサレムの金門の前でアンナと再会、その際の再会の接吻で懐妊したという考え。ジョットーのスクロベーニの壁画に物語の連作の絵がある。

「岩窟の聖母」の様式

図像に関係するので様式を見る必要がある。レオナルドの意図が、はっきりと現れている。レオナルドが描くものは、天使の内面性の表現に優れて違いがある。

ヴェロッキオ 「キリストの洗礼」 および その 天使の部分 70年代の作品を見る

レオナルドの内面性の描写

二人の天使 右側がボッテチェリ作との説がある

ヴェロッキオ工房は、描かれた人物間のつながり、交流を重視していた。レオナルドはこれを学んだ。「ブノハの聖母」はこの延長線上にある。ボッテチェッリの「書斎の聖母」にも影響を与えた。

キリストの受難を象徴する十文字の花弁の白い花を介してマリアとキリストの関係が見るものに通じる

白い花荊の冠の小道具を象徴として使い、キリストとマリアの関係をつなげていく。ボッテチェッリは割りと分かりやすい象徴を用いた。

「マギの礼拝」未完 82以前、は「ブノワの聖母」の延長線上にあるが、――三人の関係交流から、多くの人間のつながりへ(主役の3人とマギたちの交流)――と発展させた。(未完のため分からないところもあるが・・)

Adoration of the Magi
1481-82
Oil on panel, 246 x 243 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

さらに発展したところに 「岩窟の聖母」 がある。

Virgin of the Rocks
1483-86
Oil on panel, 199 x 122 cm
Muse du Louvre, Paris

レオナルドが意図したこと・・絵の中の登場人物をどのようにつなげていくか?・・安定性と精神的なつながり、心の動きを表現するのに、ピラミッド型の構図を使った。レオナルドが、ピラミッド構図の最初である・・安定性が出ることに着目したが、「マギの礼拝」では三角形が不完全である。

ピラミッドのメリットは、

  • 一つは、構図上の安定性である。
  • もう一つは、人物間のつながり、  心の動きを三角形の中に収めるように表現した。マリアとキリスト、マリアとヨハネ、キリストとヨハネの関係を三角で交流する。

    岩窟の聖母 ピラミッド構図

さらに工夫がある、

三角形の頂点をマリアの頭部に設定、マリアの目に、繊細かつ微妙な表現を施す。両方の目(瞳)が片方ずつ、キリストとヨハネを見つめる。目の間が離れて描かれ、右と左の瞳の動きが離れている。左目でキリスト、右目でヨハネを見ている。両手の動きと合わせて目を使っている。キリストはヨハネを見つめてヨハネを祝福している。ヨハネはキリストに手を合わせて拝む。

天使ウリエルは、指でキリストとヨハネをつなげ、顔は見るものを見つめている。彼は、三角形を指差している。構図の均衡を保っている。構図がしっかりと出来上がっている。

背景は、レオナルドがミラノに行って北のアルプス方面に行って見た風景を描いた?トスカーナにはない風景を描いている。

「ロンドン・ヴァージョン」 

Virgin of the Rocks
1495-1508
Oil on panel, 189,5 x 120 cm
National Gallery, London

大きさはほとんど同じ。額縁が出来上がっていて、はめ込むものであった。色彩に現在違いがある。これは、ロンドンとルーブルの保存の方針の違いから来るもので、」元は、そんなに違いはないはず。

図像的解説が必要である。 どうしてロンドン・ヴァージョンが受け容れられたか?

「無原罪の御宿り」の概念を絵にすることの前例がない。

アンナの処女性がどこで表現されているのか?背景の洞窟が極めて珍しい。レオナルドの手記の中で洞窟のことが書かれている。「洞窟は生命の源である」アメリカの研究家が、「アンナの子宮」を洞窟が表現している、と指摘。画面左後ろ、開かれた空間からの光が神のお告げを意味し、その光からマリアが生まれた。アンナは、神に子宮を開いたが、ヨワヒムには子宮を開かなかった。

背景右後方の閉じた空間の岩の形がヨワヒムを意味する?

何故ヨハネが登場するのか?・・ヤコブの福音書の中に物語がある。ヘロデ王による嬰児虐殺を逃れるためにエジプトに逃げる。ヨハネもベツレヘムから逃げる。ヨハネの保護をウリエル天使が行った。逃げる途中で聖母子とヨハネが出会う。

マリアの表情 右ロンドンヴァージョン

ヨハネと幼児キリストとの出会いを表現した。

ヨハネ 十字架を加えた 右ロンドンヴァージョン

 

これと 「無原罪の御宿り」とどういう関係が有るかは分からない。

83の契約の中で依頼者は希望を出している。預言者を入れてほしい(たとえば、旧約の預言者イザヤなど)。イザヤ書の中に将来の救世主は処女から生まれなければならない、とある。

二つの比較をすると (信徒会の気持ちになってみると)   記録はない

ロンドン・ヴァージョンは

  • 後輪をつけた・・マリア、キリスト、ヨハネ
  • ヨハネが大分違う 十字架の杖を持つ、らくだの毛皮を着せてヨハネを明確にしている。ルーブル ヴァージョンは、薄いものをかすかにまとっているのみ
  • キリストとヨハネをはっきりと描き分けている。
  • ルーブルヴァージョンではマリアが右手を接しているのがヨハネであることが問題となりうる。右手に優位性があるとの考え。(ちなみに、レオナルドは左利き)ウリエルのそばにいるのがヨハネというのが妥当ではないか?そうなるとヨハネがキリストを祝福していることになる。これは異教徒的で問題になった?
  •  ロンドン・ヴァージョンでは、天使ウリエルとキリストを離した。
  • キリストを明確にした。

    光輪を付けたキリストと天使のポーズ

 

レオナルドは、99年までミラノに居たが直さなかった。ロンドン・ヴァージョンはレオナルドが本当に描いたのか?

  • デ・プレーデイス兄弟がルーブル・ヴァージョンを見てコピーしているのではないか?
  • マリアの髪の流れ、瞳の工夫などが少し違っている。
  • キリストのスフマートがロンドン・ヴァージョンが少し劣る。明暗がはっきりしている
  • ヨハネのスフマートも劣る、体の丸みなど違いがある
  • 天使は大きく変わっている・・視線がロンドン・ヴァージョンは見る人との関係を考えていない
  • 背景に描かれる水から浮き上がる大気のような表現がレオナルドは大変に上手い。

ルーブル・ヴァージョンは、レオナルドに間違いはない。

ロンドン・ヴァージョンは、弟子たちや、デ・プレーデイス兄弟が手を入れたと考えられる。天使だけをレオナルドが再度ミラノに行ってから描いたか、あるいは全体に手を入れた。

 

「最後の晩餐」 レオナルド  サンタマリア・デラ・グラツツェ聖堂

1498年頃制作された、  1492・3・29、1494・1・29に関連の資料がある

The Last Supper  レオナルド
1498
Mixed technique, 460 x 880 cm
Convent of Santa Maria delle Grazie, Milan

 

The Last Supper レオナルド
1498
Mixed technique, 460 x 880 cm
Convent of Santa Maria delle Grazie, Milan

The Last Supper レオナルド
1498
Mixed technique, 460 x 880 cm
Convent of Santa Maria delle Grazie, Milan

主だい「最後の晩餐」は、フィレンツェにおいて

タッディオ・ガッティ、カスターニョ、ペルジーノ、ロッセリ、ギルランダイオと続く図像の歴史がある。レオナルドは、これら全てを検証する機会を持てた。

聖書に記述される最後の晩餐における言葉は、キリスト、ヨハネ、ペテロ、ユダの4人の発言のみである。それは次のような言葉

キリストの発言した「裏切り者が居る」の言葉に反応して、ペテロは、ヨハネにキリストから直に聞き出せと迫る。

ヨハネの問いにキリストが答えて、「私がパンを与えるもの」という。ユダは私のことではないでしょうと聞き返す。この一連の発言がもとで、他の9人含め全体に動揺が広がった。

この主題の描写の進化を知るには、

まずは、レオナルド以前の最後の晩餐の絵の展開を比較で見る。カスターニョ、ギルランダイオ(1480、1486の2枚)ロッセリ(1481~82)ペルジーノのそれぞれを見る。

 

伝統的な「最後の晩餐」の諸作品はどのように描かれているか?  レオナルドがそれをどのように変えたか?   

カスターニョ(1447) の最後の審判

Last Supper カスターニョ
1447
Fresco, 453 x 975 cm
Sant’Apollonia, Florence

 

ギルランダイオ(1480)

Last Supper ギルランダイオ  1480
Fresco, 400 x 880 cm
Ognissanti, Florence オニサンテ

ギルランダイオ(1486)

Last Supper ギルランダイオ
c. 1486
Fresco, 400 x 800 cm
San Marco, Florence サン マルコ

 

コジモ・デ・ロッセリ(システーナ) (1481~82)

The Last Supper ロッセリ
1481-82
Fresco, 349 x 570 cm
Cappella Sistina, Vatican  システーナ礼拝堂 側壁画

 

 

ペルジーノ(1493~96)

The Last Supper ペルジーノ
1493-96
Fresco, 440 x 800 cm
Convent of the Tertiary Franciscans, Foligno

「最後の晩餐」を見るときのポイントは キリスト、ペテロ、ヨハネ、ユダの四人の位置に着目することが大切になる。レオナルドは、従来の絵とでは、ユダの位置を変えた、 この点が重要な意味を持つ。

 

「最後の晩餐」を見るポイント  

テーマ:: ① 聖餐式・・・・受難伝の物語の一部を構成。ミサとして現在にも続いている(パンをキリストの身体として浸して食す)⇒ ⇒聖体(パンとワイン)を強調する(初期キリスト教時代や中世に多い)

テーマ:: ② キリストが裏切り者の告発する。ドラマチックな瞬間を強調。⇒ ⇒人と人とのドラマを表現(キリスト、ヨハネ、ペテロ、ユダの4人が主役であり、他の使徒たちのことは聖書には語られていない)

  • ヨハネ:気が弱い・・驚いてキリストに泣き伏す表情など
  • ペテロ:イエスにかわいがられているヨハネに対して裏切り者は誰かを聞けと要請、話かける
  • キリストが「私がパンを浸して渡す者あるいは私と同じようにパンを浸す者」と伝える

「最後の晩餐」 1330  タッディオ・ガッディ(ジョットーの弟子)

Last Supper, Tree of Life and Four Miracle Scenes タッディオ ガッティ 
c. 1360   Fresco
Refectory, Santa Croce, Florence

 

修道院の食堂の一番奥に作品を置く習慣を作った最初の作品  フィレンツェ S.クローチェ修道院 付属

中世までは、受難伝の一連の中の一場面として描かれていた。この作品の後、修道院の食堂の奥に大きく一場面だけを描くように変化していく。

その理由はなにか?

中世までは、 見る聖書として一般の人に説明する役割を持っていた。ところが14c以降は、修道士たちの疑似体験(キリストと聖餐式を共にして一体感を持つ)のための絵としての意味を置くようになった。

レオナルドの「最後の晩餐」について

サンタマリア・デラ・グラツツェ聖堂 の外観の映像

( Chiesa di Santa Maria delle Grazie)
サンタ マリア デッレ グラッツェ聖堂  ミラノ

奥の円形の建物がブラマンテの設計の部分

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 アプス側

修復後の「最後の晩餐」が設置されている修道院の食堂の現在の様子

修復後の「最後の晩餐」が設置されている修道院の食堂の現在の様子。――天井と壁が白い

ヴァザーリが1550に記述している

「すばらしい作品、フランス王が引き剥がして自国へ持ち帰ろうとした。修道院長が作成が遅いのにいらいらしていた。レオナルドが壁の前でじっとしていて絵が進まなかった。頭部を描くのに時間がかかった。キリストとユダの頭部が最後まで描けずに残っていた。修道院長の訴えでスフォルッツァがレオナルドに督促をしたところ、レオナルドが、ユダの顔は修道院長をモデルに描こうかというと、スフォルッツァが大笑いをしたという逸話。

レオナルドは、この絵を描くのに、伝統的なフレスコ画法に従わなかった。残念ながらそれが災いして20~30年後には彩色がはがれ始めた。 キリストの顔は20Cに描きなおしされた。

1520 チェザーレ・マーニMAGNI, Cesare がコピーを制作・・・ミラノのブレラにある。

  同時代コピーが何点か残っている

最後の晩餐 同時代の複製

 

テーブルクロスの質感がすばらしい、リアリティがある。

従来の作品と比較

  • タッディオ・ガッティの「最後の晩餐」  サンタ・クローチェ修道院  中央にキリストの磔刑(十字の寓話)パネルの絵その側面に2枚ずつ4枚の絵。 晩餐の絵の上部がキリストの生涯の他の物語の絵の連作になっている

 

  • カスターニョ サンタ・ポローニャ  横長の部屋に遠近法を活用して、テーブルが壁の中に入り込んだ表現。 奥行きと実体感覚がすぐれている。ユダがテーブルの前に配置されている、かつ、その頭上の大理石のタイルの模様が特に目を引くように描かれる。            上層には磔刑、埋葬、復活の絵がある。

    サンタアポリナーレの壁画 カスターニョ

 

  • ギルランダイオ(1480) オンニサンテ
  • ギルランダイオ(1486) サン・マルコ修道院

この二つには 受難伝に関する他の物語は周囲に一切ない。奥に空間を作って、さらに実際の天井と側壁の延長上にあるようにしっかりと表現した。 レオナルドにつながるイリュージョンが出ている。

ギルランダイオの2枚の前後の判定について・・・・人の表現、遠近法の計算、側壁の切れ目の整合が、オニサンテの方が未成熟、しかしオニサンテの方が実際に見ると絵の質が良いように感じる。サンマルコ後の方が、助手の手が入っている? 後ろを開くことで画面全体の広がりを際立たせている。

  • ロッセリ システーナ  キリスト伝の一場面としての絵   前に描かれたたらいと水差し、後ろの壁を抜いて向こう側に広がる空間を大きくした。キリストとユダの対応が中心に強調されている。 しかも後ろのキリストについての3つの物語の絵を付属している。
  • ペルジーノ  サン・フォリーニョ修道院

レオナルドはこれらを全部見た上で(前例を良く学んで)どう描こうかを考えた?

従前の図像では、弟子たちの動揺はあまり表現されていない、キリストが目立たない。

レオナルドが、新しく考えたこと

  • キリストの周りに空間を置く
  • ユダをみんなと同じ側に並べる
  • キリストの後ろに窓を設定してキリストの輪郭をはっきり見せる
  • ユダを目立たせることは、画像として良いことではないと考えた

違いのピックアップ

四人の配置

ユダをテーブルの向こうにした、ヨハネをキリストから離してペテロの側にした。そうしてキリストを真ん中に目立たせた

使徒たちの表現

以前はテーブルに対して垂直な姿勢で一様であったが、レオナルドはさまざまな姿を作った。夫々リアクションが大きく表現されている。それぞれのしぐさがバリエーションに 富んでいる。3人ずつのグループ分けをした

全体の構図のまとまり

見る人の立つ位置(=視点)によって壁へのつながりがぴったりする。それが正面ではなく、また1箇所ではないところにレオナルドの思考の深さを感じる。ごく自然に絵画空間を作っている

「最後の晩餐」のための習作デッサンの映像を見る

最後の晩餐(習作)

  • 四人の配置は伝統的な配置で描かれている。最初は、他の作品に倣ってユダを前に置こうとした。その後の考察でオリジナルな配置を創作したものと思われる。
  • 弟子たちに大きなリアクションを付けようとしている
  • グループ分けは二人一組で表現しようとしている。一組二人から三人に切り替えた

ユダの位置を切り替えた理由

中心はキリストにすることが第一であり、絵の中で一番目立つところにおく。伝統的な配置ではユダがどうしても一番目立ってしまう、そこを直した。ギルランダイオの作品にヒントがある、キリストだけに光輪をつけて他は外した。

ユダの位置 最初の構想から切り替えている

ヨハネのポーズ

聖書に記述されている5行くらいの会話の中味を、一瞬の間の流れに押し込めた絵。曖昧さを排除しようとした。ヨハネとペテロの会話をしっかりと表現した。{二人の会話する姿}と{キリストがパンに伸ばした手とユダが伸ばした手が同じ部分に向かう}ところを明確に描いた 。

後ろの窓

絵の空間の閉鎖性を開放するに留まらず、キリストの輪郭を明確にして目立たせる効果を持たせた。キリストを中心に!という意識が明確である。キリストの形のピラミッドも意識されたもの

弟子たちの表現

二人一組から三人一組にした。ユダをペテロとヨハネの組にして3人にする構図を考えた?それから2*6よりも3*4の構図のまとまりの良さに気づいた。従来の1+1*12の構図からは大きな構図上の進展であり、絵に躍動感が沸いた。各人の内面のつながりを重視した。

4人以外の弟子たちの表情がオーバーなアクションで表現されている。

4人以外の弟子たちの表情がオーバーなアクションで表現されている。しかし、全体は良く纏められて、穏やかになっている。キリスト中心が明確で構図の纏め方は秀逸である。

「裏切り」という衝撃的な話をしたときの弟子たちの受け止め方の表現に疑問を持っていた。

(デッサンの段階から考慮されている) 二人一組での会話を表現、後に三人一組に変える

キリストの手とユダの手の扱い方・・手の表情で聖書の内容を示す。

常に”手“を注意深く描く画家である。

ペテロ、ヨハネ、ユダの三人組み合わせの発想から、他も三人組の会話の形に変えたと思われる。

バザーリの記述で・・ユダの顔についてのエピソード

完成が遅れることに焦燥感を募らせていた修道院長が、レオナルドをしきりに急かしたので、レオナルドはミラノの君主ロドビーゴに会った際に、ユダの顔は修道院長をモデルにしようか、と言ったのでロドビーゴが大笑いをした、というエピソードを伝えている

キリストの顔とユダの顔を描くのに、長い時間がかかったといわれる。その証のような話。

 

ヨハネの姿が女性的であることについて

晩年の作品「洗礼者ヨハネ」を見るとやや女性的な表情になっている。

ヨハネ St John the Baptist
1513-16
Oil on panel, 69 x 57 cm
Muse du Louvre, Paris

レオナルドは、人物の表現で、パターンを決めることが多い

「最後の晩餐」のヨハネは、女性にしか使わないパターンを使っていることは言える

・・・・伏し目がち、鼻筋、口周りなど

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余談

レオナルドの「最後の晩餐」1495~1497 と 「ダヴィンチ・コード」上下との関係について

ダヴィンチ コード

キリスト教の陰謀説的な話  ――あくまでもフィクションである。

伝統的なキリスト教の教え・・・・・・・何時作られたか・・4Cに公認された。

コンスタンチヌスのミラノ勅令(313)以降に規定されていく。

キリストおよびキリストの弟子の記述を聖典として編成(4~5C)した。

聖書は4~5Cに編集されている(そして人工的に後世の手が入った)

基本的な教え・・・・キリスト=神の子→→唯一絶対

アウグステヌスの主張・・・神→神の意志→受肉した子キリスト→

磔刑→復活→昇天(キリストの肉体は今天にある)→再臨(何時か分からない)

「地上に再び舞い降りてくる」(再臨)と言い残した→その時に「最後の審判」をする。

再臨のときは、地球最後のとき?

キリストの王国を作る=「天上のイエルサレム」である。

解剖を許さない訳・・・・最後の審判のために肉体を壊さないで置くことが求められた。

1470に解剖が許されたのは、罪人の肉体のみ(最後の審判の結果が予めあきらか・・(?)という理由からであった。)

ダヴィンチ・コード」が売れるにはそれなりの訳がある?

再臨について、みんなの関心の源・・年号のキリの良い時期に騒がれる・・1000年頃は巡礼が行われた。今頃(2000年)またそのキリのよい時期と思われている→→「ダヴィンチ・コード」が売れる訳?

ローマ教会・ヴァチカンに対する批判→→キリストについて秘密を隠し通してきた・・・暴きたい・・   社会の一部に根強くある。

「ダヴィンチ・コード」

キリスト・・・・人の子とする説

キリスト・・ユダヤ人でユダヤ教を信仰している人

「創世記」でアダムに神が言ったこと「生めよ増えよ」・・・聖書に良く出てくる言葉

結婚していたはず・・・結婚相手はマグダラ出身のマリア(聖書に出てくる)・・子供も居たはず。という考え方。

キリスト教では異端とされているが、常に話しに上ってくる説である。

聖典から外されたが、元の記述の中にあるもの・・・を追求したがる。

その子孫は今も居る、とする・・・隠し通している団体が今もある、と考える。

2000年を機に、これを明かそうとしてヴァチカンから圧力・・・殺人も起きた、と設定

「シオン修道会」(本当に活動していたか不明のこと)

マグダラのマリア 復活の際に最初に出会う光栄を得た女性 「Noli mi Tangere」で知れる。また、  「ラザロの蘇生」の奇跡をもらった。

聖杯伝説 聖杯は「最後の晩餐」の際にワインを注いだ杯

ワイン・・・キリストの血

パン・・・・・キリストの肉   聖体・・・キリストの身体を自分の身体に入れる

「聖餐式」(聖体拝領)==ミサ  と呼ばれる。

 

「ダヴィンチ・コード」の説では

聖杯はキリストの血脈として今に引き継いでいる==子孫  (異端)

レオナルドは1495年前後に「最後の晩餐」をこのような意図で描いている  と

  • キリストの右側に居るのはヨハネではなくてマグダラのマリアである
  • キリストの周囲の空間  V字型・・聖杯を意味する                 ・・マトリモーニオ(結婚)を象徴
  •               M字型・・マグダラのマリアの象徴

と設定して、関心をあおることで、読者を引き付けようとする。

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盛期ルネサンスの絵画(その四)   了

次は

盛期ルネサンスの絵画(その五) レオナルドの第2次フィレンツェ時代の作品を見る。

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キリストの降誕に関するビザンツ/ルネサンス絵画

キリストの降誕に関するビザンツ/ルネサンス絵画--クリスマスに因んでーー

--クリスマスの因んで--

 

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盛期ルネサンス絵画の展開(その三)

盛期ルネサンス絵画の展開(その三)

--レオナルド ダ ヴィンチ の絵画 (初期の作品) 

 

序として

フィレンツェを中心にした絵画の世界に、1470の前後から新しい動きが出る。これは盛期ルネッサンスへの移行につながる重要な動きであった。

最初に始めたのが アントニオ&ピエロ・ポッライオーロとヴェロッキオである。その特徴は

生き生きとした人体表現――解剖学的に正確な人体の表現

人体解剖が許可されたことが背景にある(絵で記録を残す必要性から画家が参加)

非常に深い奥行きを持つ空間表現 線遠近法を越えて、人工物以外にも遠近法を工夫

  • 空気遠近法(大気遠近法)を用いる(フランドルは更に早く1420頃から用いられた)
  • プラトータイプの採用――距離感を出す為に中景をカットする手法

新しい主題を用いた表現――ギリシャ神話などで、人間の内面性を象徴しようとした

一方で、ポッライオーロとヴェロッキオ共に”工房”を活用したという問題がある。

  1枚の絵の中に複数の異なる手の挿入が認められるところに注意が必要

 

解剖解禁により人間の肉体の研究が内部から正確に進められるようになった。人体表現がより写実性が高まり、特に筋肉の機能の正確な把握により、人体のダイナミックなポーズや躍動感あふれる運動するポーズが表現されるようになる。

レオナルドは、自然の忠実な観察により正確な写実空間の表現に取り組み、空気遠近法の完成で深い奥行きのある空間表現を完成させた。

もう一方で人間の心の内面を見つめる研究を進め、心と心の通い合いを二次元の絵の中に表現する手法を確立した。初め二人の心のつながりから次に三人の間の交流へ、更に多数の間での人間同士の交流へと徐々に発展させた。人間たちとそれを取り巻く自然の状況をより豊かな感覚で表現するようになった。

レオナルド(Leonardo da Vinci)の略歴

Self-Portrait c. 1512
Red chalk on paper, 333 x 213 mm
Biblioteca Reale, Turin レオナルド自画像

1452年 フィレンツェの西に位置するヴィンチVinci村に公証人Ser Piero di Antonioの庶子として生まれる。4歳ごろまでヴィンチ村の母Caterinaのところで育てられる。その後父と共にフィレンツェに移る。

1460年代末頃 Verrocio工房に入り絵を学ぶ 年時ははっきりしない

1472 画家組合への登録 Verrocio工房からの独立

この10年がフィレンツェ時代であり、彼の画家生活の初期と位置づける

1482 ミラノの領主ロドヴィーゴ・スファルツァの元へ  自薦状による

 この17年がミラノ時代

1499 マントバ、ヴェネティアにを経由してフィレンツェに戻る フランス王 ルイ12世のミラノ侵攻

1501年 フィレンツェ に戻る

この間を第2次フィレンツェ時代という

1506年 再び ミラノ滞在

この間を第2次ミラの時代

1516年 フランス国王の誘いにより アンボワーズに移る

晩年期

1519年 アンボワーズで没する

レオナルドの略歴

初期の作品

初期の作品

レオナルドの作品の場合、その帰属の特定が難しい。その訳は?

  • Verrocio工房との関係   弟子たちは先生と同じように描こうとする、誰が描こうが工房からの作品として収められ、公表される。「キリストの洗礼」の左端の天使は、人物像の内面性や精神性までも表現しようとする技術が格段に違いレオナルドであることが明確となっている。工房はデザイン事務所のような役割、依頼者からの発注は工房宛に入る
  • 文書記録が欠如している。 初期作は特に残っていない。
  • レオナルド工房或はレオナルド派(School)との関係     ヴェロッキオ、ポッライオーロが外的形態の巧さに対して、レオナルドは、人物の内面性が表現できているのが特徴である。   生徒たちがレオナルドの様式を学ぶために模写したがった。また、レオナルド自身が弟子に描かせたものもある。

「キリストの洗礼」を見る

The Baptism of Christ  1472-75  by Andrea del VERROCCHIO
Oil on wood, 177 x 151 cm  Galleria degli Uffizi, Florence
キリストの洗礼  天使二人の内左側が レオナルド作 と言われる

 

ヴェロッキオ工房はポッライオーロと並ぶフィレンツェの二大工房である。

ヨハネは、主人ヴェロッキオの作である。人体表現が巧い。彫刻からの影響が見て取れる。ヨハネの人体の表現、4人の人物の表現が豊かである。

二人の天使 右側がボッテチェリ作との説がある

天使 レオナルドの作

洗礼者 ヨハネ ヴェロッキオ作

ヨハネの真剣な表現と二人の天使の愛らしい表現が対象的に描かれている。

レオナルドの 天使(左) と ヴェロッキオの ヨハネ

ピエロ・デラ・フランチェスカの洗礼と比較してみることにより初期ルネサンスと盛期ルネサンスの違いがはっきりする。

キリストの洗礼 
ピエロ デッラ フランチェスコ

体重の乗せ方。 奥行き表現は、初期ルネサンスは大きさの比例で表していたのが特徴である、これに対して盛期ルネサンスには空気遠近法を採用している。

 

キリストの顔(キリスト洗礼部分)

ヴァザーリが触れている(1550年記述)のは、左端の天使だけがレオナルドということだが、

天使のキリストを見つめる崇敬のまなざしやキリストの衣を持つしぐさの表現などレオナルドの特徴となっている。心のあり方や相互の交流を表現しようとする。

最近の研究ではキリストもレオナルドではないかといわれる。

また、天使の上部の背景もレオナルド的であるといわれる。

棕櫚、精霊の鳩、神の手は弟子、背景の端の岩なども弟子、ヨハネはヴェロッキオ、キリストは?右の天使はボッテチェルリという説もある。

キリストの洗礼 部分背景の左と右

 

背景については川の水の透明感や流れ、川面に反射する光の描写が勝れ、それまでのヴェロッキオ工房の特徴を覆している。大地や水、大気が日の光を受けて発する温もりや蒸気などの自然の姿を画面に再現しようと試みている。この背景もまたレオナルドの描写であろうとされている。

 

 

工房の作品には弟子たちが色々加わることが多かった。そのために作家の帰属についての特定が難しいところがある。

サン・サルビ修道院に収めた際はヴェロッキオ工房として収めた。

 

「アルノ川の風景」 デッサン 当時の画家としては風景を描くのが珍しい。

Landscape drawing for Santa Maria della Neve on 5th August  1473 1473
Pen and ink, 190 x 285 mm
Galleria degli Uffizi, Florence    アルノ川の風景 レオナルド

レオナルドが風景にも関心が高かった証。狭い平面の中に深い奥行きを描きこむ技術は非常に高い

「受胎告知」(キリストの洗礼と並べて展示されている)を見る

Annunciation
1472-75 Tempera on wood, 98 x 217 cm Galleria degli Uffizi, Florence

この作品は1867年にモンテオリヴィエートのサンロメオ修道院からウフィティに移された。それまでは、ギルランダイオの作とされていた。1867年に異論が出た。随所にヴェロッキオ工房の手が入っているという指摘である。背景の描き方が若いレオナルドが既に描いたものと似ている。マリアと天使と衣の美しさはれレオナルドの表現である。

受胎告知 天使ガブリエル

 

受胎告知 聖母マリア

手前のテーブルの装飾は、ヴェロッキオがメデチ家のピエロとジョバンニのお墓に施したものとおなじである。

レオナルドの習作 受胎告知に関連?

受胎告知(部分) 背景

レオナルドの目指した心の表現は既にこの絵に表れている。人物の「心の動き」は、「肉体の動き」を通して現れるとした。神の愛すなわち人間を救済する恩寵を厳かに伝える天使の表情は静かでどこか神秘的な微笑を湛えている。天使からマリアへ、人間の魂の奥へ伝えられる。そして母としての子への深い愛として注がれる。アンナと聖母子という複数間の愛情へと展開し、普遍的な母性愛の表現となる。モナリザの普遍的な永遠な愛の表現へと消化していく。

独立直後に書いたといわれていた(1472~72)、最近では少し時代がずれて1475年頃といわれている。天使の顔の表情の違いが大きいために年代をずらしたほうが適切との考え方である。

しかし、更に最近では年代の差ではなく、作者の違いではないかと考えられるようになった。風景、前景の花の装飾などはレオナルドである、衣の表現の質感などもレオナルドの特徴。

中景と前景のつながりが悪い、建築モチーフのバランスがよくない、など疑問である。

クレディの「受胎告知」とマリアの表情などは良く似ている。

受胎告知   ロレンツォ ディ クレディ

 

「ブノワの聖母」エルミタージュ美術館 帰属に問題のない作品(ただし記録はない)1470代

Madonna with a Flower (Madonna Benois)
c. 1478
Oil on canvas transferred from wood, 50 x 32 cm
The Hermitage, St. Petersburg

Madonna with a Flower (Madonna Benois)
c. 1478
Oil on canvas transferred from wood, 50 x 32 cm
The Hermitage, St. Petersburg (額)

マリアの顔、キリストの顔にスフマート技法を用いレオナルドの特徴

心理描写が優れている。主題に工夫されている。「白い花」は受難の象徴、死を予感させる

白い花を活用して、聖母と神の子の関係を内面にまで深めて表現する。キリストが人類の罪を背負い、人類のために償いをするその運命を感じさせる内面の心理までも描こうとしている。マリアはキリストに眼をやりやさしく微笑んでいるのに対して、キリストはマリアを見ないで白い花を見つめて、やがて来る自分の死を見据えていることを暗示している。マリアの腕から手を通じてキリストに、その二人の関係がしっかりと伝わる構図   (白い花はカラシナ科の花で苦みがありキリストの受難を象徴しているという)

キリストの受難を象徴する十文字の花弁の白い花を介してマリアとキリストの関係が見るものに通じる

ベースになったものは、10年前に描かれたリッピの「聖母子と二人の天使」。

Madonna with the Child and two Angels
1465
Tempera on wood, 95 x 62 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

 聖母が全身ではなく半身像であり、構図にある部屋の形態、窓があり光が差し込む。メディチ家のために描いたものでありレオナルドは見ている。マリアの顔の表情や姿が一般の女性の姿をしている。同時代の生活を模した構図は、レオナルドにインスピレーションを与えた。

心理描写が良く出ている。「人間は心のある存在」を訴えようとしている

リッピにない要素としては、「スフマート技法」
スフマートの言葉の意味は煙で暈すということ。色を暈して立体感を出すのに使う技法。
これにより陰影表現がデリケートになっている。
衣に質感が金属的で硬い。襞に遊びを入れるのも特徴である。
髪型には強い関心があり、拘って描く。「ブノワの聖母」の髪は編んで更に束ねている。

エルミタージュ
レオナルドの部屋

ブノアの聖母 エルミタージュの展示風景1

 

「リッタの聖母」エルミタージュ

Madonna Litta
c. 1490-91
Tempera on canvas, transferred from panel, 42 x 33 cm
The Hermitage, St. Petersburg

この絵の聖母の髪型も複雑な模様をしている。 このための人物のデッサン を見る 拘って描いた跡がうかがえる。

Study of a woman’s head  レオナルド
c. 1490
Silverpoint on greenish prepared paper, 180 x 168 mm
Muse du Louvre, Paris

リッピも髪には拘った束ねた後にベールをかぶせるなど、夫人のルクリティアブーティがモデル

リッピの天使の顔の微笑みは、レオナルドの聖母の微笑みと共通するものがある。見るものと絵の登場人物とを結びつける役割。微笑により見るものがひきつけられ他の登場人物との関係に理解が進む。

 注:リッタ(Litta)、ブノワ(Benois)は、所有者の名前

「聖ヒエロニムス」 未完成。1480年頃依頼を受け、1482年にミラノに行くときに放置

St Jerome  (ヒエロニムス)
c. 1480
Oil on panel, 103 x 75 cm
Pinacoteca, Vatican

ヒエロニムスの主題の意味は二つある。

  1. 聖者の研究する姿
  2. 罪を悔いるものの姿「悔いるヒエロニムス」

ここでは、後者の姿を主題にした。石で胸を打つ。肉体表現が正確なのは、解剖学的知識が下地にあるため。レオナルドは、解剖を記録して記録して残した最初の人。

デッサンをとる==右手を上げた筋肉の図はモデルを使ったのみならず、解剖学的に正確。

「マギの礼拝」 ウフィツ

Adoration of the Magi    (東方三博士の礼拝)
1481-82
Oil on panel, 246 x 243 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

 このためのデッサン 2種

Perspectival study of the Adoration of the Magi
c. 1481
Pen and ink, traces of silverpoint and white on paper, 163 x 290 mm
Galleria degli Uffizi, Florence

Design for the Adoration of the Magi
1478-81
Pen and ink over silverpoint on paper, 285 x 215 mm
Muse du Louvre, Paris

人物表現に注目。 3人のマギの礼拝 ガスパールというマギに注目

マリアとキリストとガスパールの関係が重要 三人の図のつながりに意味が深い

取り巻く人達の配置、 礼拝している人が多く他の二人のマギを特定しにくい。羊飼いも居る。

建築モチーフで階段など不思議なところが多い。

「カーネーションの聖母子」 ミュンヘン レオナルドまたはレオナルド工房

The Madonna of the Carnation
1478-80
Oil on panel, 62 x 47,5 cm
Alte Pinakothek, Munich

キリストの身体の表現にスフマート(グラデエーション)が強く活用されている。

背景の岩の表現がレオナルド的である。カーネーションを後ろの花瓶から取ってキリストの渡す構図。

ブローチの繊細な表現はフランドル的である。

ポーズや空間の設定と花を使って象徴を表現する巧みさがある。

初期の作品終わり

盛期ルネサンス絵画の展開(その四)に続く

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盛期ルネサンス絵画の展開(その二)

盛期ルネサンス絵画の展開(その二)--サンドロ・ボッテチェリ BOTTICELLI, Sandroの作品について--

Italian painter, Florentine school (b. 1445, Firenze, d. 1510, Firenze)

ボッテチェリの略歴

1444 or 1445,フィレンツェに生まれる。レオナルドより6~7歳の年長である。

  • 20歳の頃、フィリッポ・リッピの工房に入る(~1467年)
  • 1467年ごろ ヴェロッキオ工房に入る
  • ‘70~‘81  [初期]の作品の時代
  • ‘81~‘82    システーナ礼拝堂の 側壁フレスコに従事
  • ‘82~‘90    [第2期] 作品が多くなる「ヴィーナス誕生」「春」など
  • ‘90~   [第3期] サボナローラに傾倒
  •                              91サボナローラがサン・マルコ修道院長となる

[初期] の作品を見る

Fortitude. c.1470. Tempera on panel. 167 x 87 cm  By Alessandro Botticelli. Galleria degli Uffizi,  Florence, Italy

「剛毅」1470   ウフィチ

アルテ・デラ・メルカンテ=商業裁判所 ( the Tribunale della Mercatanzia=経済上の係争を裁く)は1469年に ポッライオーロ工房に「美徳」のテーマで7つの擬像を発注した。

[美徳]

  • 対神徳 =  信仰/慈愛/希望
  • 枢要徳 =  正義/剛毅/賢明/節制

ヴェロッキオ工房との取り合いになりトラブルに発展、結果、7つのうち「剛毅」のみが、ヴェロッキオ工房に発注され、1470年にボッテチェリが納品した。

ポッライオーロ工房の他の6点の擬像の内3点をボッテチェリと比較してみる。

 美徳  剛毅を除く6点中の3点

信仰(Faith)/慈愛(Charity)/節制(Temperance)を観る。

 

上図左から信仰(Faith)、慈愛(Charity)、節制(Temperance)夫々 1470

Tempera on wood, 167 x 88 cm By POLLAIUOLO, Piero del Galleria degli Uffizi, Florence

アトリビューション(象徴)の説明

  • 信仰:十字架と聖盃、白い衣/
  • 慈愛:子供・乳・火、赤い衣/
  • 希望:手を合わせて上を見る、緑の衣/
  • 正義:剣・地図・円・球(丸い)秤の場合もある/
  • 剛毅:甲冑を着た女性像、武装・・(フォルテッシア;強さ=異教徒を意識)
  • 節制:壺・水差し・酒を水で薄める/熱い気持ちを抑える、興奮を宥める責任
  • 賢明:鏡・蛇(旧約聖書で賢いもの)

語は、女性名詞・・したがって女性像

ウフィチには7つを並べて展示してあり、[剛毅】=ボッテチェリだけが様式が異なることが見て取れる。(ボッテチェリもまた、盛期とは異なる様式が見て取れるはず・・)

        「剛毅」ボッテチェリ と 「節制」ポッライオーロ を比較

                     上図左「剛毅」  と     上図右「節制」

視点

  1. 人物を見るー顔と身体のバランス、つながり/
  2. 半円状のアーチの下で玉座に座るー玉座と人物のつながり/
  3. 後ろの壁や床の構図を見て、この表現を彫像性 生き生きとしているか?(時代の流れを汲み取っているか)ボッテチェリは、足の部分で、衣の描写を工夫して肉体の膨らみが出ている。これを吸収する工夫がボッテチェリにはある。自然な空間表現が生まれる
  4. 部屋をあえて描かないのもひずみを生まないためのボッテチェリの工夫である。
  5. ポッライオーロ工房の絵は、縦長の画面に線遠近法を無理に使ってひずみが出ている。その点「剛毅」がしっかりしている。
  6. 彫像性 生き生きとしているか?(時代の流れを汲み取っているか)「剛毅」はモニュメンタリティーがしっかりしている。

ボッテチェリは、足の部分で、衣の描写を工夫して肉体の膨らみが出ている。ポッライオーロ工房の絵は、縦長の画面に線遠近法を無理に使ってひずみが出ている。これを吸収する工夫がボッテチェリにはある。

部屋をあえて描かないのもひずみを生まないためのボッテチェリの工夫である。自然な空間表現が生まれる。  下記「信仰」との比較においても同様のことが言える。

            

       剛毅      と     「信仰」  と比較

「バラ園の聖母」 後ろのバラは、ヴィーナス(愛)を象徴するアトリビューション。

Madonna of the Rosegarden (Madonna del Roseto)
1469-70  Tempera on panel, 124 x 65 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

全体の構図、細長い画面の使い方、頭の彫像性、衣を余らせるなどはリッピの影響がある。ウルビーノにあるヴェロッキオの聖母と比較すると様式的に見て顔の表現が似ている。ヴェロッキオから影響を受け初めてている。

「ユデイトの帰還」、「ホロフェイネスの遺骸の発見」 ウフィチ 2点を見る

The Return of Judith to Bethulia  c. 1472
Oil on panel, 31 x 24 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

The Discovery of the Murder of Holofernes  c. 1472
Tempera on wood, 31 x 25 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

これらは、「ヘラクレス」と同じ場所に展示されている。主題はユダヤの町「ベツリア」がアッシリア軍に包囲されたとき、ユデイトが勇敢に町を救った物語である。

描いた背景

シスト4世が教皇に就任 彼は、教皇庁を拡大しようとした野心家であった。「教皇庁に対するフィレンツェ」を、「ベツリアに対するアッシリア」に重ね合わせた。

様式上は「ユデイトの帰還」 二人の姿勢や動きのつながりが良い。ヴェロッキオ工房と共通のもの。ヴェロッキオの「トビウス」と比較してみると良く分かる。背景もヴェロッキオ的である。

       Tobias and the Angel By Verrocchio c.1470

ボッテチェリの工夫について

  • 線の表現 衣の襞の線を工夫して、リズム感を出している。美しさを線で表現しようとするのはリッピの影響であり、「ヘロデの宴」の踊るサロメと似たものがある。
  • 「ユデイトの帰還」の手にもつ月桂樹は勝利の象徴。斜めに入ってくることで、反復されるリズムが出る。木の枝の隣かい線の描き方も同じリズムの反復になっている。
  • プラトータイプを用い、かつ前景に木を置いて、より深い奥行きを感じさせる。

 「書斎の聖アウグスティヌス」 ボッテチェリ オニサテン聖堂(下右)    St Augustine  1480 Fresco, 152 x 112 cm、 Ognissanti, Florence 

   

St Jerome in his Study  1480  Fresco, By Ghirlandaio 184 x 119 cm   Ognissanti, Florence(上左)「聖ヒエロニムス」 ギルランダイオ オニサテン聖堂(`80:真向かいに描かれた)と比較。ヴェロッキオ工房の影響がある。

(レオナルドも同じ頃に同じ主題で描かれている。ただし未完に終わる。)

St Jerome  c. 1480 Oil on panel, 103 x 75 cm    By Leonardo da Vinci, Pinacoteca, Vatican

レオナルドのすごさを最初に認めたのはボッテチェルリであり、自分の作品にとりこむ

強い彫像性が発揮されている。強い顔の表情。(アウグスティヌスアフリカの司教を意識的に表現)。ギルランダイオよりも表現が強く感じられる。

注::教会博士(ラテン語: doctor ecclesiae)は、キリスト教ローマ・カトリック教会において、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号。古代世界において活躍した偉大な4人の教父、

  • ラテン教父のアンブロジウス
  • ヒッポのアウグスティヌス
  • エウセビウス・ヒエロニムス
  • グレゴリウス1世教皇(大聖グレゴリウス)

 

「マニフィカートの聖母」 ウフィチ  半身像のマリア像

Madonna of the Magnificat (Madonna del Magnificat)
1480-81  Tempera on panel, diameter 118 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

幅が広く、横斜めの構図。人体像がやわらかくなる。首の傾きなどに工夫がある。

ダ・ヴィンチの「ブノアの聖母」を意識したものと思われる。

「書物の聖母」の構図が良く似ている。

Madonna of the Book (Madonna del Libro)  c. 1483
Tempera on panel, 58 x 39,5 cm   Museo Poldi Pezzoli, Milan

「書物の聖母」  ポリディ・ペゾッリ  ミラノ

キリストが茨の冠を現す3本の針を手に持つ。これは『死』の象徴。このアトリビューションによって二人の関係を内面的に表現する。見るものに感情移入させる工夫がされている。弟弟子(レオナルド)から多くを学んだことを示している。

 

リッピの「聖母子と二人の天使」を比較

. 

 

二つの聖母子の流れを見ると弟弟子のレオナルドへの意識が強まっていることが感じられる。

 

 

初期の特徴 整理

初期の様式  25歳のとき

  • 「剛毅」 美徳の擬人像、
  • 「バラ園の聖母」       1470年頃

特徴

  1. しっかりした人体表現–彫像性の強さはリッピの後ヴェロッキオに学んだ
  • 「ユデイトの帰還」 
  • 「ホロフェルネスの遺骸の発見」  1470~75

特徴その2

  1. プラトータイプ–コンポジション(構図)と空気遠近法
  2.  風に舞う衣の表現

 ボッテチェリ 第2期の絵画

システーナ礼拝堂の後の変化について

初期の後半の段階でボッテチェリはレオナルドの出現を目の当たりにした。ヴェロッキオ工房に入って来たレオナルドの類稀な才能を最初に気付いたのは、ボッテチェリである。その衝撃を残したまま出向いたヴァチカンで、ペルジーノとの競合をも意識したボッテチェリは、新しい時代の流れを作る何か独創が必要と痛切に思ったのではないか。

 天国の鍵の授与  ペルジーノ システーナ礼拝堂

  

ボッテチェリの三つの絵(いずれも部分)

参照 「Cappella Sistina」 システーナ礼拝堂の側壁装飾 へ

システーナ礼拝堂の三つの側壁画は時代の流れに逆らい始めたことを感じさせる。ボッテチェリはシステーナの期間に心境の変化があり、彼の様式上の変化をした。

ヴィジュアル的に綺麗であることが、見るものを引きつける要点と考えた。それは、すなわち、

リアルに再現する要素と、それとは対照的に幻想的な美しさを表現することとを併せ持つ絵に新しい美を見出した。[幻想的な美しさを表現] は絵画の中でできる特徴(絵画でしか出来ない表現)であると気づいた。そして、細かい装飾的な描写、線の美しさ、髪の表現など非現実的な美しさを主要な要素にして、余計なものを消し去って美しいところに集中して描写するところにト発展していった。

主題の多様化について

1482~1485異教徒的主題を取り上げている。異教の神々(ヴィーナスetc)を描くことの意味?ギリシャ、ローマの神々の物語は、人間のさまざまな側面を反映させたもの、と考えた。

愛、戦い、理性、欲望・・・・・etc

キリスト教の神とは異なる人間の異なる側面の表現であり、・・称えることではないと。 このことは、ヴェッロッキオから意識されだした。

当時、ギリシャ神話のアプローチとしては、「新プラトン主義」== プラトンの考えをプロティノス(3世紀)が発展させた。

万物の本源である「一者」からあらゆる実在が階層的に「流出」し,より低い階層はその上位のものの模像であり,より複雑,不完全である。万物は「観照」によって一者へ階層的に回帰することを欲し,この上下2方向への運動が実在を構成するとした。

天上界に理想の世界がある・キリスト教に近い、・・イディア。そして現実の世界(地上界)は、その不完全な写しである。地上の世界では、限りなく理想の世界に近づこうとする。 そのエネルギーを エロスという。

いろいろなものを二つに分けるという考え、たとえば 理地的←→感情的

ネオプラトニズムはイタリア全土で研究されたが・・・フィレンツェが一番進んでいた。フィレンツェ郊外のカレッジ、メディチの館が中心 コジモ・ディ・メディチ(1439~)が創設、 1460年代に盛んになる。

アカディミア・・・古代文明研究の場、ボッティチェリはここで学んだといわれる。

「パラスとケンタウロス」

Pallas/Camilla and the Centaur  c. 1482
Tempera on canvas, 205 x 147,5 cm  Galleria degli Uffizi, Florence.

この絵は、上記の「新プラトン主義」的な考えと関係がある。

ボッティチェリの異教を主題にした絵を見ながら、何時の時代に遡ってこの主題に入っていったか?

「春」 及び  「ヴィーナスの誕生」

「春」「ヴィーナスの誕生」は1490代には、ピエロ・ディ・メディチの館にあり並べて飾ってあった。しかし連作ではない・・・・その理由

「ヴィーナスの誕生」はキャンバスに描かれたが「春」は板に描かれた・・・・・・・・・・・・・・・・材料が異なる。

絵のサイズ(大きさ)が縦、横とも30㎝ほどの差があり微妙に異なる。

ウフィツでは一応離して展示してある。

(しかし連作であるという意見も根強くある)  ヴィーナス像が裸と着衣で違えてある・・を根拠にしている。誕生してまさに地上に降り立つ瞬間(裸)と地上に落ち着いたあと(着衣)とを表現したとする。

「ヴィーナスとマルス」(1483~85)                      Venus and Mars  c. 1483  Tempera on wood, 69 x 173,5 cm
National Gallery, London

やさしく見守る愛の神と無防備に眠る裸のマルス(戦いを終えて休む姿)・・「愛」が「力」に勝った瞬間を描いた。

サティオス;山の牧神=半分山羊  「愛に屈する」を象徴

ヴィーナスが軍神マルスに勝利・・・神話から発見した。

神話をそっくり描くのではなく、画家の思惟する人間の本質を描く。愛する気持ちを上に持っていくことを意識すると理想的に生きられる・・「新プラトン主義」を学んだところから発想した。

 「ケンタウロスとパラス(ミネルバ)」 は欲望と理性を象徴、知性が欲望を支配する。理性が本能を抑えることが出来れば理想的な生活が出来る。二元対立の考え

同時期(3年の開きがある)にこのような絵が描かれていることを考えて、「春」と「ヴィーナスの誕生」は、組で描かれたと言う主張である。

 

「プリマヴェーラ(春)」 1482年

主題 「プリマヴェーラ(春)」の絵にぴったりした話が神話にあるわけではない。

Primavera  c. 1482
Tempera on panel, 203 x 314 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

主題の物語は右から左へと展開する。

ゼヒロスがクロリス(大地に精)を襲う、

襲われたクロリスは花を口から吹き出す。

着衣のクロリス:西風とクロリスが同体になりクロリスはフローラに変身する(同一人物)

クロリスは裸体に近いがフローラに変身した後は着衣で花を一杯持っている//春の到来を象徴。

左の男性:メリクルース(ヘリメス)・・通信と商業の神であり、・・ゼウスの忠実な家来・・ゼウスの意志を忠実に伝える神である。そのメリクルースが枝で上を指し示す、そのところに黒い雲がある。黒い雲を追い払う姿を描いた・・冬の終わりを告げる意味がある。

ヴィーナスの上部には、クピドが描かれている・・愛の矢を当に放つ瞬間を描く。

矢の先には、3人の女性・・ヴィーナスの下女==3美神 「グラーティー(恩恵)」

授ける人、受ける人、返す人 表現している。

単に恩恵ではなく、別のことを言おうとしている。三人の手がリズミカルに表現されている。

真ん中の女性だけが質素である・・美しいが質素・・真ん中の女性が純潔を表す。左側が愛に目覚めた後の姿。右側の女性・愛に目覚めた方の手を上げて、純潔の方の手を下げていることが象徴するもの=美である。

この3人の姿で、愛の3段階を表す。すなわち、 純潔→愛→美 である。

「春」は現実的な愛の姿を表現している。

 

「ヴィーナスの誕生」 1485年

主題 この絵の中の物語に似たような話が、神話の中にある。プラトンが「饗宴」の中で言及している二人の異なるヴィーナスに関する物語。

The Birth of Venus  c. 1485  Tempera on canvas, 172.5 x 278.5 cm

Galleria degli Uffizi, Florence

主題 ウラヌス(天上界)が息子クロヌスにペニスを切られる。そのペニスが天上界から海に落ちて泡となった。

その泡からヴィーナス(アフロディティ)が生まれ、貝に乗って地上に向かう。

ゼヒロス(風の神)が後を押した、ギュロス島に到着。時の女神ポーラが着物を着せて、時間のある現実の世界へいざなう。

時の女神ポーラが裸のヴィーナスに衣を着せようとしている。ポーラの動きのあるポーズ、着せようとするマントの翻りの様子など絵画的な美の表現である。

彼は、リアルに再現する要素と、それとは対照的に、幻想的な美しさを表現とをあわせ持つ様式に変化させていく。

幻想的な美しさを表現――は絵画の中で出来る特徴であると考えた。(絵でしか出来ない

20年ほど前に描かれた師匠リッピの ヘロデ王の宴で舞うサロメのからだのひねりやポーズ、衣のフレアなどにそのイメージの元がある。

もう一人のヴィーナスはホメロス「イリアス」からの物語でゼウスと妻ディオネとの間に生まれたヴィーナス。プラトンはこの二人のヴィーナスの内、前者を天上のヴィーナスとして、精神を求める理想の愛とし、後者を世俗的ヴィーナスとして、肉体を求める世俗的なヴィーナスとした。

 

「ヴィーナスの誕生」の方は、時間のポーラが裸のヴィーナスに衣を着せようとしていることから、地上に上陸する前のヴィーナス、時間の制約を受ける前のヴィーナすなわち天上のヴィーナスを表現している。

二つの絵で、天上界のヴィーナスと地上界のヴィーナスを表現しているとして、二つは連作であるとする説が根強くある。

 

「聖愛と俗愛」という主題の絵を ヴェネティアのテチアーノが描いている。Sacred and Profane Love   1514 By  TIZIANO Vecellio
Oil on canvas, 118 x 279 cm  Galleria Borghese, Rome

左側に着衣 右側に裸のヴィーナス、傍らにクピドが石棺の水を汲み上げている。薔薇が切花で鏤められている・・切花ははかない愛を表す。

2匹のウサギ・・発情期のない動物であることから欲望を象徴する。

白:信仰 赤:慈愛  を夫々象徴

このプラトンの二人のヴィーナスから「春」と「ヴィーナスの誕生」は連作であり、「聖愛と俗愛」を表現しているとする説。

一方、連作ではないという説

裸のヴィーナスと着衣のヴィーナスは連作ではない。“誕生”が油彩で “春”がテンペラ サイズも若干違う “誕生”が小さめ。描いた時がも82年と85年と異なる。  しかし、ボッテチェリが後で頼まれた「誕生」を発想する際には、前に描いた地上のヴィーナスに対して天上界のヴィーナスを描いて対にしようしたのかもしれない。

二つの絵では、ゼヒロスとクロノスが、「一心同体の形」と「分離した形」とで描かれる、その意味は?

プラトンの説明  何故人間は愛するか?元元一体であったものが、分かれたためにもう一度一緒になりたいと思う。「アンドロギュノス」 頭二つ、手が4本、足が4本の生き物から人間は別けられた。元に復したいため互いに求め合う。このことを表現したと考える説。

春には、登場する場面や人物そのポーズなどに謎が多いことから今でもいろいろと解釈がある。

初期の絵 「受胎告知」と システーナ後の絵 「春」との様式の比較

受胎告知  春
遠近法

人物描写が正確

水平化

人物描写が幻想的

装飾的

「マニフィカートの聖母子」ウフィツ 81年前 システーナの直前の絵。周りの天使の表情が少しパターン化されている気がする。システーナ後の「春」ではまったく違う様式を現す。

受難の象徴である柘榴を持つ =赤色と種=受難と増殖

この作品と 柘榴の聖母子 トンド がウフィチで近くに展示されている。

 Madonna of the Pomegranate. c.1487.

Tempera on panel. Galleria degli Uffizi, Florence, Italy.

 

 

Madonna and Child with Eight Angels (Tondo Raczynski). c.1478. Tempera on panel. Staatliche Museen Preubischer Kulturbesitz, Gemaldegalerie, Berlin, Germany.

 「トンド・ラチェンスキー(聖母子と8人の天使ッチ)」1478

「マニフィカート」1481 および

「柘榴の聖母子」1487との比較

右の青年の描写に着目。一般的な主題でもシステーナの後変わってくることが分かる。

注:「トンド・ラチェンスキー」1478について

キリストが見る者のほうに目を向けている(マリアも同じ)

構図は左右対称に拘っている。

天地たちが純潔の象徴のゆりを持つ

マリアは正面を向見るものの方に目を向けている

「マニフィカート」1481

マリアとキリストの精神的交流を深めようとしている。体のプロポーション

前は、―――正面向きで動きを止めている、表情も無表情で奥行きが消されている。

「マニフィカート」では、―――身を傾け、動き出すような感覚がある。空間で奥行きを出す。

レオナルドの「キリストの洗礼」の中の天使の表情と比較してみる。

レオナルドには敵わないとの意識がある? 7才年下のレオナルドがますます気になった? 構図が似ている。

Adoration of the Magi  1481-82
Oil on panel, 246 x 243 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

マギの礼拝 レオナルド  82 ミラノに行く前

ボッテチェッリはこれをシステーナから帰ってきて、見ることになった。ヴェロッキオ工房からの自立を確定したこの作品の質を見た時のボッテチェッリの{衝撃}を想像する。

システーナでのペルジーノの影響とシステーナから戻ってのレオナルドの才能に対する感じから、彼は、明確に、装飾重視に姿勢を変えた、と考えられる。

ヴィーナス二点(主題が異教徒の話)の 様式 について

主題の選択が特徴的である。この頃フィレンツェでは古代研究が成果を見せ始めていた時期。

古代の神々のこと、プラトンの考え方が分かってきていた。人間とは何か 古代では人間をどのように考えていたのか、見えてきていた。

“愛”が最高のもの。理想世界と現実世界、 理想の愛と現実の愛、 この2点でボッテチェッリは考えようとしている。

「ヴィーナスの誕生」 主題のこと 永遠の愛を表している。ヴィーナスの誕生」の絵の中の物語は、ギリシャ神話に似た話がある。プリマヴェーラ(春)」 ぴったりした話が神話にあるわけではない

「春」 の主題 要約

ゼヒロスがクロノスを略奪することで春が来る。花が咲く。ゼヒロスはクロノスと結ばれてフローラ(花)になる。右 メリクリウスが 黒い雲を追い払う。 メリクリウス=(伝達の神)

様式   この作品から様式を大きく変える、1482年。

システーナから戻ってこの絵を描いた。それまではヴェロッキオ様式。ここから非現実的な身体表現になっている。

「バルディ家の祭壇画」を、同じ頃の「岩窟の聖母子」 ルーブル フランス 比較する。 83に注文を受けた。

  

聖母の姿が 装飾的で、細長く、乳首の位置も装飾的、背景を塞いでいる。

70年代と80年代の様式の差

「マニフィカートの聖母」と「柘榴の聖母」 の2作で比較すると良く分かる。“マニフィカート”を描いたのがシステーナの前、そして数年後に、ベッキオ宮のために“柘榴”を描いた。

マニフィカート  70年代末頃

柘榴       80年代後半

マニフィカートが自然な身体表現であるのに対して、柘榴のイエスの身体の長さ、マリアのなで肩など絵画的に誇張した部分が見える。

また、天使を左右対称に配置して構図の安定を図っている。マリアの表情を強くメランコリーにして観る者に将来のキリストの受難を思い起こさせるなど絵画的に人工的な工夫が入る。

第3期 90年代のボッテチェリ

ボッテチェッリの晩年の10年の表現は極端になっている。

ボッテチェッリ晩年の作品のいくつかを見る

82年にシステーナから戻って装飾的で静かな絵に変わったが、90年代に入ると感情が爆発したように「ひずみ」が出てくる。構図の安定性と人間感情の表現のバランスが外れて、人間の感情を重視した。これをレオナルドが手記で批判している、バランスを崩してはならないという考えがある・・

主題も、古代の神々を描かなくなり、代わりに聖書の中の物語や登場人物を中心以に描くようになる。

サボナローラの影響 サボナローラは神の掲示によりとして、贅沢な暮らしや異教の神々を称賛した芸術を強く批判した。1500年が近いことや周辺の不安定な時代背景との関係から影響力は広まった。ボッテチェリの兄はその熱心な狂信者の一人であったという。そうした中でボッテチェリもサボナローラの説教に影響を受けていいく。

次第にマニエリスム的な技巧的な表現になる。表情やポーズによって内面を描き出そうとする。

「受胎告知」 (カステッロの受胎告知)  1489~90

Cestello Annunciation   1489-90
Tempera on panel, 150 x 156 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

マリアの姿が弓なりに反らしてやや人為的なポーズ。(戸惑いのマリア)

フィリッピーノ リッピは ボッテチェッリのこの様式を受け継いだ。

ピエタ 1495

Lamentation over the Dead Christ   c. 1495
Tempera on panel, 107 x 71 cm  Museo Poldi Pezzoli, Milan

サンタ マリア マッジョーレ聖堂(フィレンツェ)のために描かれたと考えられている。マリアは膝に息子のイエスを抱きかかえながら衝撃のあまり失神してしまい、イエスからマリアを託されたヨハネに支えられている。イエスを愛したマグダラのマリアはイエスの足元に身体をまげて顔を摺り寄せている。空間は閉ざされており、見るものの視線は手前の人物像に集中する。それぞれが心の感情その表情の中に表されている。これは当時のフィレンツェの主流の様式から明らかに離脱している。

アペレスの中傷

夫々の登場人物の性格などを表情やしぐさで表出しようとするなど同じ流れの絵である。

1500年以降ボッテチェリは絵を描かなくなってゆく。

ボッテチェリ  終わり

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後期ルネサンス絵画の展開(その二)-カラバッジョ後期           9 

後期ルネサンス絵画の展開 カラヴァッジョ(1606年以降)

いよいよオラトリオの中に。ここから写真は禁止。

正面にカラヴァッジョの「ヨハネの斬首」1607~8年。彼の傑作中の傑作。

この絵の完成によって入団が許された。お金の換わりに絵を描いた。入団を許可するに当たって殺人のことがあるために、アロフ ド ヴィニャンクールは2回にわたってローマ教皇に手紙を書いた。パウロ5世は許可を出す。08,7に入団。

聖ヨハネ看護修道会。ヨハネは人々に洗礼を与え清める。それにより新たなる人生を出発させる。

カラヴァッジョは、ヨハネを主題とする中で何故この場面を選んだか?

ヨハネが首を切られた。キリストの教えを広めていたが、ヘロデ王に咎められてキリストのために殉教した。この物語と、騎士団員(オラトリオの左側にお墓がある)がイスラムとの戦いの中でキリスト教のために殉教したことへの哀悼を、ヨハネと騎士団員を重ね合わせて表現したかった。

他に、1606年チュニジアでイスラム教との会戦がありマルタ騎士団が捕虜になった。救済のためにお金が必要になり、オラトリオの中に救済銀行が置かれた。これを意識していた。絵の中の右の二人はこの話を取り込んでいる。包帯の男の話が伝わっている。

祭壇の側面の両側の2枚はMattia Pretiが描いた。元々はここが窓であった。カラヴァッジョはこの左下の窓から入る現実の光の効果をきっちりと意識して描いた。Mattia Pretiはカラヴァッジョの余りの上手さに嫉妬して窓を塞いだとも言われている。

実際に描かれたその空間で実物を見ると、写真の絵とでは大分違って、この絵の写実性の高さを実感できる。この絵の構図の意図もなるほどと合点できた。上を大きく開けた空間の中に、主役の4人が右側に寄せて描かれたことで、絵の世界と現実の世界とが自然に溶け込んでいて、そこで今現実に行われているかのように見える効果を出している。暗い茶色系が全体を覆っているのもこの空間でこそ自然の調和が保てているように理解できる。中央下に描かれたヨハネの衣の赤の色の鮮やかさ、皿を持ってヨハネの首を待つサロメのメイドの上半身の衣の白とそれに連なる皿を持つ右腕の肌色の明るさが、光を受けて輝くように浮き上がっている。今まで見た写真による絵では感じることが出来なかった鮮やかさ明るさが目に焼き付くようだ。処刑を執行する男の屈みこんだ裸の背中の逞しくつやのある肌がこれも光の効果でクローズアップされて残酷な現実を否が応でも見せ付ける。それに対照的に、管理者のような男が厚めの半纏を着て腰に鍵を下げて指で指図するポーズが、額と右手の甲に当たる光の効果もあって冷徹な執行人の、処刑執行を急かせるその内心をも感じさせる。一人老婆だけが手で顔を覆い恐怖と悲しみの人間的な感情を示している。顔はうつむいて見えにくく描かれているが、その髪の毛の白い筋と腕と襟の周りの古着の白い筋が年齢の刻みと共にその人間らしい感情を強く表現している。カラヴァッジョの構図と色彩と光の使い方は、現物を見て、その凄さをより深く認識できた。

現在オラトリオの左上の窓が閉ざされて光が入らないようになっている。絵の保護のためか?(カラヴァッジョのもともとの現実の光を意識した、また実際のこの明るい空間を充分に配慮しようと言う意図がやや薄れてしまっているのでは?)

最近フィレンツェで修復したばかりで、状態がとても良い。

 

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後期ルネサンスの展開(その一)カラヴァッジョ(前半)

カラヴァッジョ--ルネサンスを完成させた画家--について

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システィーナ礼拝堂の側壁画の鑑賞 

 

 システーナ礼拝堂「Cappella Sistina」

側壁画の連作 

「モーゼ伝」と「キリスト伝」(のタイポロジー)を詳しく鑑賞する。システーナ礼拝堂の装飾といえば、ミケランジェロの描いた「天井画」とその後に描いた正面の祭壇画「最後の審判」がよく知られているが、実は、礼拝堂の両側の中層の壁面には、ミケランジェロが描く前の15世紀のフィレンツェの画家たちにより製作された連作の壁画がある。この投稿ではその壁画について鑑賞する。観光に行っても天井画と正面の「最後の審判」に気を取られて(魅了されて)側壁画は見過ごしてしまうことも多いと思う。内容を知ってから行くととても内容豊かで興味を引く。

現在の内部概観 祭壇側 正面にミケランジェロの「最後の審判」 

祭壇側から出入り口の方を見た図 

15世紀(1482年頃)の内部復元図(ミケランジェロが天井を装飾する以前の姿)

天井は金色の星を一面にちりばめた鮮やかな青一色の塗装であったという。床面は、大理石と色石が使用されたコスマテスク様式 の飾り石張りである。高さ20mの建物の側壁は3層になっていて下層は金銀で布目を描きこんだフレスコ、中層がこの投稿でのテーマである連作(両側でのタイポロジー)のフレスコ画装飾、上層は更に2段になっていて上層下部は室内に光を調和して取り入れる細長い窓があり、窓を挟んで歴代教皇の等身大肖像が描かれている、最上部のルネッタは装飾がない。

システィーナ礼拝堂で最初のミサが執り行われたのは1483年8月9日である。このミサは聖母被昇天に捧げられた。

現在の内部写真 

 

システーナ礼拝堂 側壁の壁画

側壁の連作(Cycle)=(聖書/神話の物語を連続して描く)

La Cappella Sistina (Sistina とは Sist の形容詞)

シスト4世(あるいはシクストース4世)・・ 在位1471~1484

システーナ礼拝堂の概略年表

壁画制作の期間

  • 1480頃礼拝堂の建物は完成した。
  • 壁画の契約1481~82 (実際1480~1482頃・・多少早くから準備し、かつ遅れが出た)
  • 献堂式は1483年8月9日に執り行われた。聖母被昇天に捧げる。

フィレンツェの画家により壁画が描かれた背景

1478:パッツィ家の陰謀事件   に関係する・・この事件と壁画制作との関係について

パッツィ家による対メディチ家への反乱事件で、ロレンツォが怪我をしたがその場から逃れることができたが、一緒にいた弟のジュリアーノが死んだ。

メディチ家は報復として、パッツィ家の人たちを処刑し、徹底的に制圧した。パッツィ家の裏で操っていたのは教皇庁であったといわれる。

シスト4世の出身家門閥であるローヴレ家とメディチ家は領地が隣接。ローヴレ家は、北側に位置するフィレンツェを吸収しようと考え、対フィレンツェの姿勢を強めていた。メディチ家が持っていた教皇領の徴税権をシスト4世がローブレ家に奪い取ろうとしたともいわれている。フィレンツェ内でメディチ家のライバルであるパッツィ家をけしかけてロレンツォ等を滅ぼそうとした。

  • `78フィレンツェ対教皇庁(=メディチ家対シスト4世)の争いが始まる。
  • `80頃に和解の道が出来る・・・実際の和解はもう少し後になる。

険悪になった両者の関係の「和解の証」として、絵画制作をすることとなった。フィレンツェの画家に依頼されたのは、ロレンツォの賢明な計らい(政治力)といわれる。

ペルジーノ(30歳前半)/ボッテチェリ(30歳半ば)/ギルランダイオ(30歳半ば)/ロッセリ(40歳代)の4人に依頼された。後にルカ・シニヨレーリが加わった。

主題が 旧約聖書と新約聖書の連作(Cycle)であることが重要なこと。

システーナ礼拝堂見取り外略図と側壁の配置

正面の第1場面は、現存しない 1536~41にミケランジェロの「最後の審判」制作で取り壊された。

  • A:ペリジーノ  モーゼの発見
  • a;ペルジーノ  キリストの降誕

展開最後の第8場面は、16c半ばの地震で破壊され、後世に書き直された。

  • H:ギルランダイオ
  • h:シニョレッリ   オリジナルがない 現存は16cの作である。

 初めにモーセの伝記、次にキリストの伝記、夫々場面毎に主題と見どころなどについて説明し、連作の構成のあり方など装飾プログラムの説明、後半には連作の様式(夫々の画家の姿勢と相互の連携)について説明する。ボッテチェリがこの連作の後で、彼の様式を変えていることから、特にボッテチェリの様式の変化が何故起きたのか、ここで何かがあったのか探るのも重要なポイントである。

各作品の主題と見どころ

  • モーセの伝記(左側)(8場面の夫々の主題の選定など)

モーセは紀元前2000年頃の人。その当時ユダヤ人達はエジプトで奴隷(身分の低い労働者)として働かされていた。モーセは、ユダヤの民を神の約束の地(カナン~パレスチナ)に戻すことが任務となったという時代背景がある。

旧約聖書の{出エジプト記}→ 「神の約束の地カナンに戻す」モーセこそが、ユダヤ教の基盤を築いた人。

モーセ五書とは? ==「創世記」/「出エジプト記」/「レビ記」/「民教記」/「申命記」。これらが、ユダヤ教の聖書の基本、旧約聖書の最初の五書となっている。律法の書(トーラ(ヘブライ語))とも言われる。宗教的にはモーセが書いたといわれる。実際には各時代時代に書きたされたものの集約であるらしい。宗教的な意味が大きいこともあり、モーセが書いたという説が通用している。この「出エジプト記」が出典である。

システーナ礼拝堂の壁画の配置  タイポロジー=予型 という考え方がとられている。「モーセの生涯キリストの生涯」がタイポロジーの配置にになっている。信者たちはモーセの生涯の展開を見てそれと相対する場面を見ながらキリストの生涯を知るという形態である。

正面の装飾 (現存しない)

「最後の審判」がミケランジェロによって描かれる前の正面の配置

上層 キリスト、聖ペテロ、聖パウロなど聖人像があった。

中層 (現存しない次の二つの絵)

  • A:ペリジーノ  モーゼの発見
  • a;ペルジーノ  キリストの降誕

また、祭壇部分に

ペルジーノの祭壇画「聖母被昇天」があった。イメージが残されている。 

Assumption of Mary  c. 1481  By ペルジーノの工房の画家
Metalpoint, pen, wash, with white heightening, 272 x 210 mm
Graphische Sammlung Albertina, Vienna  (コピー)

ヴェネティア サン・マルコ聖堂のナルテックス(入り口)の天井部分に同じ主題のモザイク装飾(ビザンツ様式)がある。

第1場面 Aモーゼの発見 ペルジーノ (ミケランジェロにより破壊)

「生めよ、増えよ」 ユダヤ人の考え方に、エジプトのファラ王が警戒した。そしてユダヤ人の男子の子供は処刑せよとの命令。

モーセの母は、モーセが生まれたとき、深慮遠謀の末、パピルスで作った箱に入れて、ナイル川の、ファラ王の娘が水浴する近くに流す。心優しい王女に母は子モーセの命を賭けた。姉(ミリアム)を近くの茂みにかくして様子を監視させた。

ファラ王の娘は、箱の子を発見してヘブライの子であることを悟り、拾い上げて育てることにする。見ていた姉が乳母を紹介する。聡明なファラ王の娘は、紹介される乳母が実母であることを悟りつつ敢て頼む。

モーセはエジプト王の養子として育てられた。

少年モーセの事件:王がモーセをからかってエジプトの王冠を被せる。モーセがそれを嫌って、王冠を床に叩きつける(壊す)。王はこの行為を裁くために、モーセがすでに分別がついているのかどうか試すことになる。二つの皿を用意し、一方に暑く熱した石炭、一方に桃を載せ、どちらをとるかを試した。モーセは神の導きで、石炭を選んで焼けどする。(おかげで裁ばかれずに助かる。)モーセが、口が重い理由は、このときの焼けどが原因である。

第2場面 B「モーセの次男の割礼」 ペルジーノ

第3場面Cとは順序が逆になっている–対面のキリスト伝との関係で逆にした。新約の洗礼が展開の先に来ることからその対比で旧約の割礼を先に配置した。

第3場面 C「モーセの試練」 ボッテチェリThe Trials and Calling of Moses   1481-82
Fresco, 348,5 x 558 cm    Cappella Sistina, Vatican

 7つの物語が描かれている。モーセは黄色の衣に緑(オリーブグリーン)のマントを着ている。7つの物語が右から左に展開。対面の「キリストの誘惑」と逆の展開でタイポロジーを構成。

①ユダヤ人奴隷を虐待するエジプト人を殺す。(殺人罪)②ミディアの地へ逃げる③井戸で娘を妨害する羊飼いたちを分散させる ④水を汲みに来ていた娘たちを手伝う。娘は祭司エテロの娘チッポラ。「チッポラという若い女」ボッテチェリらしい美しい顔の表現である。エテロのもとで羊飼いとして暮らすモーセ ⑤ホレブ山(=シナイ山)に行く。突然声が聞こえる「靴を脱ぎなさい」命に従うモーセ ⑥火の燃え盛る茨の中から神の声。「カナンの地へ導きなさい」といわれる。ファラ王の説得が難しい。口が重いので良く説明できないといって躊躇する。神は、アアロンという兄がいるではないか、共に行くようにせよ。そして、杖が渡される、苦難のときの助けにするために。

画面の左上の燃え盛る茨の中から神の声、もっとも大切な話である。「燃える茨」。第2場面の後に来る話である⑦モーセによってエジプトから導き出されるイスラエルの人びと。

第2場面 B「モーセの次男の割礼」 ペルジーノ

Moses’s Journey into Egypt and the Circumcision of His Son Eliezer    c. 1482    Fresco, 350 x 572 cm   Cappella Sistina, Vatican(Scenes from the Life of Moses 1481-82 Fresco, 348,5 x 558 cm Cappella Sistina, Vatican)

第3場面Cとは順序が逆になっている–対面のキリスト伝との関係で逆にした。 新約の洗礼旧約の割礼との対比。

黄色い衣に緑のマントがモーセ。画面奥の中央の図は、集会でシナイ山での話をしている。ミディアの地からエジプトに戻る。奥から左に展開し前景は左から右の話が進む。チッポラと二人の子供、モーセは杖を持つ。ところが天使が制する。次男の割礼がすんでいないので割礼を済ませてから行くようにと指示。右は次男の割礼の場面。左側の側壁に描かれているので展開の順序と構図が逆方向の形になる。ボッテチェリはこのことを考えに入れて絵の展開をしたが、ペルジーノは考慮していない。

第4場面 「紅海の渡り」ビアッジョ・ダントーニオ( orロッセッリとギルランダイオ)   

Crossing of the Red Sea 1481-83 Fresco Cappella Sistina, Vatican

右奥がこの絵の最初の話、ファラ王に合うところ。カナンの地に戻してほしいと交渉するところ。「解放の願い」ファラ王は許さない。貴重な労働力を手放ししたくない。モーセは、許さないと神の導きで、災いがおきると交渉。ファラ王の子も災いに遭うと告げる。予言のとおり殺戮の天使がやってくる。イスラエル人は子羊を犠牲に供して、その血で入り口に血の印をつける。この過ぎ越しの印のあるイスラエルの家だけを残して、初子がみな殺される。この印=過ぎ越しの印をつけたイスラエルの家以外は殺戮に遭う。ファラ王の子も殺される。

ついに許されて(さあ行け!望みどおり行くがよい)、エジプトを出る。紅海をわたる際に、ファラ王から連れ戻せと指示が出る。追っ手が迫る。600台の戦車。潮が引き、嵐が近づき、モーセが杖を振り上げると紅海の水が引き、道が出来る。イスラエルの民がわたる。その後、塩が満ちて紅海の水が増えて道を塞ぎ、追っ手の兵士たちは海に飲み込まれる。

この間、昼は雲の柱、夜は火の柱が立って民を導く道標になる。中央の縦の柱が道標の絵。左端、渡り終わったユダヤ人。モーセはイスラエルの民ともども神を讃えて祝い、歌う。モーセとアアロンの姉ミリアムは小鼓を手に踊る。虜囚時代は完全に終わった。

第5場面 「十戒の石板の授与」 コジモ・ロッセリ/ピエロ・ディ・コシモTables of the Law with the Golden Calf   1481-82
Fresco, 350 x 572 cm  Cappella Sistina, Vatican

中央上、神から石板を受け取る図。シナイ山の麓に民を残して山頂に。山頂で神の声を再び聞く。大勢の民を纏めるには規律が必要。「十戒」(資料参照)  待ちくたびれて、民が動揺。アアロンが皆から集めた金を溶かして、牛の像を作ることを提案。(古代からの習慣)民は喜んで参加。

山から下りたモーセが非常に怒る(最も忌み嫌う偶像崇拝、しかも信頼するアアロンが指導) モーセは石板を叩き割る。後ろにヨシャがいる。右の上の絵は、参加したユダヤ人を処刑するところ(3000人にも)。

モーセは再び山に登る。中央は二つの事柄を兼ねた絵である。下って左に向かう。石板を見せるモーセ。モーセの顔が光っている。(ラテン語に訳すときに誤訳して角が生える・・角のある絵がたまにある)

主題の選択と配置について

特徴:異時同図・・一つの画面の中にいくつかの物語が描かれている。システーナ礼拝堂の壁画には、一枚の絵の中のいくつかの物語を描き、その繋がりや流れをスムースにする工夫がある。たとえば、「モーセの試練」の例では、7つの物語を右から左へジグザグに展開させている。そのために井戸の周りの話を意識的に二つで展開している。

「次男の割礼」の例では、中央奥に、神からのお告げをエテロへ説明しエジプトへの旅の了承を取る場面を置き、そこから左へ展開し旅支度を整えて、中央の天使による静止、さらに右に次男の割礼へと流れを作っている。

第6場面 「コラン、ダタン、アブラムの懲罰」 ボッテチェリThe Punishment of Korah and the Stoning of Moses and Aaron
1481-82   Fresco, 348,5 x 570 cm  Cappella Sistina, Vatican

モーセは、荒野の旅を続けていく。苦難の旅で、民からの救済の訴えを聞き、神の救いにより一つ一つの困難を乗り越えながら延々と旅を続ける。民は不満を常に言う。(こんなことならエジプトを出るんじゃなかった)など。モーセが神の声を聞いて、アアロンがそれを民に伝える。不満を宥める役割。

画面の右側、コラ、ダタン、アブラムがモーセに反乱し、石を持ってモーセを攻める。ヨシヤが防いでいる。アアロンの役割を私たちに替わりにやらせろと主張する。

画面の中央 モーセは、祭司とは香炉を上手く振ることが出来る人でないといけない。上手く振れた人にその役割を与えようと提案。皆が香炉を振っている場面。アアロンは悠々と誇らしげに振っている。アアロンは、三重冠風の帽子を冠っているが、ローマ法王を象徴しているといわれている。他のものは香炉振りが上手くいかずに焼けどを負ってしまう。後景の凱旋門の銘には、次の内容が書かれている。「祭司という職業は、アアロンのように選ばれたもののみが出来るのであって、誰でも出来るものではない」。「祭司」を「ローマ法王」と置き換えて読むと、時の法王シスト4世を称えている銘となる。

左端は、反逆への報いの画面。地が割れて、反逆者たちが地中に吸い込まれている。3,000人くらいの大勢が地中に落ちた。ユダヤ人でも神に従わないものは、地中に落ちるという戒めである。

第7場面「モーセの遺言」 ルカ シニョレッリMoses’s Testament and Death   1481-82
Fresco, 350 x 572 cm   Cappella Sistina, Vatican

右から左へと流れていく。モーセはモアブまでたどり着いた。右奥に、カナンの地が描かれている。

モーセはここで細かい規則を伝える(細則の伝達)画面の中央、天使に導かれてモアブの丘に案内される。神はモーセに貴方の役割はこれで終わりであると伝える。死を告げられる。

左側、モーセは、神から授かった「杖」をヨシヤに渡す。これからは貴方が群集を導きなさい。

左上奥、モーセの死の場面である。

(この後第8場面には「モーセの遺体をめぐる話」があったがその絵は紛失した)

全ての場面が 「異時同図」3~5の物語で展開されている。

  • キリストの伝記 (右側)(8場面の夫々の主題の選定など)

モーセとは反対側の側壁  祭壇に向かい右側 「キリスト伝」の連作

第2場面「キリストの洗礼」 ペルジーノ

Baptism of Christ  c. 1482 Fresco, 335 x 540 cm Cappella Sistina, Vatican

キリストは30歳で洗礼を受ける。 0~30歳までの期間、キリストは聖書にほとんど出てこない。唯一12歳のときに、エルサレムで博士たちを論破することが記載されている。

ヨハネは、キリストの親戚、マリアの従妹エリザベスの息子である。半年くらい早く生まれた。ヨハネはキリスト以前からキリストと同じような行動をしていた。モーセが2、000年前に神から法を授かった。これを守っていく立場であるが、人間は生まれながらにして罪人で、弱いものである。十戒すら守れない人が多い。この絵は二つの話が対照的に組み合わされて描かれている。一つは左から中へ進む、左奥に洗礼者ヨハネが群集に説教している話、意志の弱いものはどうしたらよいか・・・洗礼を受けなさい。モーセは割礼。ユダヤ教の最初の儀式は割礼、それに対してキリスト教の最初の儀式は洗礼。罪を持つものはその自覚を持つことが必要であり、その証として洗礼を受ける。

絵は、そこから群衆を連れてヨルダン川に向かうヨハネが描かれている。人々に洗礼を施していたところにキリストがやってくる。ヨハネは、私こそが貴方から洗礼を受ける立場であるというが、キリストは、いや、今回は私が洗礼を受けるのですと告げる。

キリストの頭上の鳩は聖霊を象徴、三位一体を表している。天なる神と神の子キリストとそれを結ぶ聖霊は一体のものであるという考え。キリストはこの後荒野に籠もって40日間断食をする。絵の右側が人々に説教をする「キリスト」。

この場面は時間の経過からすると次の絵の「キリストの誘惑」の場面と先後する関係であるが、ヨハネの説教とのバランスから、絵のタイポロジーを構成する上で、キリストの説教をここに描いた。

第3場面「キリストの誘惑」  ボテチェリ

The Temptation of Christ 1481-82 Fresco, 345 x 555 cm Cappella Sistina, Vatican

キリストは3回悪魔の誘惑を受けた。

左上が1回目の誘惑の図、空腹であろう。その石をパンに変えて見せてくれ。これに対して「人はパンのみにて生きるものにあらず」と断つ。

中央上、神殿の屋上につれてきて第2回目の誘惑。ここから飛び降りたら神が助けるであろう。飛び降りて見せろ。これに対して、「神を試してはいけない」この建物は、描かれた当時のローマにあったサン・スピリット・ローマ病院をモデルにした。

右上、第3の誘惑。小高い丘の上で広がる風景を見せながら、悪魔にひざまずくのであれば、ここから見える土地を全てお前のものにしてやる。「悪魔よ、お前がされ!」キリストがついに悪魔が正体を見せたことで追い払う。悪魔がフランチェスコ修道会の服装で描かれている。これはなぜか?

左中間、荒野から帰ってきたキリストを天使達がパンやワインで祝福する。キリストは天使たちに前景に描かれている儀式を説明しているように見える。

前景の中央がなにを描いたか良く分かっていない。祭司、助祭がいて儀式をしている。キリストが荒野から帰る途中「らい病患者」を癒した話がある。神の力が直したので、神の前で儀式をするように伝える。らい病患者が神に願った話が「レビ記」にある。この話かもしれない。キリストがこの絵の中心にいないことが不思議である。

ユダヤ教の「犠牲」の場面と取れる内容が中心にあることが意味不可解なところである。右上に天使により用意された聖餐式の卓と左の中間の天使がパンとワインで祝うことと中央の「犠牲」とのタイポロジーであると読み取ると分かるかもしれない。ユダヤ教における「犠牲」とキリストの磔による死が象徴的に表現された?)

第4場面「弟子たちの召喚」 ギルランダイオ

Calling of the First Apostles 1481 Fresco Cappella Sistina, Vatican

弟子を増強していく話。

キリストが左ガリラヤ湖にやって来た時、漁をしていたペテロとアンデレに合う。「魚を取るのではなく人を採る仕事をしないか?」と誘う。

中、ペテロとアンデレがキリストに従うことを決めている。

右側中景キリストがペテロとアンデレを従えて、船上にいるヨハネとヤコブの兄弟を誘っている。ヨハネやヤコブのことは聖書にはほとんど書かれていないが、左右のバランスを考慮して、兄弟を弟子にする話として入れた。

第5場面「山上の垂訓」 コジモ・ロッセリ

キリストはガリラヤ湖周辺で活動をしていた。奇跡を起こしたりしながら非常に評判になり、人々が多く集まってきた。

画面中央左、こんもりした丘に見えるが山上を意味している、説教をするキリストとそこに集まる人々。

モーセの律法を破壊するのではなくて、補完するためにやってきた。「律法は大切である。しかし律法は完璧ではない」  たとえば、モーセは「目には目を、歯には歯を」というがそうではない。「貴方の右ほほを打つ者には、左ほほも差し出しなさい」「汝、敵を愛せよ」

「姦淫を犯してはいけない」と書かれているが、目で性的興味をもって見る人は、心の中で姦淫を犯したことになる」大切なことは、「罪の意識を自覚して償うこと」である。十戒と八福。

中央奥、山から降りるキリスト。

前景、「らい病患者」を癒すキリスト らい病患者の体のしみがリアルに描かれている。

第6場面「ペテロへの天国の鍵の授与」 ペルジーノ

Christ Handing the Keys to St. Peter 1481-82 Fresco, 335 x 550 cm Cappella Sistina, Vatican

自分は、処刑される身であるが、その後、貴方が人々を天国へ導きなさい、ペテロに鍵を渡す。

ペテロは教会を建てる。サン・ピエトロ聖堂 (ヴァティカン)

キリスト教会のルーツを語っている。ローマ法王の起源に関係する。全ての起源として非常に重要な位置づけである。

ヴァティカンの礼拝堂に描かれていることに重要な意味がある。描かれている凱旋門の銘版の意味「シスト4世はソロモンに匹敵する法王である」  ソロモンはイスラエルに神殿を建てた。シスト4世がペテロから続くローマ法王の系譜上にある」ことを言いたかった。

奥の景の2場面 (人が踊っているように見えるところ)

キリストに対する反逆者のことを描いている。

左は「貢の銭」 キリストとユダヤの兵士達。ユダヤはローマの植民地であり、税金を払っていることに不満を言うユダヤ兵。キリストは、かれらの稼いだコインを見せてもらう。コインの裏に刻まれたカエサルの肖像を見て、「カエサルのものはカエサルに」といって、上手くはぐらかす。

右側キリストと人々。「律法は完全ではない」といってキリストに疑いを持つものたちが石を持て殴りかかる図。

第7場面「最後の晩餐」  ロッセリ

ガリラヤ周辺で活動し、サン・ヘドリンのあるエルサレムには入らないでいた。最後にエルサレムに行かなければならないこととなり、エルサレムに入る。ユダが銀貨30枚で裏切りを行う。

最後の晩餐は、元々「過ぎ越しの祭り」である。

後の3場面  ゲッセマネー(オリーブ山)にやってくる。左の画面 弟子たちが居眠りをしている。中央 キリストが逮捕されるところ(ユダの接吻)ペテロ一人だけが反抗して 兵士の耳を切る。キリストが諭す。

右の場面 ゴルゴダの丘のキリストの磔。

前から後ろ、 左から右への場面展開。

側壁画の装飾プログラム

4人による連作

4人の画家中ペルジーノが中心になっている。重要な場面を描いている。この壁画のプロジェクトはペルジーノがリーダである。シスト4世はペルジーノがスキだった。フィレンツェでも活動していたが、もともとは教皇領であったペルージャ出身であることが関係しているともいえる。

各絵の主題についてみてきたが、ここでは全体を通してのプログラムについてみる。

装飾プログラム・・装飾(彫刻、モザイク、壁画など)の際に予め決めておく。装飾プログラム(図像プログラム)は、時代により異なる。

システーナ礼拝堂の側壁は初期キリスト教時代をベースにしている。すなわち、新約聖書を、旧約聖書と関連付けて展開している。キリストとモーセを対照させて描く。

「新旧聖書のタイポロジー」   タイポロジー:語彙:タイプに分類する(イタリア語)

旧約と新約のタイポロジーの主眼は旧約の十戒と新約の八福との対比として要約される。

  • システーナ礼拝堂見取り図
  • モーセの十戒とキリストの八福 

 

 

旧約聖書中の物語に、キリストの思想や言動の予型を見る。

聖書は、 3/4が旧約、1/4が新約の分量である

ユダヤ教の経典を排除せずに残した上で、新約聖書で補完する形。

キリストの考えや、言ったことや、行ったことは、ユダヤ教の経典の中にその予型が残されているとの考え方。キリストはユダヤ教徒が永い間待ち望んでいた救世主である。

装飾の際にこれらのことを、あえて関連付ける。

システーナ礼拝堂側壁壁画の、タイポロジーの配列  緑の矢印

キリスト伝が、主体であり、これに関連付けられるものを、モーセの中から引き出して、装飾する。

各絵の主題を説明するラテン語の銘文が絵の上の欄に書かれている。

銘文の中で、ラテン語の共通(反対)の単語が相対して使われていることに注目

①.A :  a  始祖の誕生・・失われた→→ミケランジェロが「最後の審判」のために除去

②.B : b  再生のための儀式

キリスト伝では、誕生から成長過程はほとんど聖書に書かれていない。30歳の洗礼からが主である。したがって、キリスト伝を主体にしているから②場面に洗礼がくるのは不思議ではない。一方、モーセの方は、誕生から出エジプトまでいろいろ書かれているが、キリスト伝に合わせるために、割礼を②場面に持ってきた。

ユダヤ教徒が最初に行う儀式が割礼である。「国力は人力である」という考え。「生めよ増えよ」そのために男性器が清潔である必要があると思われた。”割礼”に対してキリスト教では何か?というと、”洗礼”であると伝えている。

③. C : c  始祖に与えられた試練

キリストは、洗礼を受けた後、40日間の断食のために山に入る。その間に3回悪魔から誘惑される。

注:この場面だけ、中心がキリストではない→→その訳は? 後で説明

試練に対照するものとしてモーセの中からなにを持ってくるかと考え、エジプト人を殺したこと、

キリストの試練に対して、神がモーセに役割として与えたユダヤの民をエジプトから脱出させること、を持ってきてタイポロジーとした。 その結果、モーセの物語の連作では、②場面と③場面が順序が逆順になった。 

④. D : d 始祖に同意するものたちの集い

ガリラヤ湖で漁師をしていたペテロとアンデレの二人を弟子に加える。さらにヨハネとヤコブを弟子にする。弟子を増やしていくことを描く。「福音を伝えるものの許に人々が集まる」

モーセの方は、紅海の渡りの場面がくる。

モーセがファラ王を説得して民をエジプトから脱出させるが、ファラ王の気変わりで、連れ戻されそうになる。紅海をわたる際の奇跡で追っ手を退けた。

神の助けに感謝し人々が集い、歌い踊る。人々はこの奇跡により、モーセに付いて来て良かったと考え、モーセの許に集まる。

もう一つ、水のモチーフもタイポロジー。ガリラヤ湖の漁師から救いの人々が集まった。モーセは紅海の水の奇跡で民が救われた。「水と救済」がもう一つのタイポロジーのテーマである。

⑤.E : e 法の公布

弟子が12人になり説教をしたり奇跡を起こしたりして評判になっていった。人々を連れて山に登る。山の上で説教、垂訓をする。 福音の法の公布である。

どういう人が、神の救いが与えられるか、など・・キリストの「八福」

モーセは、「十戒の授与」  他にも神の声はある、強くないといけない「目には目を、歯には歯を」

キリストはこれらを引用して、新しい福音を説いた。補完したという形である。

全体の中で、最も分かりやすいタイポロジーとなった絵である。

全体で最も重要と思われる。

律法主義と福音主義・・・・律法を残しつつ福音で補完した。すでに千数百年を経過していた。

「律法を言動で守っても、心の中で法を犯している」 人は弱い者、これらこそ救われる。

⑥.F : f 始祖への反逆

天国への鍵をペテロに渡す・・ローマ法王のルーツを描いた。銘文には「イエスキリストへの反逆」とある。絵の中心にはローマ教皇のルーツを描いて反逆の場面は後景に小さく二つ描いた。

モーセは明確に反逆の場面を3つ中心に描いた。キリストでは反逆を弱く表現して、モーセのタイポロジーで反逆の事実を伝えた。

もう一つ、「選ばれたもの」がタイポロジーのテーマである。

キリストに仕えるペテロと、モーセに仕えるアアロンが対称。 司祭(教会)は選ばれたものがやる。

アアロンが三重冠を冠っている。キリスト教の教皇の姿を表現し、その意識を伝える。

⑦.G : g 法の伝達

伝達の儀式、聖餐式(パンはキリストの肉、ワインはキリストの血、キリストの肉と血を弟子たちに入れた。  死を認識し、福音を遺言として、引き継いでくれと伝えた。

モーセは、カナンに到着し、モラブの地でカナンに入る際の「法の細則」を伝えた。

後継者=ヨシヤを指名し、神から授かった杖をヨシヤに渡す。そして死の場面。

キリストの死の場面とモーセの死の場面が絵の中に占める位置で対置している。

ボッテチェリの担当した場面の難解な図像について

キリストの誘惑とらい病者の清め≫ について、図像の話をしたい

よく分からない主題(キリスト以外の人が中の場面)が中心におかれていて難解である。 なぜか?

神殿の祭司が三重冠を冠る、これはローマ教皇のもの。

→→シスト4世が、自分の肖像を描かせた可能性が指摘される

理由

  1. 神殿の建物は当時ローマにあった病院の建物で、オスペダーレ・ディ・サント・スピリット。この病院は、シスト4世がらい病患者救済のために建てたもの。
  2. 樫の木が神殿の横に描かれている。樫の木はローヴェレ家の紋章でシスト4世の出身家門。司祭が着ているコートにも、ローヴェレ家の紋章と近い模様が描かれている。

 

パッツイ家の陰謀を総括した絵」説

パッツイ家の陰謀・・1478年、パッツイ家がメディチ家に反旗を翻した。

フランチェスコ・パッツイ

ジャンバティスタ・ダ・モンテセン

フランチェスコ・サルヴィアーニ

この3人が組んでメディチ家のロレンツォとジュリアーノを襲い、

ロレンツォが重傷を負いジュリアーノが殺害された、事件。

これは単なるフィレンツェの内輪もめではない。

三人の犯人の一人ジャンバティスタ・ダ・モンテセンは、シスト4世(在位1471~1484)の主要幹部であり、軍事部門を担当していた。すなわち、この事件の裏には、シスト4世が介在していた。

シスト4世は就任当初から財政管理をメディチ家から取り戻そうと考えていた。メディチ家が就任の挨拶で財政管理の継続を頼んだ際に断っている。甥のジオーラモ・リラーリオをイモラに派遣するなど、フィレンツェ領土を3方から攻め込む。教皇領と隣接しているフィレンツェに圧力をかけていた。領土を接して争い状態にあった。

シスト4世は、メディチ家のライバルであるパッツイ家を嗾ける。

この事件で危うく難を逃れたロレンツォは、フランチェスコ・パッツイとフランチェスコ・サルバーニを処刑しポンティベッキオからつるした。

`78戦争状態に入る

ローマ教皇は、ナポリと組んで海から攻めた。これに対してフィレンツェは、ミラノ、ヴェネティアと組んで全イタリアを巻き込んだ戦争に入りかけた。

1482年12月に和解。教皇庁とメディチ家で話がまとまる。→→トルコの攻勢が始まり、異教徒の侵入を防止しなければならない事態が、両者を和解に向けた。

和解の証として、システーナ礼拝堂の壁画装飾をロレンツォが提供することとなった。

ローヴレ家の紋章→→緑の地に白抜きで樫の木を模様化した図柄。

三重冠の司祭のマントの模様がこの模様と似ている。司祭がローヴェレ家出身のシスト4世を表す。

絵の右下子供がぶどうを抱える、そこを蛇が絡んでいる。ぶどうは死の象徴、蛇は悪の象徴で、不吉な予感をさせる描写。「悪によって死に至る」意味。

司祭の後ろにいる人物がジュリアーノに似ている。ボッテチェッリの「マギの礼拝」を参照。

「マギの礼拝」の絵にはメディチ家の人々が肖像のように描かれている。この中のジュリアーノに似ている。

また「ジュリアーノの肖像」ワシントン・ナショナル・ギャラリーを参照

パッツイ家の陰謀により死亡したジュリアーノが、「シスト4世とロレンツォの和解」を象徴すると解釈。

さらに左端の、(中央に背を向けている)3人をこの陰謀の3人とする。真ん中は聖職者の服装で聖職者は、サルビアーニか。

悪魔の服装が、フランチェスコ修道会の修道士の服装であることの不思議。首謀者がフランチェスコという名であり、この名が由来するフランチェスコ修道会の修道士の修道着で、絵の中のキリストを誘惑する悪魔の服装を表現した。

側壁画の「様式」について

4人の画家は、礼拝堂の建築家ジョヴァンニ―ノ デ ドルチとの間で1481年10月21日に契約を交わしている。現存する壁画は、12作品であるが、当初はモーゼ伝、キリスト伝が夫々8作品ずつ16作品であったということは既に述べてきた。しかしこの契約では4人が10作品を描くと記されている。なぜ16作品ではなくて10作品なのか、この理由について松浦弘明先生は、10月の時点では既に6作品が完成していて、その結果を評価した上で、残る作品のための条件を付した新契約書になったと推定されている。

4人の連作の「様式」のことを話しながらボッテチェッリの様式の変化のことを説明したい

システーナ礼拝堂の作者と配置

様式を見る際に重要なことは、

誰が?どの部分を?描いているか?

意図は何か?

どのように描いているか?

 を見ることである。

プロジェクトリーダはペルジーノであろう。ある程度の基準をペルジーノが決めた。

基準の決定:ペルジーノ

  • 1画面中に描く物語の場面数
  • 複数場面の画面中の配置のあり方
  • 人物像の大きさ
  • 地平線の位置

基準の絵  ペルジーノが描いた

「モーセの割礼(B)」「キリストの洗礼(b)」「キリストの天国への鍵(f)」

が基準の絵である

  • 場面数:3場面が基準
  • 配置「天国への鍵の授与(f)」が基準::ヴァチカンのルーツを描いた

主場面を前景の中央に近いところに配置し、副次的な場面は中景に小さく配置

  • 人物像の大きさ 前景の4/10位、中景の人物は前景の1/4位

人物像の様式はヴェロッキオ工房を引き継いでいる。

ヴェロッキオ工房の「キリストの洗礼」から始まる人物像の特徴を持っている。

  • 解剖学的に正確な描写
  • ポーズの研究が進んでいる動きが正確に描写されている
  • 顔の表情が生き生きしている写実的に正確に表現されている
  • 内面的なものを感じさせる表情の描写
  • 地平線はほぼ真ん中位に配置

空気遠近法を大胆に用い、奥行きの出し方が進んだ。

空間の連続性を出す為に人物の配置に気を配っている。

主人公だけでなく他の人たちをいろいろ描くことで、情景を良く表現する

「キリストの洗礼」の人物配置を参照にして人物配置の検証をする。

ペルジーノが基準を示した。「天国への鍵の授与」が全体の基準の作品である

基準に対しての画家の姿勢

次に考えることは他の画家たちが基準に対してどのように考えて描いたか?である

ギルランダイオについて

「紅海の渡り」/「弟子たちの召喚」 両方とも非常に良く基準を守っている(率直に従う)

「紅海の渡り」では、エジプトの兵達の敗北を強調するためにダイナミックな感覚が強調されている

ロッセリについて

「十戒の授与」/「山に上の垂訓」/「最後の晩餐」

当時すでに50歳位でペルジーノより年上である所為か、わが道を行くといった感じを受ける

「山」が主要なモチーフであるという特徴を生かす必要性があったことも併せて、

少し違った感じを受ける。しかし、基本的にはペルジーノの基準に従っている。

モーセの右側と左側を対比させる構図では構図の纏め方に多少の難がある。

「最後の晩餐」では地平線の高さは守っているが多少バリエーションを作った。すなわち、3場面を連続させない手法をとるなど。

シニョレッリについて

「モーセの死」

ロッセリの「十戒の授与」に近い様式の構図をとる

ボッテチェッリについて

「モーセの試練」/「コラン、ダタン、アブラムの懲罰」/「キリストの誘惑」

「キリストの誘惑」

キリストが与えられた試練(=誘惑)→→描かれた3場面とも同じレベルの重要なテーマである。

「コラン、ダタン、アブラムの懲罰」は「天国の鍵」の真向かいにあることを意識している。

時代に合わないモチーフ〈凱旋門〉をあえて描いた。しかも画面の真中に大きく配置した。

その真意は何か?

また、3場面を連続して描いた。しかし、前景に、まったく同じ大きさで描いた(基準とは違う)。

―――ボッテチェッリは画面の平面化を意図したと考えられる。

また、大きな凱旋門で画面を塞いで奥行きを消す試みを行っている。

「モーセの試練」は画面の平面化がさらに進んだものと考えられる。どれが重要か分からないようにして均等に描かれた。神の声を聞く場面が最重要で、次がエジプト人を殺害する場面。靴を脱ぐとか井戸端で水を汲む場面などは重要性がない場面。様式的に見た場合、システーナ礼拝堂の中でもっとも不思議な絵である。あからさまなペルジーノへの反逆の姿勢が見える。

空を見せない、「山」で後景を塞いでいる、空気遠近法を避けるなど、意図して平面的に描いている。

この後のボッテチェッリの作品に引き継がれていく様式といえる。

まとめ

様式上の基準作は、「天国の鍵」ギルランダイオは率直に従った。ロッセリはわが道を通した

ボッテチェリは変化している。空間をなくしていく。

後の作品である「春」に繫がって行く様式が、「モーセの試練」の中で見えている。

ボッテチェリのシステーナ以前の作品 「受胎告知」、「マグニフィカートの聖母」ウフィツ を見る。

 

 

 

 

 

 

違いが大きい。 ポーズの工夫で動きのある人物像を表現。

‘82の「春」では様式が変化した。

感情が表に出ない。/キューピットの身体表現が奇妙。/人物表現を意図的に変えている。

正確に描くことを重要視した時代の絵としては不思議な人物像である。

この変化はシステーナ礼拝堂時代に想起したと見る。

システーナ礼拝堂の3つの絵は、時代の流れに逆らい始めたことを感じさせる。

ボッテチェッリは、システーナで様式を変えた。

ヴィジュアル的に綺麗である。→→惹きつけるポイントと考えた。

「新プラトン主義」の影響が出ているか?

リアルに再現する要素と、それとは対照的に、幻想的な美しさを表現とをあわせ持つ。

幻想的な美しさを表現すること――は【絵画】の中でのみ出来る特徴である。細かい装飾的な描写、線の美しさ、髪の表現、非現実的な美しさをテーマに、余計なものを消し去って、美しいところに集中して描写した。

以上のことを記述した著書は、今のところ存在しない・・松浦先生の独創。

システーナ礼拝堂の側壁画            

カテゴリー: 0Arte Rinascimentale Itariana, 3Periodo di massimo splendore rinascimentale, 未分類 | 1件のコメント

スクロヴェーニ礼拝堂(パドバ)の壁画装飾(2)

スクロヴェーニ礼拝堂(パドバ)の壁画装飾(2)「キリスト伝」

ジョット―の最重要作品といえるパドバのスクロヴェーニ礼拝堂の内部の壁画装飾について、前「半マリア伝」までと後半「キリスト伝」の二回に分けて観てゆく。この投稿では後半の「キリスト伝」と寓意「美徳と悪徳」を観る。

キリスト教の公認(313)、国教化(392)が ターニングポイントで4世紀にヨーロッパは文化面で大きく変わる。

絵画は、文字を読めない人に対して聖書を伝えていくのに、聖堂の中にイラストを描くことに始まり、可視化の素材としての聖堂装飾の必要性と共に発展した。

基盤が出来る過程で、特に重要なのは5世紀から6世紀の時期である。基盤が出来る過程とは、

  • ・図像プログラム  (装飾プログラム)
  • ・図像の規範が出来た(図像伝統が生まれた)
  • ・手本の聖書 (ヒエロニムスのラテン語翻訳したもの)
  • ・様式の統一 (神とは、イエスとは、マリアとは、)規範が作られた

中世美術はこれら規範を保持していくことが基本===規範を守る。5,6世紀から13世紀頃まで 700年くらい守り続けられた。これは 個の否定に他ならない=>>作者の個性は出ない。かなり厳しい中での作者の個がないわけではないが、作者の名前はほとんど出てこない。(古代は、アペリス、クラクンラレス などこの名前が出た)

ヴェネチアのサン マルコ聖堂のモザイクの製作者の名前は分からない。作者名は中世の間はほとんど記録さえされていない。個性は必要ないということであった。

13世紀半ば過ぎから少しずつ変化が出てくる。

そうした流れの中で出てきた作者がジョット-である。

スクロヴェーニ礼拝堂は、1305年に完成。

高利貸しで成功したレギナルド・スクロベーニの孝行な息子エンリコ・スクロベーニが建立。

ローマ時代の円形劇場(アレーナ)の廃墟の地域を購入したのでアレーナ礼拝堂とも言う。

パドバの街でもこの辺りはアレーナ地区といって楕円形の地形になっている。(アレーナ遺跡の壁面が所々に残っているので地形が察せられる。)

1300年頃、エンリコ・スクロベーニが土地を購入し、父の贖罪の目的で礼拝堂を建てた。 献堂式は1305年3月25日行われた。5年で完成

ジョットが来た年と装飾が完成した年は分かっていない。1303年ごろと推定されている。2年くらいかけて1305年に完成させた。

ジョットは1290年代後半にアッシジで仕事をし、1300年にはローマに呼ばれて聖年祭のためにラテラノの壁画を手掛けた。

ローマから戻ってきて、フィレンツェの仕事、オニサンテの聖母子像を完成してから、この堂、スクロヴェーニを装飾した。出来た当初から一般公開されていた。

高利貸しの利子による儲け過ぎで、同家は忌み嫌われ地獄に落ちると考えられていた。社会への還元をする慣わしのあるイタリアでは今も伝統として残る。

入り口から祭壇を見て、正面から見る全体図

礼拝堂の壁面はプレ・ ルネサンスの巨匠ジョットが描いたフレスコ画で埋め尽くされている。 内容はキリスト教の教義で、紙芝居のように順番にストーリーが展開される。 「ヨアキム伝」「マリア伝」「キリスト伝」寓意の「7美徳と7悪徳」である。

向って右上から40場面前後が描かれる。物語の展開は時計回りに配置されている。

右側一番奥の祭壇よりのところに「最後の晩餐」はある。ヴェネツィアのサン マルコにも「最後の晩餐」の主題がある。年代は12世紀の終わり(1170~1200)。一方、スクロヴェーニ(1300~1304)で、年代差は、120年くらいである。

変化が大きい→→→これを考えていく

ルネッサンスでも描く主題に変化はない。画家は聖書の物語をしっかり把握する。福音書が四つ、「マタイ福音書」、ルカ マルコ、ヨハネ。

天井には ブルーの星空の中央にアニスデイと4福音書のそれぞれの象徴が描かれている。

礼拝堂の壁面はプレ ルネサンスの巨匠ジョットが描いたフレスコ画で埋め尽くされている。 内容はキリスト教の教義で、紙芝居のように順番にストーリーが展開される。

 

 

マリアの両親の物語「ヨアキム伝」、聖母マリアの物語「マリア伝」、キリスト教の教祖イエスの物語「キリスト伝」、それに最下層の寓意「7美徳と7悪徳」。時計回りで(3段+最下層1段)にわたり展開される。

この投稿でのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画装飾の鑑賞は、後半のキリスト教の教祖イエスの物語「キリスト伝」を鑑賞する。
 

「キリスト伝」は、第14,15場面の受胎告知から展開する。位置上では、第2層(中の層)正面が第16場面、右奥祭壇側第17場面から入り口へ向かって展開し、コの字に回って左祭壇側最奥第27場面、第28場面は正面、そこから下の層第29場面に来てもう一回りして第39場面まで展開する。

第13場面 神が大天使ガブリエルを聖母マリアのもとへ送り出す絵

No. 13 God Sends Gabriel to the Virgin  1306
Fresco, 230 x 690 cm  Cappella Scrovegni (Arena Chapel), Padua

アルコ トリオンファーレ 「凱旋アーチ」の絵。第13番はどちらの福音書にも出てこない。「凱旋アーチ」の絵は、ジョットの考えたことで、ガブリエルとマリアの図像だけでは構図にならないと考えた。

神の存在へのイマジネーションを膨らませてこのアーチ内の図像を創出された。上部は保存の状態が良くない。

神の像は「板絵」である。開閉式のドアになっている。

  • 献堂式 1305年3月25日  (受胎告知の祝日)
  • 第14,15 受胎告知から「キリスト伝」が始まる。引用は
    • 16,17,19,20 マタイ伝
    • 14,15,16,18、  ルカ伝
  • 受胎告知を祭壇正面の位置に配置した。

主題の受胎告知について

天使がマリアのもとに訪れ、キリストを身ごもった事を告げる。

この絵は祭壇側に神と天使たち、左下に神のお告げを伝える天使ガブリエル、右下にそれを受ける聖母マリアが配されている。

(二つに絵を並べて(近づけて)見る。

(話の展開) ルカ伝  第1章 26~38節より

1.ガブリエル 「主があなたと共にいる」

マリアが戸惑う

2.ガブリエル 「マリアよおめでとう、あなたは身籠って男の子を産む」

マリアは反論する

「そんなはずがありません。私は男の人を知りませんから。」

3.ガブリエル 「聖なる神には不可能なことは一つもない。」

マリア   「私は神の端女です。あなたのお言葉のように私におきますように」祈る

マリはが受け容れる

画家たちが3段階のどの部分を描くか。ジョットは受け容れの場面を絵にした。後の画家たちに続く。モナコ、アンジェリコなど。

 

上記5つの絵が連携している

画家たちが3段階のどの部分を描くか。

ダフニの修道院 モザイク の 受胎告知 は 第1段階

フィレンツェ

コッポ デ マルコバルド以前は、ビザンツィンの図像を踏襲する。ウフィチのビザンツィン「聖母子」の下部に 受胎告知

ジョットと同じ時代 ローマ サンタ マリア イン トラステヴェレ聖堂 アプスのモザイク ピエトロ・カヴァリーニ 1291年

やはり、 第1段階の図像  戸惑いの様子が表現されている。 

ジョットの受胎告知は、3段階目の図像  ガブリエルの言葉を受け容れた姿を描いた。

神の姿、玉座はオニサンテの聖母に近い。

マリアの背景に、左上から右下に向かって細い線が斜めに多く描かれるが、これは聖霊を象徴している。

建築モチーフのリアリティがしっかりとしている。カヴァリーニと比較するとビザンティンからの変革が理解しやすい。

マリアは、イザヤ書(旧約の預言書)を読んでいたところであった。部屋の内と外を区別するカーテンを配置。柱にはバルコニーなどを入れて奥行きを出している。

三次元的な空間が上手く作られている。現実性が良く出ている。光臨の向きなども実態を表現している。

最上部 神がガブリエルを使わす、正面 受胎告知 上層両側、受胎告知のガブリエルとマリアを夫々配置し、マリアの下、中層に、エリザベス訪問を配置し、中層右側の キリストの物語へと繋げていく。

凱旋アーチを一つの画面として見る際の各々の意味と関係について考える。

このスクロヴェーニでは、「ユダの裏切り」と「エリザベス訪問」が同じ構成をとっている。キーワードは「生む」、しかも、自然の理に反する生みだし方、すなわち金を生む、処女が子を生む。

七つの大罪の一つ”強欲“の罪

コントラハッチャードの「最後の審判」の天国と地獄に夫々対応している。

信者は、説教を十分に聞いて感情移入された後に、外に出ようとするとそこに最後の審判の絵が厭が負うにも目に入る仕組み。たたみ掛けるように感情移入される仕掛け。

16 マリアのエリザベスの訪問

受胎告知の後、マリアは従妹のエリサベツを訪ねる。 エリサベツも妊娠中で産まれてくる子が洗礼者ヨハネ。 ヨハネはイエスより6ヶ月早く生まれる。エリザベスはやや年齢が上の女性として表現されている。

マリアとエリザベスのぶつかり合いの構図で、マリアを上位において、ヨハネとキリストの関係を暗示している。

マリアの赤色の衣とエリザベスの黄色の衣装が目立つ色彩になっている。

顔の表情や髪の様子なども丁寧にしっかりと仕上げている。マリアの髪型は三編みで光臨もしっかり盛り上げる工夫がされている。

左側の2段目は間に窓が存在するために5つの場面となる。

17 キリストの降誕

ナザレ:住んでいた所  ベツレヘム:ヨゼフの故郷(ダビデの生まれたところ) エルサレム

ヤコブの原福音書

偽マタイ伝    洞窟の中で生まれて3日後に厩に移る。羊飼いたちのお告げについては、どちらかの福音書。ユダヤの王となるものが生まれた。礼拝しなさい。

ホシオスルーカス修道院 マギの礼拝 誕生は洞窟の中、羊飼いの礼拝も含まれる。

ダフニ修道院 (100年後) 洞窟の中 羊飼いもいる。

カヴァリーニの図像は ビザンツィンの図像を引き継いでいる。

(ルカ、マタイ、ヤコブ、偽マタイの中から取り出している。)

伝統に従っていて、新しい創造が少ない。

ジョットは洞窟から3日後に厩に移った後の姿をイメージして描く。

主役の精神的な結びつき、すなわち人間マリアと人間キリストを良く考えてそれを図像に表した。

息子の誕生というのにヨセフはずいぶん浮かぬ目つきである。こういう表現もジョットらしいところ。

 

母子がしっかりと見詰め合っている、その視線の交流がリアルに表現されている。

生まれたばかりということを考えると少し変だが、普段から「母子の心の交流」をよく観察した上で、それを表現しようとしている。

ジョットの描く横顔には、類い稀な「品」が漂う。

18 東方三博士の礼拝

東方三博士がキリストを拝みにはるばるやって来て、黄金・乳薬・没薬を捧げる。 それぞれ(王)権・聖・死(受難)を表し、イエスの生涯を象徴している。

三博士が目印にした星が頭上に輝き、天使も当然のように傍らに控えている。

マタイの福音書によると、三博士は星に導かれた。東方とはペルシャのこと(占星術が発達していた)。

1303年にイタリアにハレー彗星が見られた。ジョットはそれを絵に組み込んだ。

エルサレムに来てヘロデ王に聞く。ヘロデが周りに聞く。ダビデの子孫と同じ所とはベツレヘムであろう。

博士というよりは王として表している。(王冠など)

三つの土産を持参した。 金/乳香/モツ薬(死ぬときの薬)

三人の名前  カスパール、バルタサール、メルキオール の三人

7世紀 イギリスの神学者 三つの土産の象徴するもの。

  • 金  =王の象徴
  • 乳香 =神秘性の象徴
  • もつ薬=イエスの死の象徴

絵と絵の間の連結性がジョットは良い。

19 神殿奉献

主題 子供は神にささげる  モーセ「民数記」 による。

浄化するために夫婦は献物をする、羊か鳩を献る。それにしたがってシメオン祭司のいる神殿に詣でる。

シメオンという祭司は年老いていた。救世主を見るまでは死ぬことが出来ない。キリストを見たとき、ユダヤの救世主であることを悟った。

これで私も神に召してもらえる。それをそばで聴いた預言者(アンナ)がエルサレム中に広める。

この主題の登場人物は五人だが、さらに一人を描がいている。

イエスもモーゼの定めたユダヤ教の儀礼にということを示している。

それよりも重要なことは、シメオンが救世主の出現に気づいたということ。

尚、参考までに、 カヴァリーニは、チボリュームの三次元的な表現で様式的にジョットに先行している。

20エジプトへの逃避

ヘロデ王が幼い救世主を殺害しようとしている…というお告げを聞いて一家は急ぎエジプトへ避難する。 心配そうなヨセフに対し聖母マリアは威厳に満ちた顔でしっかりと姿勢を正している。

天使もちょっと心配そうにきっちり脇をガードしている。

何でエジプトに行ったのか聖書には書かれていない。

岩の描き方がきちんとしていて3次元空間を作り出している。

21 嬰児虐殺

一家が逃げたのも知らず、ヘロデ王はベツレヘム近辺の嬰児の殺害を命じる。 最もむごい場面(2歳以下の子供を皆殺し)で、わが子を取り上げられ殺された母親たちの嘆きが伝わってくる。母の悲しみが表現されている

残虐さと悲しみとを対比して浮かび上がらせる。

上に王が居て命令している。その通りに冷たく実行する人達がいる一方で、それを嫌がる表情の人達を描きいれる。

22 博士たちと議論するキリスト

ナザレの町に住んでいた。イエスが12歳のとき過ぎ越しの祭りにヨセフの一族はエルサレムに行く。ソロモンの神殿辺りでイエスを見失う。ところが、イエスがサンヘドリンで律法学者達と一緒に居て、学者たちと意見をたたかわせている所を発見される。

マリアとヨセフが心配して訊ねるとイエスは言い返す。イエスは「私が父の家にいることをご存じなかったのですか?」と逆に問いかける。

何を言いますか?ここは私の家である。==自分が神の子である、という意味。

23 キリストの洗礼

成人したイエスは親戚の洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受ける。

その時、空から精霊が現れて「あなたは私の愛する子、心にかなうものである」という声が下りてくる。
ヨハネは現体制から変革して新しい時代に入ることを悟り、人間は罪を自覚して、その罪を償う必要がある。その証として洗礼を受けなければならない、とした。

自分は先駆者のために、道を整えている役割の者との自覚が出来ている人。

洗礼における意味。

神の声 私の愛する私の子であるあなたは私の思いに適うものである。

神の顕現 公現(ラテン語:エビファーニャ)

伝統図像では、 ホシオス、ダフニ 修道院のモザイク

水の表現はその図像に添っていて、 平面的。

24 カナの婚礼  供食の奇蹟

婚礼に招かれたイエス一行。途中でワインが足りなくなった。 それを告げられたイエスは水がめに水を入れて運ぶように命じる。 その通りにすると、水がめの水はいつしかおいしいワインになっていた…

いくつかあるキリストの奇跡の中の一つのエピソード。

25 ラザロの蘇生

奇跡 治癒の奇跡

:知り合いの姉妹(ベタニアのマルタ・マリア)の弟ラザロが亡くなったと聞かされたイエス。嘆き悲しんだ後「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわると、ラザロが生きかえった!死後数日たっていたので鼻を覆っている人もいる。

「過ぎ越しの祭り」が近づいてきてエルサレムの人々が集まってくる。イエスがエルサレムにやってくる。  パリサイ人は イエスを亡き者にする機会ととらえる。イエスはそのことを充分に承知した上でエルサレムに入る。

26 エレサレム入城 イエスはロバ(メス)に乗っている。もう一頭子供のロバが居る。エルサレムの人達が出てきて歓迎する。棕櫚の木がある。二つのグループ

左 イエスたち      右 エルサレムの人達  棕櫚の木の上の人が二つのグループを繋いでいる。

イエスはエルサレムの近くでメスのロバと子供のロバを調達。何故ロバで入るのか?ザカリヤ書に救世主はメスのロバに乗ってやってくる。旧約の預言書を実現するためにロバに乗る。

民衆は「ホサナ」と叫んで迎えた。背の低い者が木の上に登って迎えた

様式的には、 サン マルコ聖堂(120年前)同主題のモザイクと比較すると理解しやすい

ピエトロ カヴァリーニまでは ビザンツ様式であり、ジョットが革新的に変化させた。

ビザンツ:

金地背景、地面を線で描く程度、象徴的な表現である。エルサレムの街の風景は記号的に表現されている。

ジョットは:

写実性が格段に進んでいる。中世の表現は写実する(自然に表現する)よりは分かりやすくすることが大切で、説明的な表現をとる。

中世の群像表現では象徴的に表現される

正面を向いている必要があり(3/4面観もあるが)、それに対して

ジョットは画面上で視線を交錯させるように表現した。ジョットには創意があり、伝統を破った。

イエスがエルサレムへ入城すると、群集は熱狂的にイエスを迎え「ホサナ!」と叫んだ。 人々はこぞって衣服を脱いでイエスの行き先に敷き詰め、薫り高い木の枝を折り取って供えた。

慌てて上着を脱ごうとしている子供を描くなどよく観察されている状況表現である。

27 神殿から商人を追い払うキリスト 

牛を買ったり、羊や鳩を売ったりしている両替商が居た。犠牲にささげる動物は、その人物が持っているもので一番良いものを神に献げる。それが、エルサレムでは形式的に献げる風潮になっていた。

特に両替商(=高利貸し)を批判した。[使徒言行録]

形式上でしか守られていない律法主義者の批判を意味している。

エンリコ スクロヴェーニは高利貸しで富を築いた。理に反する行為で地獄に堕ちる。クロヴェーニ家としてはデリケートな主題である。

(これで左側 6場面を終わる)

中層  二場面   二場面    二場面   の構成

凱旋アーチの様子、 その向きの先、上層は受胎告知

エルサレムの神殿は神聖な祈りの場ではなく、両替商や家畜売りの市場となっていました。 「わたしの父の家を商売の家とするな」 とイエスは商人や家畜を追い出し、両替人の机をひっくり返して金を撒き散らしました。

弟子も手出しをせず遠巻きに眺めている。

画面の右端では「あいつを何とかしないといかんな…」と祭司が画策中?と思われる表情。

28 ユダの裏切り 神殿でイエスが説教をして入る際にユダに悪魔が入り込む。ユダはパリサイ人に銀貨30枚で情報を売る。キリストはオリーブ山で祈るからその際に逮捕するのが良いという。

神殿の中にいるパリサイ人とユダの裏切りを交渉中のパリサイ人(高位聖職者)は、三人で同じ服装をしてリンクしている。

凱旋アーチを一つの画面として見る際の各々の意味と関係について考える。

このスクロヴェーニで、「ユダの裏切り」と「エリザベス訪問」が同じ構成をとっている。

キーワードは「生む」、しかも、自然の理に反する生みだし方、すなわち金を生む、処女が子を生む。

七つの大罪の一つ”強欲“の罪

コントラハッチャードの「最後の審判」の天国と地獄に夫々対応している。

12使途のひとりユダがイエスをユダヤの祭司に売り渡した。

銀貨30枚という価格は今まで従っていた人を裏切る対価として大きかったか小さかったか… 後の悪魔が背中を押しいる。

29 「最後の晩餐」 入り口から祭壇を見て、正面から見る全体図

向って右上から40場面前後が描かれる。物語の展開は時計回りに配置されている

右側一番奥の祭壇よりのところに「最後の晩餐」はある。

福音書が四つ  ヨハネ(詳しい)、 ルカ  「マタイ福音書」  26章21節~28節

裏切り/弟子の問いかけ・イエスの答え/裏切りへの批判/ユダの応答/

パンの称揚とその意味/盃への感謝/ワインの意味

元元は[過ぎ越しの祭りを祝う食事]=牛の肉を焼いて食べる習慣。パンとワインの聖餐式に様子を変えて描いている。 ミサの際の主目的は 聖餐式(カトリック)

一軒家を借りて祝う。聖書では一人一人の足を洗ってやることが記述されている。この順番も逆になっているのはなぜか? 最後の晩餐には、二つの意味がある、

  • ・裏切り者の告発
  • ・弟子たちに遺言する(血と肉) =聖餐式

「私と同じ鉢に手を入れているものが私を裏切る…」

パンを祝福して、「私の身体である」 盃へ感謝の言葉を述べた後、「私の血である」

ヴェネツィアのサン マルコにも「最後の晩餐」の主題があるが、年代が12世紀の終わり(1170~1200)、スクロヴェーニ(1300~1304)であり、年代差は、120年くらいである。

変化が大きい→→→ルネッサンスへの序章がここにある。

ルネッサンスでも描く主題に変化はない。画家は聖書の物語をしっかり地震で把握した上で。人間のわざとして描こうとするところに精神文化上の大きな変化が生まれている。

30 弟子の洗足  弟子の足を洗うキリスト

最後の晩餐の前か後か、イエスは弟子たちの足を洗い、布で拭き始めた。 深い愛と謙譲を表す行為だが、師によるそんな行為に弟子は驚きの表情。 師のたってのことに従う弟子たち、反応は複雑で様々。

31 キリストの逮捕

スクロヴェーニには「オリーブ山の祈り」は描かれていない

オリーブ山に祈った際イエスは出来ればこの杯を渡してほしくない、と言う。

3回目に天使が勇気付けた。神から天使を通じて一度死ななければならないと伝える。

ペテロは兵士の耳を切る。イエスはパウロを制止する。そして奇蹟で耳を直してやる。表現としては少し古い様式・・・説明的なところが残っている、後方の人の群れの表現にそれが見える。

サンヘドリンの大祭司達がその場に居たかどうかは聖書には書いていない部分。年輩の髯を生やした人達(右端)は27神殿から商人を追い払うキリストの 赤マントの人物が似ている。

キリストとユダの頭の向きに注意  サン マルコのモザイクでは、ユダは横向きの顔。中世では顔の向きで聖悪の区別をつける。また、主役の身体の輪郭線が他によって切り取られないようにする。

ジョットはイエスを完全に覆っている。顔も横向きである。伝統的な様式よりも二人のぶつかり合いを写実的に表現しようとしている。ジョットの新しい創作である。

何故逮捕されなければならないのか?  当時のイスラエルの状況はローマ帝国の統治下にあった。ローマは総督をイスラエルに送り管理していた。ピラトは、当時の総督で、ローマから派遣されたイスラエル駐在員のような立場。ヘロデ王は、政治的にはピラトの傀儡政権であった。

ヘロデの死後ヘロデの息子達が分割統治した。サンヘドリン(最高法院)が民族を支配していた。サンヘドリン(最高法院)::ユダヤ教の最高機関である。律法主義:律法は神から遣わされたもの。パリサイ派が最高法院を支配していた。

大司祭が選出された。アンナスとカヤパの二人 (ヨハネ伝)

キリストは逮捕された後アンナスのところに連れて行かれた。それからカヤパの所に連れて行かれた。

カヤパはローマの総督に相談する必要があった。勝手には処刑できないローマのルールであった。

しかし、ピラトはあまり関心がないので一度は戻す。再度調べても処分の理由が見つからない。

ピラトの役割 イスラエルを平穏に治めること。イエスはエルサレムに入城してまず、パリサイ人達を攻撃する。偽善者達であると決め付ける。人は弱いものでありこういう人達こそ救われるべきと説いた。

ピラトにとっては、パリサイ人が感じているほど敵意はない、民衆を治める力に対しては不安を覚えている程度であった。パリサイ派は人を金で買収してイエスを捕らえようとしていた。

パリサイ人がやってきてピラトが処刑しなければ暴動を起こすと圧力をかける。

ピラトはパリサイ人に処分を任せることになる。

 

キリストの受難と復活

受難=パッションは、エレサレム入城から始まる。

何故エルサレムに来たことが受難なのか

エルサレムは拠点であるーーユダヤ教の中心地、ヘロデ王が支配するユダヤ教の町。高い位の聖職者たち=パリサイ人すなわち律法学者たちが、居るところ。

イエスはパリサイ派を批判する。彼らは偽善者である。モーセの律法を守ることが重要である。――律法主義

イエスの批判は律法の中味を批判するのではなくその運営のやり方を批判するのだ。

世の中には守れない弱い人達が多く居る。これらを救うのが神の愛である。こういうことこそ大切にしなければならない。

律法学者たちがやっていることは、形式上の守りであり、したがって偽善者である。

パリサイ人はイエスを危険な人物であるとした。彼らにとって厄介者である。

説教と奇蹟によって人々に慕われていく。イエスはキリスト(救世主)である。

「過ぎ越しの祭り」が近づいてきてエルサレムの人々が集まってくる。イエスがエルサレムにやってくる。  パリサイ人は イエスを亡き者にする機会ととらえる。イエスはそのことを充分に承知した上でエルサレムに入る。

32 カヤパの前のイエス

ローマは総督をイスラエルに送り管理していた。ローマ帝国の統治下にあった。ピラトは、当時の総督で、ローマから派遣されたイスラエル駐在員のような立場。

大司祭が選出された。アンナスとカヤパの二人 (ヨハネ伝)

キリストは逮捕された後アンナスのところに連れて行かれた。それからカヤパの所に連れて行かれた。

大祭司カヤパの前に引き出されたイエス。自分が救世主キリストだと宣言すると、 カヤパは激昂して服を引き裂き、後の兵士も平手打ちしようと腕を振り上げました。

カヤパは胸を広げて怒りを表現、その人の右手は偉い人。アンナスはカヤパの義理の父。建築モチーフがしっかりしている。

左からの連続性を感じる画面の作り方。左が開放されていて、人の群れが右へ向かう表現

33 嘲弄されるキリスト

ローマ総督の家、描き別けられる建築モチーフ。キリストが嘲弄され、鞭打ちされる。

死刑が確定したイエス。兵士に引き渡されると人々はイエスに荊の冠と王の服を着せて嘲笑した。

鞭打たれてぼろぼろになっているようなイエスの絵に比べるとこの絵は静的な辱めで… 陰湿な苛めという感じ。

右壁下層全体の構成

二場面    一場面     二場面    で構成される

○ ○    →△←    →○ ○←

最後の6場面 左下層  左側保存が悪いため、状態が良くない。

34 ゴルゴダへ向うキリスト  イエスがゴルゴダの丘に向う

磔刑の決まった罪人は十字架を背負わされてゴルゴタの丘へ向かう。

聖母マリアの呼びかけに思わず立ち止まり振り返るイエス。無常にも兵士にさえぎられるマリア。親子の一瞬の接点。

ビザンツィンではキリスト自身が十字架を持たない。三つの福音書はギリシャ人の話。

一つの福音書だけイエスが十字架を持つ。

ジョット以降、イエスが十字架を持ってゴルゴダに向う。

ジョットは自分の考えで700年の伝統を変えてしまう。そこが凄さである。十字架を背負うキリストもその一つ。

マリアを入れている。悲しげな表情で視線を送る。兵士が止めている、ここに人間的なドラマを入れた。

流は左から右へ 地面を見ると右で少しだけ上に登る。右端はフレームが切り取られて次の絵へ繋ぐ。城内は“入城”の絵と同じにしてある。

35キリストの磔刑

十字架で命を落としたイエスの周りで天使が嘆き悲しんでいる。 マグダラのマリアはイエスの足にすがりつき、聖母マリアは気を失い倒れこもうとしている。 右側では浅ましくも衣服を取り合う兵士の姿がある。

マリアの失神する姿が新しい表現

イエスは十字架上で言う、「マリアはヨハネを子供と思い、ヨハネはマリアを母と思いなさい」

ロンギヌスが光臨をつけている。イエスは本当に「神の子」だと悟った人。

イエスが裸の表現は新しい彫像性。

十字架の上には罪状の「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ王・ナザレのイエス)」とあり、 略して[INRI]と書いてある場合が多い。

36 キリストの埋葬   <==>  ピエタ 哀悼

キリストを墓に収める前にゆかりの人たちがイエスの死を悲しんでいる。上空では天使たちも悲しみ、 人間的な感情を豊かに表現している。

ヨハネが手を広げて悲しみを表現する。誰だか分からない人を二人画面に(後ろ向きに)置かれている。これは何のためか?空間を広げる効果。この二人を描き入れることで主役を中心に円形の3次元空間を作る。

感情表現==>マリアとキリストの表現が、降誕の場面と似ている。思い起こさせる。

天使たちの表現は磔刑から引き継いでいる。

樫の木は、キリストの死を表している。

哀悼

キリストを墓に収める前にゆかりの人たちがイエスの死を悲しんでいる。見ているほうも悲しくなる。

37 キリストの復活 と 我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレ)

木の上部が塗りつぶされている。葉が繁っている図かもしれない。3日後に墓参りをするとイエスは居らず、若者が居て、イエスはもうここには居ないと言う。

[我に触れるな!]の場面も同図に入れた。

イエスの墓の前で嘆いていたマグダラのマリア。彼女の前に復活したイエスが現れる。 驚きイエスに触れようとしたマリアにイエスは「父の前に昇っていないから」と制する場面。

イエスは仰せになった。「わたしに縋り付くのはよしなさい。わたしは、まだ父のもとに上っていないのだ。わたしの兄弟たちのところに行ってこう伝えなさい。『わたしの父であり、あなたたちの父でもある方、また、わたしの神であり、あなたたちの神でもある方ものとへ、わたしは上って行く』」と。

マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「わたしは主を見ました」と言い、主から言われたことを弟子たちに告げた。

ヨハネによる福音書20章11−18節

38 キリストの昇天

復活したイエスは弟子たちの前に現れ、その後彼らの前で昇天。

昇天の表現は画家の想像力で色々になるが、こちらのイエスは雲に乗って颯爽と飛び上がっている。

正方形の構図は新しい。ビザンツィン は、丸いクーポラに入れる。

トゥールーズのロマネスクの浮き彫り彫刻にある。ロマネスクの図像伝統をそのまま遣っている。

39精霊降臨

イエス昇天の後、神殿で皆が相談している時、聖霊が降りる。

突然天から舌のようなものが降りてきて、 一人一人の上に止まり、弟子たちは精霊に満たされて色々な言葉でいっせいに話せるようになった。師を失い意志が定まらなかった弟子たちもここから心を入れかえてそれぞれ異国異教徒のいる地域に行き伝道に励む事になる。

キリスト伝はここまで。

 

コントラハッチャードの「最後の審判」の天国と地獄に夫々対応している。

サンタ チチリア イン トラステヴェレ の最後の審判 カヴァリーニ

「最後の審判」  P.カヴァリーニ 1293年

教会のコントラハッチャードに描かれる。その部分が2階の床で仕切られて、教会内部からは直には見ることが出来ない。

改めて横の建物からその2階部分に回り道して上がる。10:00に開館、前庭で少し時間をつぶす。

年配の修道女がお土産を販売している狭い廊下を通り、エレベータで2階に上がり教会のコントラハッチャードに辿り着く。

壁画は中央の層だけが残った。フレスコを間近で見られるので迫力がある。 斬新な図像に驚く。

審判長であるキリストが中央で玉座に座る。磔の際の五つの傷痕をあらわに見せている。周りに天使、左にマリア、右にヨハネ。

横に12使徒が並ぶ。それぞれがアトリビューションを持っている。ペテロが鍵、パウロは剣。

人体表現で進んだ様式を見せている。人物像は顔の表情が豊かで、座っている衣の下の膝などの肉体表現に写実性がある。衣の襞もリアリティが高い。

キリストと12使途の下の部分には左に(キリストの右)天国にいける人、右に(キリストの左)地獄へ落ちる人が描かれる。ラッパを吹く天使。

天子の羽の表現は中世の鱗状でカラフルのまま。ジョットのスクロヴェーニのようではない。

パドバのコントロハッチャータの「最後の審判」と比較して非常に近い様式。10年ほど前に描いたものである。

近くのシルベストロ祈祷所のフレスコより50年程後の様式。 比較が出来て、その間の変化が見えてとても面白い。

 

 

最後に壁面を概観した装飾の全体像を見てみる。

Scenes with decorative bands 1304-06
Fresco  Cappella Scrovegni (Arena Chapel), Padua

6場面の壁面上の配置。上の二つがマリア伝から、中層と下層の合わせて4場面がキリスト伝から、北側の壁面には窓がないので横に6場面が配置されている。南側は窓を取っているのでそれを避けつつ5場面が配置される。各場面を仕切る帯状の装飾の主題は旧約聖書からのいくつかの物語と聖人や預言者の胸像が描かれているが、弟子たちの手になるものと思われるが、中にはとても質の高いものもありジョット自身も参加したと思われる。

絵と絵を仕切る帯状の装飾について

6場面の中央の装飾は旧約から「アダムの創造」、同じく下の左の装飾は「クジラに呑み込まれたヨナ」を描いている、他にも「割礼」や「岩から水を出すモーゼ」「シナイ山で十戒の石板を授かるモーゼ」等々。

左は南側の壁面装飾の様子    右は北側の壁面装飾の様子

天井の装飾について半円筒状になっていて一面に星が描かれている。装飾的に中央で帯で仕切りを付けて、片方祭壇側には中央にパントクラトールのキリスト像がトンドの枠に、それを囲んで洗礼者ヨハネの像と3人の預言者、入り口側の中央には同じくトンドの枠で聖母子像とそれを囲む4人の聖人が描かれる。

Vault  1303-06 Fresco  Cappella Scrovegni (Arena Chapel), Padua

キリスト伝の連作第38場面「キリストの昇天」の昇天するキリストがさしのべる手の先に天井の中央大きなトンドに描かれた「パントクラトールのキリスト像」がある。真下には聖霊降臨の絵である。ジョット―は連作を制作するにあたって、場面内の構造のみならず、周囲の複数の場面間の連なりにも気を使っている。

壁面の展開図

スクロヴェーニ 礼拝堂(パドバ)壁面展開の図
祭壇に向かって右側だけに窓がある。4層からなるが最下層に七徳七悪徳の絵がある。

 

祭壇に向かって左側の展開図(窓がない)

スクロヴェーニ 礼拝堂(パドバ)ジョットの壁画装飾(2) 了

 

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