–レオナルド ダ ヴィンチ の絵画(その3)
レオナルド晩年の探求課題
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晩年の作品のうち「聖母子と聖アンナ」、「女性の肖像《モナ・リザ》」、「洗礼者ヨハネ」(いずれもルーヴル美術館所蔵)の3点は、レオナルドがフランス王の招きに応じてアンボワーズに移る際にも携帯し王の元で死ぬ時まで、手元に持ち続けたという。レオナルドがこれらの絵を最後まで完成と見做さず、死ぬ直前(1517年ごろ)まで求め続けたものは何なのであろうか?ルネサンス美術の集大成ともなるべきその目的を探る。
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1499年秋 フランス軍のミラノ侵攻により、ルドヴィイコ・スフォルツァはミラノ君主の座から追放された。最大の理解者であり庇護者であった君主を失ったレオナルドは、17年間住み慣れた町を離れ、マントヴァ(ミラノ公妃ベアトリーチェの姉イザベラ・デステがマントヴァ公妃)に立ち寄った後、ヴェネチアを経由して、1500年に再びフィレンツェに戻った。
ミラノからフィレンツェに戻った1500年から、イタリアを去ってフランスに行く1516年までの間のレオナルドの生活基盤は定まりがなかった。1502年から1503年までと1506年から13年まではミラノを基盤にしたが、1513年にはローマに移った。しかし、彼の晩年の芸術活動は主に1500年から1506年のフィレンツェで行われたといってよい。
「聖母子と聖アンナ及び幼児聖ヨハネ」の画稿1499年(ロンドンナショナルギャラリー) フランス王ルイ12世の依頼による
ロンドン版「聖母子と聖アンナ及び幼児聖ヨハネ」の画稿は、レオナルドがミラノを離れる直前の1499年の秋にフランス王ルイ12世から依頼されて制作されたと推察されている。王は1499年10月5日から11月7日までミラノに滞在した。ルイ12世の王妃の名前がアンヌ《イタリア語でアンナ》で、王がミラノ到着の同じ日に女児を出産していることから、出産の記念の祝いの絵としてアンナに因む絵を依頼された。
レオナルドは、聖アンナを主題にした作品として、1483年に「無原罪の御宿り」信徒会から礼拝堂の祭壇画を依頼されて、「岩窟の聖母」を制作した経験があった。《この時点ではいまだ訴訟中》
Concezzione Immacolata すなわち、アンナもまた、処女のままマリアを生んだという純潔を重視したフランチェスコ会の考え方を、絵画で表現したのはレオナルドが最初である。しかしこの時は、アンナの彫像を直接は描かず、「岩窟の中」という抽象的な概念でアンナを表現した。
フランス王からの依頼は王妃アンヌのためのものであり、アンナの具体的な彫像を描き入れるという岩窟の聖母の実績を踏まえた上での新たな課題を克服する必要があった。そして、それは人物像を等身大にしながら、しかも二人の全身像を140cm*100cmの画稿の中に収めるというそれ以前には例がない課題である。
レオナルドはこの難しい課題を、複数の大人を緊密に重なり合わせて小さい画面に纏まりのある構図を作る技術「座る・身体を曲げる・重なり合う」という人間の自然な仕草をピラミッド構図の中に密に連動させて描くことで見事に克服した。当にレオナルドならではの優れた創意である。ロンドン版の「聖母子と聖アンナ」の一番の特徴はこの創意にある。しかし、この画稿は実際の油彩画の土台になる同じサイズであるにもかかわらず油彩画には転写されずじまいであった。アンナの左前腕部にいたっては、予言をするように天を指さしてはいるが、ただ単純に書き入れた状態のままである。レオナルドがこの絵を完成させなかった原因は謎である。どのような困難がレオナルドを悩ましたのか。
サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画 画稿のみ完成(失われた) 1501年~
フィレンツェに帰国後、セルヴィ修道会の依頼によりサンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画に取り掛かった。もともとフィリッピーノ・リッピが依頼されていたが、レオナルドが製作を望んだためにフィリッピーノが遠慮してレオナルドに譲ったらしい。レオナルドにとっては「聖母子と聖アンナ」のロンドン版の画稿を描いた経験の直後に、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画の同主題の計画を目の前にして意欲を燃やしたと考えられる。
レオナルドは、セルヴィ修道会から賓客として寓され、工房も与えられて制作を行ったようである。このような便宜を受けつつ、長い時間をかけてようやく画稿のみを完成させたらしい。
ヴァザーリによると「それはあらゆる美術家たちを驚かせ」「老若男女がまるで崇高な祭礼に出かけるように2日間にわたり彼の部屋を訪れた」という。「レオナルドが成した奇跡に、これら全ての人が驚嘆したのである」とヴァザーリは称賛している。
この画稿は、残念ながら現存しない。
それを直接見たと思われるフラ・ピエトロ・ノヴェッラーラが、マントヴァ公妃イザベラ・デステ宛に書いた1501年4月3日付の手紙が残っている。それによると「レオナルドの日常は多様で定まりがなく、・・・彼がフィレンツェに来て以来、制作した仕事は一点の画稿のみです。そこには・・・・・・・(画稿の構図が具体的に詳細に記述されている)・・・・・・なお、この素描はいまだ完成しておりません。」
「聖母子と聖アンナ」 1501-1517頃 油彩画 ルーヴル美術館
2012年に修復が終わりきれいな色彩がよみがえった。
この修道士フラ・ピエトロの記述は、ロンドン版の画稿とは細部で微妙に異なっており、むしろルーヴル美術館所蔵の「聖母子と聖アンナ」を想起させる。したがってこの油彩画がもともとは、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画となるはずのものだったと推測される。《松浦先生の著書「イタリア・ルネサンス美術館」P.398》
画稿と言う性質上から見て、レオナルドはこの画稿に基づいてすぐに油彩画の制作に取り掛かったはずである。しかし結局のところ油彩画は約束のアンヌンツィアータ聖堂の主祭壇には収められず仕舞いであった。
1516年にアンボワーズに移り住んだレオナルドをルイージ・タラゴーナ枢機卿一行が1517年10月10日に訪れた際の秘書の記録があり、この時に見せてもらった油彩画の記述が、ルーヴル美術館の油彩画と同一と見做されている。このことから、アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇画「聖母子と聖アンナ」は制作の途中から何らかの重要な課題の追求のために本人の意思で完成と見なすことができず、手元に持ち続けたということになる。
この絵では、聖母マリアは幼児キリストが子羊と戯れようとするのを制するような仕草をしている。一方聖アンナは、聖母マリアに対してキリストがすすがままに任せるように伝えている。子羊は犠牲の象徴であり、幼児キリストは自分が人間を救済するために将来進んで死ななければならない運命を受け入れなければならないのだ。この場合、聖母の複雑な表情と仕草は人間の母親の葛藤の様子を示すものであり、一方聖アンナの言葉はキリスト教会の役割を象徴している。
「聖母子と聖アンナ」の画稿(ロンドン版)と「聖母子と聖アンナ」油彩画(ルーヴル
版)との比較
ロンドン版の画稿 を ルーヴル美術館の油彩画と比較すると全体の構図は良く似ており、「座る・身体を曲げる・重なり合う」という人間の自然な仕草をピラミッド構図の中に組み合わせて描くという点はロンドン版の創意がアンヌンツィアータ聖堂のそれに継承されているということになる。
「無原罪の御宿り」信徒会からの依頼を受けて「岩窟の聖母」で「聖アンナと聖母子」の主題を新しく発想したレオナルドの中ではルイ12世の依頼に際して、ピラミッド構図を進化させ、二人の大人のポーズを緊密に重なり合わせて小さい画面に纏まりのある構図を創意し、そしてフィレンツェに戻った際のアンヌンツィアータ聖堂の計画を積極的に請ける意欲に結びついていると考えられる。
どちらもすべての登場人物を二等辺三角形に納める「ピラミッド構図」を採って、安定感と人物間のつながりを密接にしている。140cm*100cmの平面に等身大の大人二人の人物をこの構図を納めるための工夫としてロンドン版では座る聖アンナの右太ももの上に身体を前に曲げた聖母マリアが重なるように座るという工夫を凝らした。基本的な構図の考え方「座る・身体を曲げる・重なり合う」によって小さい画面に等身大の人物を納めるという様式はルーヴル版でも採用されている。また、ルーヴル版の聖アンナと幼児キリストの顔立ちは、ロンドン版の聖アンナとヨハネのそれによく似ている。
やや異なる点として、
- 登場人物はロンドン版がヨハネを配して幼児キリストが彼を祝福しているのに対して、ルーヴルの方はヨハネをなくして幼児キリストが羊と戯れるように変化している。
- ロンドン版のマリアは幼児キリストをただ抱きかかえているのに対して、ルーヴル版は、羊と戯れるイエスの行為を制するように引き寄せている。
しかし決定的に異なる点は、
マリアの顔の表情である。ロンドン版の聖母マリアの表情が微笑みながら誇らしげにイエスを見ているのに対して、ルーヴル版の聖母マリアの表情は単純に一つの感情を示そうと描かれているようには思えない複雑な様子が伝わる。キリスト教において子羊は人間の代わりに神に捧げられる犠牲の意味を持つ動物である。わが子がかわいい子羊と戯れるほどに成長した喜びと、その子が成長して人々の犠牲になって死を遂げる運命を持っている悲しみという、真逆が同居している心情を、マリアの顔に表現しようとしている。
ルーヴルの油彩画が約束のアンヌンツィアータ聖堂の主祭壇には収められず仕舞いであったわけは、この点、にありそうである。レオナルドは常々人物を描く際にはその人物が何を思っているか見るものに伝わるように表現すると考えていた。成人した女性の究極の美として、複雑な内面の的確な表現が必要と気づかされたレオナルドが、この頃からその描写を試みるようになり、この時点ではまだ納得のいく描写になっていない(未完成)とのレオナルドの拘りにあったのではないか。
この後レオナルドは、アンボワーズでも手元に置いて描き直しを続け、タラゴーナ枢機卿一行が1517年10月に訪れた時点では現在のものとほぼ同じものになっていた。
「女性の肖像(モナ・リザ)」 1503年~1517年頃c. Oil on panel, 77 x 53 cm ルーヴル美術館 Muse du Louvre, Paris
レオナルドが第2次フィレンツェ滞在中の1503年ごろ依頼されたと思われる。レオナルドは、この絵をフィレンツェからミラノへとその後フランスに行く際にも携行した。
レオナルドがなくなるまで手元に持ち続けた作品は三点ある。すなわち、「聖母子と聖アンナ」油彩画(ルーヴル版)以外に二点ある。そのうちの1点が、一般に「モナ・リザ」だとされている。(ルイージ・タラゴーナ枢機卿の秘書デ・ペアーティスは、1517年にアンボワーズのレオナルドのアトリエで「聖アンナの膝の上にいる聖母子像」のほかに2点の作品を見たと記している。(松浦先生))
ヴァザーリによると、この絵は Mona Lisa(マドンナ・リサの意味)の肖像である。彼女は1479年にフィレンツェに生まれ、1495年にフィレンツェの大商人Giocondo侯爵と結婚した。そのためこの絵の別名を「La Gioconda(ラ・ジョコンダ)」というと記している。
ヴァザーリはこの絵について書いている中で驚くべきことを言っている。「レオナルドは幸せな夫人を描こうとした。その為モデルの周りに音楽家や群衆を集めてにぎやかな雰囲気を作って描いた」と。これは実はヴァザーリがこの絵のモデルを結婚して幸せなラ・ジョコンダであると名付けたことを、巧妙に自己擁護するためのように思える。モデルについては、Giocondo侯爵夫人であるということには疑問も呈されている。マントヴァのエステ公爵夫人イザベラ・デステという説もある。(後述)
いずれにしても、実在する人間をモデルにする(少なくとも書き始めの時点では)ことで、釣り合いが取れていて、統合された人間性の概念の理想を、レオナルドは表現した。
光が当たっている額、鼻、胸、そして手の甲は、陰となっている顔の一部、髪、首などの暗い部分の表現によって穏やかな丸みを浮き立たせ、より明るく照らし出される。そして見るものはその目に引き寄せられ魅了される。モナ・リザの両目の中と唇それに両方の口角に、謎の微笑を表現する秘密が隠されているといわれ、それは奥深く定めがたく神秘的であり、その所為でこの数世紀の間にはいくつもの解釈がなされてきた。
16世紀のフィレンツェの研究者は、「夫人像の完璧な美について」の中で、口角の両唇が軽く開いて微笑んでいることが、当時は、優美さを示す一つの典型的な仕草であったと書いている。
この謎の微笑みこそが、「モナ・リサ」絵画全体に行きわたっている優しく、繊細な雰囲気の源であり、多彩な人生そのもの、魂の不思議さを象徴しているという解釈。
背景は、肖像の左右で地平線の位置がずれていると指摘されているなど不思議な描き方であり、平野と川の上にそびえる霧のかかった青い山々を4等分してそれぞれに意味を持たせて、誕生から死滅までを暗示しているとか、全宇宙を象徴しているとかの解釈がなされている。
優しく、繊細で、謎めいた雰囲気の効果をより高品質に達成するために、レオナルドはスフマート技法、形象自身の変化をゆるやかに転換する技法、光から影へ切れ目なく場面を移す技法、そしてその当時の世相の不確かな感覚を背景に描く手法などを駆使している。
絵についての彼の論文において、レオナルドは、良い絵のなかでは、輪郭はそれらがであった実態より遠くにぼやけている必要があると書いている。彼のスフマート技法は、全てのものをその間にあたかも空気を感じながら見ているたような効果をもたらしている。
レオナルドの卓越した技術によって、絵画の諸要素が一つの纏った全体に様々な形で調和されている。 例えば、橋は単にアーチ形の建造物であるだけではなく、モナ・リザの左の肩を横切って覆われたアーチ型のヴェールの線が上昇して橋へと連続するというようにである。
この絵の感覚的な品質の高さは特に両方の手の描写にも良く表れている。
その右手は、椅子のひじ掛けを掴んでいる左手の上にゆったりと乗せている。ヴァザーリはその記述の中で、見るものに脈拍が打つのさえ感じさせる手の甲の表現であると称賛している。
レオナルドが 女性の顔の表現に拘り始めたのは何時ごろか羅か?その動機は何か?
「モナ・リザ」もその書き始めの初期の段階では、現在私達が見ているような謎めいた優美さを備えた表情とは違っていた。そして何時のころからか、美しい夫人像には神秘性が必要であると気づき、その表現の完成に拘り始めて、1517年ごろまで掛かって今のような表現に到達したが、結局満足できずに死ぬまで描き(直し)続けるようになったのではないかと松浦弘明先生はそれを複数の角度から推察されている。
「白テンを抱く女性の肖像」1490年代 クラクフツァルトリスキー美術館
レオナルドが1490年代に油彩画で描いた「白テンを抱く女性の肖像」を見ると、このモデルはミラノ公ルドヴィイコ・スフォルツァの愛人チェチリア・ガッレラーニとされ、力強い眼差し、締まった口元にモデルの堅固な意思を感じ取ることはできるが、モナ・リザの複雑な表情は読み取れない。
「イザベラ・デステの肖像」(画稿)1500年 ルーヴル美術館
もう一つは、「イザベラ・デステの肖像」(画稿)であるが、レオナルドはミラノを離れてその足で、1500年初頭に、ミラノ公妃ベアトリーチェの姉のイザベラの嫁ぎ先であるマントヴァを訪れている。そこでイザベラ・デステの懇願で彼女の肖像画の画稿を制作している。その画稿は今でもルーヴルに展示されている。これは容姿や服装、全体のサイズが類似しているのでモナ・リザのために準備された画稿ではないという研究者も居る。
二つの作品にはいくつかの共通点があるといわれるが、しかし、頭部に限れば顔の向きだけではなく表情そのものに大きな違いが見て取れる。画稿のモデルは知的で清楚な雰囲気は感じられるが、モナ・リザの持つ神秘性が決定的にかけている。
ラファエロの「マッダレーナ・ドーニの肖像」1506年頃 フィレンツェ パラティーナ絵画館
更に同様のこととして松浦先生が例に引いているのが、同時代のレオナルドを剽窃した天才ラファエロの「マッダレーナ・ドーニの肖像」である。この絵は、ラファエロがフィレンツェに移り、レオナルドのモナ・リザの影響を受けて1506年ごろに描いたとされており、その構図やポーズはモナ・リザに良く似ている。しかし、二つの絵から受ける印象は大きく異なる。ラファエロの絵からは深遠で神秘的な雰囲気が伝わってこない。剽窃の天才が、現在ある状態に近いモナ・リザを見たのだとすれば、このような肖像画にはなっていなかっただろう。ラファエロが、モナ・リザからインスピレーションを得た時点では、レオナルドの夫人像はその神秘性の追求の初期の段階であって、「白テンを抱く女性の肖像」や「イザベラ・デステの肖像」(画稿)と同じ程度の感情表現であったと松浦先生は推測している。
すなわち、レオナルドがフィレンツェを離れる1506年以前においては「聖母子と聖アンナ」の聖母もモナ・リザもその頭部は、現在私たちが見ているものとは異なるものであったと推察している。
ラファエロは、サンテッシマ・アンヌンツィアータ聖堂のための主祭壇の画稿を見た上で描いた「芝生の聖母子」の聖母の顔には、謎の微笑みの表情はない。レオナルドの画稿には、まだその複雑な顔の表現の創意には至っていなかったと推測する。
「洗礼者ヨハネ」 1516年頃 ルーヴル美術館
ルイージ・タラゴーナ枢機卿の秘書はレオナルドのアトリエで「洗礼者ヨハネ」を描いた作品を見たと記している。このルーヴェる美術館お「洗礼者ヨハネ」がこれに当たると考えられている。制作年は定まっていないが、画家がローマからアンボワーズに移るあたりの1513年~1516年とされる。
一人の聖人のみを胸像で表し、背景を暗色で塗り潰す形式はこれ以前にはあまり見られない。頭部の特徴を明確にするための肖像画でよく用いられるものである。暗い背景から半裸体の上半身を浮かび上がらせ、右肩は手前に突き出し人差し指を立てて天を指し示し、左手は胸元で十字架の形をした杖を持っている。その顔の微笑みはモナ・リザと同様にどこか悲しげに憂いを秘めている。
顔の表情には見るものを惹きつける不思議な特徴がある。明るい微笑というよりはどこか憂いを秘めた微笑である。イエスより半年先に生まれた洗礼者ヨハネは、荒野で修行中にイエスに会って洗礼を施した際に、天からの神の声としてイエスが神の子であると聞いて知っている。それと同時にイエスは人を救済するために人の罪を背負って神の子羊のように犠牲として捧げられることを最初に認識したものであった。こうして喜びと悲しみの相反する二つを同時に持つものの複雑な感情を顔に表現したと考えられる。
「聖母子と聖アンナ」の聖母もモナ・リザも、喜びと悲しみの相反する二つを同時に持つという点で共通する要素である。その頭部の的確な表現こそが、レオナルドの晩年の最大の課題として固執し続けたものと推察される。
女性の肖像(モナ・リザ) の謎の微笑 が意味するもの
マントヴァ公妃イザベラ・デステからも肖像画の制作を待ち望まれてもいたにもかかわらず、フィレンツェの一人の肖像に執着したことには不自然さが感じられる。
この頃は、レオナルドがアンヌンシアータの祭壇画において、わが子がかわいい子羊と戯れるほどに成長した喜びと、その子が成長して人々の犠牲になって死を遂げる運命を持っている悲しみという、真逆が同居している心情を、マリアの顔に表現しようと苦心している時でもあった。
マントヴァ公妃イザベラ・デステを凌ぐ魅力がモナ・リザのモデルの夫人にはあったと推察される。
Isabella d’Este
1500
Black and red chalk, yellow pastel chalk on paper, 63 x 46 cm
Musée du Louvre, Parisヴァザーリの言うようにエリザベッタ・デル・ジョコンダがモデルとすれば、彼女は喜びと悲しみの両方を味わっていた。1479年に生まれたエリザベッタは1495年に16歳で裕福なジョコンダと結婚する。96年には長男ピエロを出産するも、99年には生まれて間もない長女をなくしている。その悲しみを乗り越えて1502年には次男を出産する。そして翌03年にはフィレンツェの中心街に家を購入している。このことがモナ・リザをレオナルドに依頼するきっかけとなったといわれている。彼女は肖像画を制作してもらう前の数年間に子供の誕生する喜びとそれを失う悲しみの両方を味わっていたことになる。レオナルドは、エリザベッタのこうした経験によって培われた悲喜こもごもが複雑に顕われる顔の表情に魅了されると同時に、アンヌンシアータの祭壇画のマリアの顔への課題の答えを見出したかも知れない。
レオナルドの最期の課題
レオナルドは、1506年以降はほとんど絵画制を行っていないといわれているが、むしろそうではなく「聖母子と聖アンナ」の聖母とモナ・リザとの2点には、幸も不幸も経験し乗り越えて成人した女性の顔の表情の美しさを求めて長年にわたり筆を入れ続けたと考えられている。
モナ・リザのモデルがフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻エリザベッタかどうかはこれからも議論される課題となっている。
ただ、「聖母子と聖アンナ」のマリアの表情をどのようにすべきか考えていたレオナルドはエリザベッタの肖像を頼まれて彼女をモデルとした時、彼女の喜びと悲しみの両方を味わった複雑さを秘めた表情に魅了されたと考えるとこの2点の作品に共通する表情の謎が解ける。
そして、その顔に関する研究の成果として最晩年に制作の「洗礼者ヨハネ」が生み出されたと考える。
レオナルドは、当事多くの人体解剖を通して人体の内部組織に精通していて、身体の各部分がどのように機能するかも熟知していた。それら器官を作動させる人間精神の神秘を強く感じ取っていた。だからこそその精神性が最も顕著に表れる人の顔に最期まで固執したと思われる。
盛期ルネサンス絵画の展開(その五)を 終わります。