盛期ルネサンス絵画の展開(その六)

盛期ルネサンス絵画の展開(その六)

ミケランジェロについて (その1= 1516年 ルーブル2体の奴隷像まで)

*********************** 概略年表 **********************

1475年 フィレンツェ近郊のCaprese に生まれる。数週間後には家族ともフィレンツェに戻った。

1488年 ギルランダイオ工房( 13 歳頃)(親の反対を説き伏せて)に3年の約束で入る

メディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。

彼から彫刻も学んだ。二つの浮き彫り彫刻が残っている。

(1489年 ローマでアポロの像(ベルベデーレのアポロ)が発掘される)

1492年 ロレンツォ メディチが死す。

この頃 サント・スピリット病院で解剖を学んだ。

1494年 フランス王シャルル8世のフィレンツェ侵攻。メディチ家追放。その後サボナローラによる陰鬱な神権政治ができた。

  • Venezia、Bolognaに逃げる
  • Veneziaでは作品を作らない
  • Bolognaには3体の彫刻が残っている・・祭壇の装飾の一部

1496年 ローマに行く・・・・5年滞在  「ピエタ」と「バッカス」を制作

1502年 フィレンツェが共和国宣言 フィレンツェに戻り 「ダビデ」を作る。

1505年5月 ユリウス2世の巨大な墓碑を作るように要求される

(1506年 ローマでラオコーン発掘される)

1506-08年 トンド・ドーニ(ドーニ家の円形画)制作

1508年 ローマに再び行く ユリウス2世からの墓碑の制作要請に応えるため。

ユリウス2世の都合により、墓碑が後に回され、天井画を先に取り掛かる。

1508~12年 システーナ礼拝堂天井画・・・・・別の投稿欄(*)で詳しく説明

—-ここから様式が変わり始める—-

1513年 ユリウス2世死去

1513~16年  墓碑の制作に専念し、「モーゼ」像、「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」の彫刻作品を完成

*********************************************

ミケランジェロについての最初の伝記は、1520年代半ばのノチェーラの司教パオロ・ジョービオがラテン語で書いた短い伝記がある。しかし、内容は慎重に扱う必要がるものと言われている。

ミケランジェロについての既存の知識の大半は、ジョルジョ・バザーリ(1511年~1574年)とアスカニオ・コンデヴィ(1525年~1574)が描いた伝記によっている。

バザーリは1550年に「美術家列伝(建築家、画家、彫刻家の伝記)」を出版した。出版当時75歳のミケランジェロは、歴史の流れの頂点にたつ芸術家として登場している。この伝記はミケランジェロの大々的な英雄崇拝であると言われている。但し、ユリウス2世の墓碑に関する記述などはミケランジェロをして憤懣やるかたなしと思わせた。

コンデヴィは1540年代末にはミケランジェロの助手として活動している。近くにいた者のみが知りうる情報を得ているが、ミケランジェロへの身びいきが過ぎる点が多いともいわれている。

幼年期のミケランジェロ( 15歳~20歳)

作品  スケッチ三点  ジョットやマザッチョの絵をスケッチしたもの

  • Two Male Figures after Giotto (recto)
    1490-92
    Pen and gray and brown ink over traces of drawing in stylus, 317 x 204 mm
    Muse du Louvre, Paris

    二人の男性のスケッチ  1490-92 ペンとインク(灰色と茶色)

    317 x 204 mm  ルーブル美術館

    ジョットー サンタ・クローチェ聖堂 ペルッチ礼拝堂の「聖ヨハネの昇天」部分のスケッチ

    ジョット―

  • Male Figure after Masaccio, Arm Studies (recto)
    1492-93
    Red chalk, pen and brown ink, 317 x 197 mm
    Staatliche Gaphische Sammlung, Munich

    男性の姿スケッチ 1492-93  赤いチョークとペンとインク

317 x 197 mm    ミュンヘン市立美術館

マザッチョの カルミネ聖堂 「貢の銭」部分 から

マザッチョ

Three Standing Men (recto)
1494-96
Pen and brown ink, 292 x 200 mm
Graphische Sammlung Albertina, Vienna

三人の男の立ち姿  1494-96   ペンとチャのインク

292 x 200 mm    ウイーン アルベルティ-ナ 美術館

マザッチョ カルミネ聖堂の中庭の回廊の装飾(消失)から

このデッサンだけは、オリジナルのモデルを逸脱していると見うけられうる。

 

ギルランダイオ工房(13歳頃)に親の反対を説き伏せてに3年の約束で入った。

サンタマリア・ノベッラ聖堂のマリア伝の装飾を手伝ってフレスコ技法の基礎をギルランダイオから学んだ。 ジョットやマザッチョの絵をスケッチしたものが残っている。(ルーブル、ウフィチ、ミュンヘン)

 

浮き彫り彫刻 二点

Madonna of the Stairs
1490-92
Marble, 56 x 40 cm
Casa Buonarroti, Florence

Battle
c. 1492
Marble, 84,5 x 90,5 cm
Casa Buonarroti, Florence

メディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。彼から彫刻も学んだ。上記二つの浮き彫り彫刻はそこでの学んだ成果。

  • #メディチ家の庭園にあった古代彫刻

    15世紀にメデチ家からナポリ王に寄贈

「バッカス(とキューピット)」   現在  ナポリ 考古学博物館

ボローニャ(1494~5) 時代

1494年 フランス王シャルル8世のフィレンツェ侵攻によりフィレンツェではメディチ家が追放され、その後サボナローラによる陰鬱な神権政治ができた。ミケランジェロは庇護者を失い、Venezia、Bolognaに逃げる。Veneziaでは作品を作っていない、Bolognaには3体の彫刻が残っている・・祭壇画の中の装飾

St Petronius
1494
Marble, height 64 cm with base
San Domenico, Bologna

 

St Proculus
1494
Marble, height 58,5 cm with base
San Domenico, Bologna

Angel with Candlestick
1494-95
Marble, height 51,5 cm
San Domenico, Bologna

「ボローニャ守護聖人彫刻3体(聖ペトロニウス、聖プロキュラス 燭台を持つ天使)」

ベルベデーレのアポロを見る前の作品。

聖ペトロニウスはボローニャの守護聖人、両手に単純化したボローニャの街の模型を持っている。髭の彫りや目の窪みなどはやや深すぎて不自然さがあるが、スッキリとした立ち姿のポーズを取っているにもかかわらず、マント(ガーメント)の襞の彫刻と右足のポーズにより、今にも前に歩を進めそうな、生命感のある彫刻になっている。

聖プロキュラスは、既に コントラポストのポーズをとっている。

燭台を持つ天使は、サン・ドメニコ聖堂の祭壇を飾る燭台で、二つが対になっている。一つを若いミケランジェロが掘り、他方はNiccolò dell’Arca.が彫った。先輩のヤコポ ・デッラ・ クエルチャが数年前に製作した祭壇装飾を崇敬しながら、そこに古代彫刻の知識を加味している。

ドナテッロ、ヤコポ ・デッラ・ クエルチャ(シエナ派:ドナテッロ、ギベルティ、ブレネルスキーと同時代)の影響が大きいが、ミケランジェロが若いときにメディチ家の庭園でドナテッロの弟子であるBartoldo が管理していた古代の彫刻を見ていた。古代の彫刻の影響が大きい。様式が変わる要因になっている。

祭壇全貌 (参考)

  1. ミケランジェロの初期

作品

  • 「ピエタ」  ・・・ローマ時代
  • 「バッカス」 ・・・ローマ時代
  • 「ダビデ」  ・・・フィレンツェに戻った後

「聖家族」はジャンルが異なるので後で説明する

「ピエタ」

Pietà
1499
Marble, height 174 cm, width at the base 195 cm
Basilica di San Pietro, Vatican

ミケランジェロ, 1499年 大理石、高さ174 cm、幅 195 cm サン・ピエトロ大聖堂

 

銀行家のヤコポ・ガッリ(Jacopo Galli)の紹介でフランス人枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグローラからサンタ・ペトロネッラ聖堂のための聖母マリアと死せるキリストの大理石像が委嘱された。枢機卿の墓のためにであったと推測される。サンタ・ペトロネッラ聖堂は初期キリスト教時代の旧サン・ピエトロ聖堂の南側に位置した比較的小さい聖堂であったが、ユリウス2世の新たなサン・ピエトロ聖堂建設のために間もなく壊されてなくなった。すなわち、この像はミケランジェロの存命中に予定された設置場所から移動させられたことになる。

契約は1498年8月だが、1497年11月には素材となる大理石の調達のための馬の代金が前払いされており、契約よりも前からミケランジェロは大理石のためにトスカーナのカッラーラに出向いている。

 

図像の元はアルプスの北からもたらされたと考えられ,中世末期、14世紀初頭にドイツで創出された新しい図像、いわゆる〈アンダハツビルトAndachtsbild(祈念像)〉の一つで,個人が自己の魂の救済を願ってその前で祈ることを目的として作られた。

〈フェスパービルトVesperbild(夕べの祈りの像)〉
Early Bohemian Pieta of 1390 -1400

ドイツでは〈フェスパービルトVesperbild(夕べの祈りの像)〉と呼ばれ,死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像。埋葬する前にわが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を,説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。呼称は埋葬の祈りが聖金曜日(復活の日曜日の3日前)の夕べにささげられることに由来する。

サン ピエトロ大聖堂の中に安置されている

ミケランジェロのピエタは、バッカスとは異なり、クラシック的な感情の高揚を生み出そうとはしていない。むしろ逆で、極めて抑制の効いた彫像になっている。

キリストの肉体には苦悶の跡はなく、聖母の顔には悲しみで乱された様子がない。膝の上の亡骸を一心に見つめていて瞑想をしているようだ。聖母はその左手の指先を伸ばして、参拝者にもキリストの犠牲による贖罪の意味を噛みしめるように促している。

聖母の顔には悲しみで乱された様子がない

 

キリストの肉体には苦悶の跡はない

その像では、イエスキリストがそれなりの人生経験を踏んだ姿に表現されているのに対して聖母が若々しい姿である不合理について、コンデヴィによれば、ミケランジェロが次のようなことをいったという。

聖母のみずみずしさと若さの華は自然によって保たれているばかりでなく、聖母の処女性と永遠の純潔を人々に証するために、神の御業によって守られているのだ。御子イエスにあっては神の子が人間そのままの肉体を持って、普通の人間のようにすべての経験をした方として表したいと思った。したがって人間性の中に神性をとどめる必要がなく到達した年齢が正しく示されるようにしなければならない。したがって不合理ではなく驚くことではないと。

聖母の帯に銘が刻まれている
「MICHELANGELUS BUONARROUTUS FIORENTINUS FACIEBAT」
「フィレンツェ人 ミケンランジェロ・ブオナローティがこれを作る」

バザーリ(「美術家列伝」1550)は、ミケランジェロが作品に署名を入れたのは、これだけであるといっている。

レオナルドの「最後の晩餐」のヨハネに似ている。

最後の晩餐 同時代の複製(部分)

ローマの前、ボローニャに行っていた。その際「最後の晩餐」を見た可能性が高い。

  • 三角形による安定性
  • 気持ちの交流を表現する
  • 顔のタイプ・・レオナルドが女性の顔に使うパターンと同じ

ミケランジェロはフィレンツェでは、レオナルドに逢っていない、ミラノに行ったかもしれない(1494にボローニャに行った) レオナルドが1501年にミラノからフィレンツェに戻る。サンティシマ・アンヌンツィアータ聖堂  オスピターレ・インノチェント孤児養育院 dell’Ospedale degli Innocenti の主祭壇のための「聖母子と聖アンナ」の原寸大のデッサン 1499~1501(喪失)

これが発表されたと同じ時期にミケランジェロがデッサンを残した。

St Anne with the Virgin and the Christ Child
c. 1505
Pen, 254 x 177 mm
Ashmolean Museum, Oxford

「女性の膝の上に大人の身体を抱く」という意味で、ピエタと同じ課題である。

レオナルドの「岩窟の聖母」とミケランジェロの「ピエタ」を比較

Pietà
1499
Marble, height 174 cm, width at the base 195 cm
Basilica di San Pietro, Vatican

Virgin of the Rocks (detail)
1483-86
Oil on panel
Mus馥 du Louvre, Paris

 

 

 

 

バザーリ によると、レオナルドは初めて絵の対象の人物に魂を入れた、まるで命を持っているかのように(精神を持っているかのように)。

レオナルドは、対象が夫々内面的なものを持っていることを観るものが感じるように、そしてそれらが相互に交流する様子が感じられるように描いた。

その手段としてピラミッド構造を創案し、物理的にも精神的にも密接につなげる工夫をした。ミケランジェロはこのピラミッド構造をレオナルドから学んだ。

「ピエタ」において、マリアの悲しみ、キリストの無念さ、そしてそれを超えた人間の贖罪などをピラミッド構造の中で静謐に峻厳に表現した(1490代)

二人は当時ミラノとローマで場所は離れていたが情報は双方とも知っていたはず・・影響があった。マリアの頭部の表現は近い。

ミケランジェロがレオナルドとつながる証はデッサンにもある。

フランス王ルイ12世の依頼による

Madonna and Child with St Anne and the Young St John
1499年頃
Charcoal with white chalk heightening on paper, 141,5 x 106 cm
National Gallery, London「

「聖母子と聖アンナ」画稿(下絵) レオナルド ロンドン・ナショナル・ギャラリー

「聖母子と聖アンナのためのデッサン」 ミケランジェロ 1505年ごろ  を比較

注:レオナルドは「聖母子と聖アンナと幼児洗礼者聖ヨハネ」には3作 取り組んだ(*) 

①1501頃 サンティシマ・アンヌンツィアータ聖堂の祭壇画用のカルトン(原寸大) 現在逸失

②1498~08 画稿として 現ロンドン・ナショナル・ギャラリー

③1512 第2のミラノ滞在時の作 ルーブル 自分でフランスに持ち込んだ3つの絵の一つ? 

ミケランジェロがレオナルドから受けた影響について述べたが、ミケランジェロの時代にローマでは古代の彫像が発掘され、彼はその影響も強く受けている。

 

「バッカス」

バルジェッロ美術館 階下の部屋に彫刻の展示室がある。そこの最重要な作品はミケランジェロの「バッカス」像  1497年(22歳の時)

バッカスは豊穣の神/酒の神。 サティロス(人間と山羊の合体で牧神)が後に付いていて、葡萄を食べている

Bacchus
1497
Marble, height 203 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

Bacchus (detail)

「バッカス」の像を依頼された時、‘古代の彫像を超えるような像がほしい’と頼まれた。

ミケランジェロは、1488年にサンタ マリア ノベッラ聖堂の奥をギルランダイオが装飾していたとき彼の弟子となったが、直ぐにメディチ家の彫刻庭園に行った。ナポリの「考古学博物館」に古代彫刻「バッカス」がある。ロレンツォ・メディチがナポリ王に献上したもので、この頃はメディチ家の彫刻の庭園にあった(前出)。ミケランジェッロは、古代彫刻を手本にして彫刻を学んだ。

ある日、サティロスを作っていると、一人の画商が素晴らしい、少し工夫をすれば、とてもよくなるといって、ローマのリアーリオ枢機卿に伝えた。

リアーリオ枢機卿がローマに来たミケランジェッロを呼んで自分の庭に作らせたのがこの「バッカス」、古代彫刻のように作ってほしいと注文した。ところがリアーリオ枢機卿は完成したこの彫刻が好きになれず一旦は受取を拒んだ。両者の話し合いの結果、両者と取引のあった銀行家のヤコポ・ガッリ、Jacopo Galli が引き取って彼の庭園に置かれた。

Garden of the Casa Galli
1532-35
Engraving
Staatliche Museen, Berlin
ミケランジェロのバッカスが置かれたガッリ家の庭のスケッチ
Maerten van HEEMSKERCK (ネーデルラントの画家)

このスケッチが描かれた1535年ごろまではまだローマのガッリ家の庭にあった。杯を持つ右腕が欠けている理由は分らない。古代彫刻と見せかけるために敢て折ったのかもしれない。現在は修復されてフィレンツェのバルジェッロにある。

ミケランジェロと古代彫刻との関係について

シスト4世教皇がローマ都市再建計画を起こしたのが1471年であった。次いでユリウス2世は、ブラマンテ、ミケランジェロ、ラファエロを活用してローマを新しくしようとした。その開発工事の中で、地下から古代ローマ時代の彫刻が出ていた。

1489年ローマでアポロの像(ベルベデーレのアポロ)が発掘される・・ヴァチカンのベルベデーレ宮に配置された。 ローマ時代のコピーである。オリジナルはBC4cクラシック期の彫刻である。

これがこの時代の彫刻家たちに刺激を与えた。

彫刻は、絵画と違って人物像のみを描き他を省く。ポイントはポーズということになる。S字形の正中線とコントラポストがクラシック期の特徴である。ポーズでは頭が大きい/小さい 身体をひねる/伸ばす

彫刻を見るポイント

:人体の描き方==石であって石でなく、人の肌を感じる

:内面性を感じる                     がある

「アポロ」が、人物像としてどうなのか(ローマ時代の表現)、を検証

ベルベデーレのアポロ  ユリウス2世は古代彫刻が好きであった。

1489年にグロッタ・テラータで発掘、まだジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の時代である。1506年からここに置いてある。

古代彫刻は、紀元前1世紀に完成してしまう。ローマ時代になって、ギリシャの彫刻をブロンズのオリジナルから大理石の摸刻にしたといわれている。(真偽は分からない。)

レオポリス(ギリシャ)をコピーした。当初はブロンズと大理石の両方があった。 紀元前4世紀のクラシック期の特徴であるコントラポストのポーズをとる。

コントラポストの意味=相反するものを並べる。知性、理性←→バッコス  盾か弓を持っていた。

ミケランジェッロが強い関心を持った。アポロのデッサンが残っている。ラファエロ・リアーリオ(教皇ジュリアーノの母方の甥)の親戚であった。

「最後の審判」のキリストの顔 1535年~ アポロの顔に近い

The Belvedere Apollo

ローマは、ギリシャの様式をそのままコピーしたので、ローマの摸刻からギリシャ時代(特にクラシック期)の美術の特徴を見ることができる。

ギリシャ クラシック期(BC5C~)の特徴

粘土で像を模り、ブロンズ(青銅)を流し込んで作る。うすい銅板で、中は空洞・・そのため自由な動きが表現できるようになった。‘ひねり’身体にひねりを入れて表現することができた。

The Belvedere Apollo
(手を修復後)

アポロは正面向きではない、少し傾き、頭にひねりを入れている。動きを出しながらも安定感がある。そのクラシック期の代表的な質の高い彫刻家の作ったものをローマ時代にコピーした。

Bacchus 1497 Marble, height 203 cm

The Belvedere Apollo

 

(その後の時代になりヘレニズム期(反古典)には、螺旋でひねりすぎて誇張が出る)

地下から発掘されたときのイタリア人に与えたショックは大きかった。それを超えるものがほしいと考えた。それができるのは、ミケランジェロしかいない、彼へ大きな期待が集まった。

古代の神々も多種多数いる、それを写実に造形することで、人間の理想の形を表現したものに到達していた。

プラトンの考え・・現実は「理想形の不完全な写し」である・・が根底にある。プラトニズム

バッカス(デオニソス)は、酒、性、土地、豊饒の神。写実主義の彫刻である。中世に写実主義が崩れたのは、キリスト教の神は見えないものであるという考えから来ている。

ヤハベは唯一絶対・・抽象的に表現するようになっていった。それが中世700年も続いた。キリスト教以前の神々の像が地下から発掘されるにしたがって、神は人間の理想形であるという考えが生まれる。加えて、古代文化研究(メディチ)が成果を出し始める。

それ以降、人間の像に対する考えが変わっていく。盛期ルネサンスへと転換してゆく。という流れになる。

‘アポロ’に負けないものを作るとの意気込みで、バッカスは制作された。アポロとバッカスでは性格は全く異なる。知性の象徴と本能の象徴の違いがある。酒を一方の手に、他方の手に葡萄を持たせて、人間の理性を失わせて本能に任せたものになる。

牧神サティロスを側に置く(上半身人間、下半身ヤギ)、サティロスとは人間とヤギの混ざったもの・・・金欲と性欲を表現する。酒を飲んでチドリ足をしているバッカス。良く表わされている。

アポロとサティロスはよく対比される。理性と本能

アポロの竪琴対サティロスの笛(アウロスという木管楽器)の音楽合戦の例

ヨーロッパでは、絃は管に勝るという俗諺がある。ミネルバは自分で作った笛をほっぺたが膨れるので捨てたという神話もある。それを拾って巧く吹けるようになったのがサティロス。アポロの竪琴に挑戦して音楽合戦をしたあげくに敗北して生きながらにして皮をはがれるという話。

Apollo and Marsyas (ceiling panel)  By Raphael. 1509-11
Fresco, 120 x 105 cm  Stanza della Segnatura, Palazzi Pontifici, Vatican

地上の情熱は神の調和には勝てないという寓意

バッカスは、獅子(ライオン)の毛皮を持っている・・・何故か分からない。 古代ギリシャではヘラクレスがもっているもの。弓矢、棍棒、鎌、と獅子の毛皮はヘラクレスの象徴である。一説では、虚栄を表現する。すなわち、栄光の虚しさ、時間の儚さ、を表現したとも。

コンデヴィは、持っているのは毛皮を虎の皮と見做して、本来なら聖獣である虎が捧げられるのだが、ミケランジェロは皮を描いて、酒をむさぼり飲むものは挙句の果ては死に至るという寓意を込めて彫ったという。

「ピエタ」と同じ時期に作った。ピエタはレオナルドを学んだ成果が発揮され、バッカスは古代彫刻に刺激された成果が発揮されている。

このときのミケランジェロは、全く異なるものを同時進行で作っていたことになる。

「ダビデ」

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

ミケランジェロがローマで仕事をしている間に、フィレンツェでは政治構造が劇的変化をとげた。1498年にサボナローラが処刑され、貴族と市民の妥協の産物である大評議会の後、1502年末終身の国家元首ゴンファロニエーレが設けられ、ソデリーニが選ばれ、1512年まで続く。ミケランジェロはこうした政治の混乱に巻き込まれたわけではないが、様々な影響は受けた。彼の芸術は共和国の栄光をたたえるために用いられた。「ダビデ」像もこうした時期に制作され、政治理念と強く結びついている。

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

1502年 ミケランジェロはフィレンツェに戻り、「ダビデ」像を作る

ドナテッロの「ダビデ」 バルジェッロ美術館と比較

David by DONATELLO
1430s
Bronze, height 158 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

何故 「ダビデ」がフィレンツェで多く描かれていたか?

ダビデは旧約の英雄で最初のイスラエルの王。大敵ゴリアテを退治した、BC1000頃のこと。旧約の預言者達が、ユダヤは、シリア、ペルシャ、エジプト、バビロンから攻められる、しかし、メシアがいずれは現れる。それはダビデの子孫から出ると予言していた。

マタイ福音書には、ダビデからの系譜が書かれている、これをキリストのタイポロジー(予型) という。ダビデの物語は、ドラマティックであり、当時のフィレンツェに状況が似ている。(大国に囲まれて孤軍奮闘)ペリシテ人が敵対していたがこれが大部隊で、無敵のゴリアテが大将だった。少年ダビデが立ち向かう。投石器だけを持って立ち向かった。石で先制して、相手のゴリアテの剣でゴリアテの首を切ることに成功し勝利した。

フィレンツェの状況は、ミラノ、ヴェネツィア、フランスからの攻めがあった。ミラノとの対抗は、知性で勝負する。

ヴェロッキオの「ダビデ」は、1470(70以前)に作られた。

The Young David 1473-75
Bronze, height 125 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

The Young David

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミケランジェロは、既に一度他の人が彫りかけて失敗し放置されていた大理石を渡された。正面からの屈強な体格に比して真横から良く見ると肉厚が薄い。それはこの元の材料の大理石の制限のためである。

ダビデ像
側面からの姿

しかし、バランス上は全く問題なく彫られている。肩に持っているものは、投石器の紐

顔の特に目の表情の鋭さ・・・これからやっつける強い意志を鋭く表現した。

ダビデ像 (頭部部分)

「ダビデ」伝統的な図像とは反対で、戦い済んで勝利した後の姿ではなく、当にこれから戦いを挑んでいく姿である。

フィレンツェ・アカデミア美術館の「ダビデ像」(1501~1504)のポーズをコントラポストにした。「アポロ」をモデルにして、アポロを見た記憶を基にして作った。

David
1504
Marble, height 434 cm
Galleria dell’Accademia, Florence

The Belvedere Apollo

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足の置き方は全く同じ、首のひねり(90°)も同じ。

当時の芸術家が乗り越えるべきものとして三つの課題があった。

  • 自然を超える・・人間を超える
  • 自然に頼った古代の人たちを超える
  • 先人たちの作品を超える

ダビデ像(手部分)

こうした中でミケランジェロは、理想の人間像を描くようにしようと変わった。

「ダビデ」  様式の特徴:

コントラポスト・・どちらかの足に体重を乗せて他のほうをリラックスさせて、そのアンバランスの中に人間らしさを表現する様式、コントラポストを上手く活かそうと考えるようになった。「ダビデ」(1501~1504)は、その影響が最も良く出たものといえる。

ダビデの像が完成した時、それをどこに置くか審査した。審査員にはレオナルドがいた。レオナルドがデッサンしたものが残っている。レオナルドに強い印象を残した証といえる。

Study of David by Michelangelo (detail)
1505 by LEONARDO da Vinci
Pen, ink, black chalk on paper
Royal Library, Windsor

候補の中から「市庁舎の入り口」のパラッツォ・ベッキオ に決まった。(現在は摸刻が置かれている。実物はアカデミア美術館)当時のソデリーニの共和国の政治理念と強く結びつけられた。

バッカスダビデは、ミケランジェロのクラシック期様式の彫刻である。

 

「聖母子と洗礼者ヨハネと天使たち」(マンチェスターの聖母) 97年 未完 ロンドンN.ギャラリー

ミケランジェロの帰属が決まったのは19世紀。(1857年マンチェスターの展示で市民が大興奮)左の二人の天使の色彩は手付かずのままである。

Virgin and Child with St John and Angels c. 1497
Egg tempera on panel, 105 x 77 cm
National Gallery, London

この頃バッカスの受取り問題の齟齬が元でリナイオーリ枢機卿との間が上手くいかなくなりローマでの立場が不安定になっていた。ミケランジェロがこうした状態の中で、自のお慰みのために彫刻を彫ったり、亡命中のピエロ・デ・メデチの後援を期待しながら当てもなく板絵を描いたりしていたらしい。(父や家族との手紙のやり取り)そうした時期の絵であると思われる。ヨハネのポーズにクラシック期の特徴が見て取れる。

「聖母子と幼児聖ヨハネ(トンド)」 浮き彫り彫刻 2点

Madonna (Pitti Tondo)
1504-05
Marble, 85,8 x 82 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

Madonna and Child with the Infant Baptist (Taddei Tondo)
1505-06
Marble, diameter: 82,5 cm
The Royal Academy of Arts, London

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブルージュの聖母」(彫刻)   等がこの時期に製作された。

Madonna and Child
1501-05
Marble, height 128 cm (including base)
O.L. Vrouwekerk, Bruges

 

  1. 古典的な様式から反古典主義の彫刻への変化

作品

  • 「システーナの天井画」(制作途中の途中(1510年頃)から様式が変わる)
  • 「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」ルーブル 1513年

古典的な様式が完成されてしまうと、それを超えるものはどうするか?芸術家たちが模索し始める。

社会的な不安定:世紀末の思想が広がる(最後の審判)不安が広がる。煽る聖職者も出てくる・・・フィレンツェのサボナローラがその典型例。また、アルプスの北では宗教改革の波が広がる。キリスト教が二分されることとなる。

こうした時代の流れの中で、古代ギリシャのヘレニズム期の彫刻すなわち反古典主義の彫刻が発掘された。「ラオコーン」1506年 の発掘が大きな衝撃となった。

Laocoonte e i suoi figli,ラオコーンと彼の息子たち
ヴァチカン市国『ヴァチカン美術館』ピオ・クレメンティーノ美術館

ヘレニズム期・・アレキサンダー大王の後(BC3~2c)の時代の作品

「ラオコーン及びその息子たちのグループ」像は、キトウスという皇帝の家の庭にロードス島出身の三人の摸刻を専門にする彫刻家が彫った。という話が伝わっている。紀元前200年にペルガモン王国で制作された銅像がオリジナルであるとする意見もある。

1506年1月に、コロッセオ近くのエスクイリーノの丘のブドウ畑から発見された。地下室の中に置かれていた。話を聞いたユリウスが購入。発見した人には、ローマ税を生涯上げる約束。これを飾るためのコーナーを作り、ついでに庭園も造った。ミケランジェロは、よくここを訪れたという。

ラオコーン(及びその家族のグループ像) (BC150年)主題について

ベルギウスがアイネアを著作した時期。物語は、トロイアの戦争においてギリシャ軍は戦局を打開するために、引き返すと見せかけて、弁の立つシノーンに木馬を持たせてをトロイに派遣。トロイの聡明な神官であるラオコーンはギリシャの策略であると見抜いて忠告した。それを知ったギリシャを支援する神はラオコーンにミネルバの2匹の蛇を送り込んでその二人の息子と共に締め殺させた。アイネアはトロイから逃げ出してイタリア半島に渡りローマを作った言う話がローマでは語られていた。

Laocoonte e i suoi figli,  ラオコーンとその息子たち                   ピオ・クレメンティーノ美術館「円形の間」Sala Rotonda  の様子

 

 

 

 

ダイナミズムと不安定感を強調して動きを持たせている。

ミケランジェロはこれを見てから様式が変化する。システーナ礼拝堂の天井画ルネッサンスが変わってくる。

特徴:ダイナミズムがキーワード・・感情を表すようなポーズ(ひねりを強く顔の表情を豊かに表現する) この発見がプッシュする形で、1510年頃から古典主義から反古典主義へ変わり始める。これを最初に具現したのがミケランジェロである。

ミケランジェロは発掘の責任者になった。そこで学んだ成果を彫刻で出してくる。

古代彫刻アポロとラオコーン

クラシック期とヘレニズム期の違いは、身体のひねりが大きくなる。躍動感を強調する。

1504年には、フィレンツェ政庁の大評議会ホールの壁面を飾る巨大な壁画「カッシーナの戦い」のカールトン(cartoon=原寸大図)に取り掛かっていた。聖ヴィクトリウスの祝日(1364年7月29日)におけるピザに対するフィレンツェ軍の勝利を現すもの。この時期のミケランジェロの最も重要な作品である。残念ながら、このカールトンは17世紀までには寸断された挙げ句に全て消失してしまった。ヴァザーリが1540年ごろバティスアーノ(アリストーテレ)ダ サンガーロに描かせたのがこの壁画の構図を最もよく伝えているといわれる。現在ノーフォーク(Lord Leicester’s Collection, Holkham, Norfolk)にある。しかし、これも20年以上前にかかれた素猫類に基づく二次的な模写である。もう一方が、1440年のミラノとの勝利を記念した「アンギアーリーの戦い」をレオナルドに委嘱していた。いずれも未完成のまま消失してしまった。

La batalla de Cascina(カッシーナの戦い)
カールトン模写 By Sangallo
Lord Leicester’s Collection, Holkham, Norfolk

 

[教皇ユリウスⅡ世の教皇選出と墓標の制作依頼、システーナ天井画製作依頼の経緯]

ユリウス2世は、一般には盛期ルネサンスの生みの親として知られている。新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設をブラマンテに委嘱し、ヴァチカン宮殿の公的な諸執務室の装飾にはラファエロを起用した。システーナ礼拝堂の天井画の装飾にはミケランジェロを指名した。

Portraits of Julius II as an old man exist in three versions: in the National Gallery, London, in the Uffizi Gallery, Florence and in the Palazzo Pitti, Florence. the London painting has proved it to be the original.

Portrait of Julius II 
1511-12
Oil on wood, 108 x 80,7 cm
National Gallery, London By RAFFAELLO Sanzio

ユリウス2世とミケランジェロとの関係については、双方の個性の強さがもとで時にはぶつかり合いが生じ、また教皇庁とフィレンツェ政庁との政治的な駆け引きに巻き込まれることも絡み単純ではないものがあるのでここで少し触れておきたい。

  • 1503年に10月30日ユリウス2世が教皇に選出された。 (ジュリア―ノ・デッラ・ローブレ枢機卿)

ユリウス2世の選出は意外なものと受け止められた。彼は賄賂と政治的取引でこの地位を獲得した。しかしユリウス2世は選挙前の約束はことごとく反故にして、名だたる独裁的教皇に成った。

同時代人のユリウス人物評は、「頑固で粗暴、扱いづらい人物」。

2度も戦場に兵を送った教皇である。

  • 1度目 ペルージャとボローニャを教皇領に取り戻すため
  • 2度目 フランス軍をイタリアから追い払うため

ユリウス2世の関心が、まだ若いミケランジェロに向った経緯は明らかではないが、フィ

レンツェのソデリーニ政庁と教皇ユリウス2世との間の政治的取引に利用されて、ミケランジェロはユリウス2世から断ることのできない墓碑の彫刻を依頼される(1505年)。その経緯下記

  • 1505年4月 ミケランジェロ カッラーラに大理石の調達に出かける
  • 1505年5月 ミケランジェロは ユリウス2世の巨大な墓碑を作るように要求される
  • 1506年1月 大理石を受け取るために、フィレンツェを経由してローマに行く
  • 1506年1月 この年 ラオコーンが発掘される
ユリウス2世の墓碑のための多数の計画の一つである。過去の度の墓碑よりも巨大な墓を作るように要望された。

Tomb of Julius II  1505年当時
ユリウス2世の墓碑のための多数の計画の一つ。要望は過去のどの墓碑よりも巨大な墓を作る。
Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

墓碑の製作を始める。

1506年4月 ミケランジェロは、突如製作を中止してフィレンツェに戻る。

原因は明らかではないが、教皇ユリウスは当初の契約条件を無視するばかりか、彼の性格からしてミケランジェロが正しいと主張するとそれが対立を生み、いつか自分の命にかかわると思ったらしい。当時ユリウス教皇はブラマンテに新しいサン・ピエトロ大聖堂の建築を委嘱していた。ブランマンテとミケランジェロとの間には確執があった。

  • ユリウス2世は再三にわたりフィレンツェ政庁のソデリーニに対してミケランジェロをローマに戻すように要求している。
  • ソデリーニは、ミケランジェロの説得に悩む。(教皇との戦争にはしたくない?)

ミケランジェロは、墓碑はフィレンツェに居て作る方がよいと考えたらしい。

ところがユリウス2世は、1506年ごろには、仕事の優先順位を変えて、墓碑を後回しにして天井画をミケランジェロに描かせようと考えるようになる。

  • 1506年11月 ユリウス2世はボローニャに遠征。その際、ミケランジェロをボローニャに呼びつける。(ミケランジェロはこのとき謝罪し命乞いの覚悟でボローニャに行っている。)

ユリウス2世がボローニャの聖堂前に巨大なユリウス像の制作を命じる。(3年後、破壊される)

  • 1508年ミケランジェロは一旦フィレンツェに戻り家を購入する。
  • 1508年に愈々本格的に墓碑制作に取り掛かるべくローマに行く。

ミケランジェロは、この墓碑制作の仕事に乗り気になっていたらしく、ローマに行く前にカッラーラに大理石の調達に出かけている。しかし、ユリウス2世はこの頃既に、優先順位の変更を決めていた。

  • ミケランジェロは、意に反してシステーナ天井画(*)を先に描かざるを得なくなった。 「ここ 」を参照

ミケランジェロは、システーナの天井画を製作中に様式の変化を始める。システーナ礼拝堂の天井画でラオコーン的な表現を試みている。例えば デルフィの巫女は安定したイメージ、ポーズであるが、しかし、リビアの巫女ではダイナミズムが発揮されたポーズ、配色も違っている。古典(クラシック的)から反古典(ヘレニズム的)への変化の具体例である。

預言者ヨナのポーズは反古典(ヘレニズム的)になっている。

 

天井画は、9年、10年、11年の3度、足場を変更して全体を完成。ルネッタは1512年に。

ミケランジェロは、10年前後の足場の変更を機に自分の天井画を描きながら、反古典主義に変化する。

    

1506年のライコーンの発掘は、ミケランジェロに強い影響を与えた。

1511年に天井画が公開される。(ルネッタは描かれていない段階)

The ceiling 1508-12 Fresco
Cappella Sistina, Vatican

4つのグループに分けられる。
中央;創世記から9場面
4隅;ユダヤ救済物語
周囲;預言者と巫女
ルネッタ;キリストの先祖たち

結果的に、ユリウス2世に関心を寄せられたことによって、彼による強引な制作要求と優先順位の変更が、ミケランジェロの世紀の傑作を生み、後世に残すこととなった。

その一方で、1505年から度々の計画変更によって、最終完成1545年までほぼ半生にわたり彼を悩ますユリウス2世の墓碑制作というお荷物を背負うことにもなった。

Tomb of Julius II
1545
Marble
San Pietro in Vincoli, Rome

1505年の計画
Tomb of Julius II (project of 1505)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1513年の計画案
(project of 1513)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

1532年の計画案
 (project of 1532)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」ルーブル 1513年~16年

魂を肉体が奴隷になって背負っているという彫刻。

Slave (dying) 「瀕死の奴隷像」
c. 1513
Marble, height 229 cm
Musee du Louvre, Paris

Slave (rebelling) 「抵抗する奴隷」
c. 1513
Marble, height 229 cm
MusEe du Louvre, Paris

天井画の完成後間もない1513年2月にユリウス2世はこの世を去る。また、1512年9月にはフィレンツェは共和制が崩壊しメディチ家が復権していた。ユリウス2世の後任はメディチ家のレオ10世(ジュリアーニ)が即位した。

この混乱期にもユリウス2世の墓碑の制作がミケランジェロの頭を悩ませた。

1513年の計画案
Tomb of Julius II (project of 1513)

Drawing
Galleria degli Uffizi, Florence

1513年5月にユリウス2世の遺言執行人たちと新しく変更を加えたユリウス2世の墓碑の契約をした。依然として巨大ではあったものの、最初の計画からは大幅に縮小されたものとなった。

1513年から1516年にかけてミケランジェロはこの制作に没頭している。

この時期に制作された彫刻が「モーゼ」像と「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」である この時期のこの3点は彼の不朽の名作となった。

「モーゼ」像は、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に据えられた墓碑の中心の彫刻になっている。

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」は、ミケランジェロ自身が、墓碑制作についての契約の紆余曲折の中で墓碑の設計から切り離して独立像の彫刻とし高名を得た。後に友人に寄贈し、その友人がフランスへ持っていった。(イタリアの美術史家に言わせれば、その友人がフランスへ“持ち去った”ということになる。)

「瀕死の奴隷像」及び「抵抗する奴隷」の名前は後世に付けられた通称であり、魂を肉体が奴隷になって背負っているとは言っても、これらのポーズの解釈は実は定まっていない。

「瀕死の奴隷像」は、眠りから目覚めかけているようでもあり、死に瀕しているようでもある。当初の墓碑の計画では自由学芸を表した諸像の一つであるとも言われる。一方が抵抗しているのに対して一方が黙従を示していることからユリウスの死後の文化の服従的状態をミケランジェロが暗示しているという説明もある。

「瀕死の奴隷像」(部分)

「抵抗する奴隷」

 

様式的には、ラオコーンの発掘に刺激を受けたミケランジェロが古典から反古典に変化した直後のヘレニズム様式の傑作である。

反抗する奴隷のポーズはもともとが墓碑の角に配置されるものであったことから色々な角度から見ても自然なポーズとして考えられた。

 

 

 

(そのほか)

「聖家族と幼児洗礼者ヨハネ」板にテンペラ(パネル)トンド直径120cm 1506-8年

The Holy Family with the infant St. John the Baptist (the Doni tondo)
c. 1506
Tempera on panel, diameter 120 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

ウフィチ フィレンツェ 1985年に修復された(絵、額縁共に)。

The Doni Tondo (framed)

 

額縁は同時代のフランチェスコ・デル・タッソ作と推定されている。額入りの直径は170cm

トンド・ドーニ(ドーニ家の円形画)として、フィレンツェにあるミケランジェロ唯一の絵画作品、かつ、壁画以外の持ち運び可能な唯一の作品。

「ピエタ」・・サン・ピエトロ の成功で彫刻家としての地位を確立してフィレンツェに戻っての作品

アニョロ・ドーニ、マッダレーナ・ドーニ夫妻からの依頼、娘の誕生(1507年9月8日)を祝うもの。

Portrait of Agnolo Doni
1506
Oil on wood, 63 x 45 cm
Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence
By Rafaello S.

Portrait of Maddalena Doni
1506
Oil on panel, 63 x 45 cm
Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence
By Rafaello S.

 

 

(少し前 ラファエロが同夫妻の肖像画を描いている)

 

 

 

 

 

 

 

聖家族 聖ヨセフに幼子イエスを手渡している(あるいは受け取る)マリアを中心に三人が螺旋状に重なり合い、明るいが冷たい色調と、光の効果などで聖人家族の峻厳な雰囲気を衝撃的に表現している。

身体や手足のひねり具合、筋肉表現などミケランジェロ彫刻の特徴がこの絵には既にある。マリアの腕の表現など女性のものとは思えない。この後ミケランジェロがローマに行きシステーナの天井画を制作するがその中に描かれる預言者や巫女のポーズには、マリアのポーズから引き続くものが有る。

また、前景の聖家族とは対照的な表現が、背景の壁に凭れたり座ったりしている裸体の五人の若者達である。そのうちの二人のポーズには1506年にローマで発掘された古代彫刻[ラオコーン]を取り入れている。他の若者もやはり古代彫刻からそのポーズを取り入れている。

 

前景と後景の間をつなぐしきりの右側に寄りかかる幼児洗礼者ヨハネ。この意味はまだ不明であるが、聖書の中のキリストの誕生とヨハネによる洗礼の内容を象徴的にみせる表現といわれ、キリスト教以前の古代異教徒の世界とキリスト教後の新しい世界を区分している。額縁にはキリストと天使と預言者の5人が彫られ、絵の内容と関連付けてその意味を暗示している。

ミケランジェロがローマで古代彫刻を直に見聞きし学びそれに強い影響を受けたことがこの作品にも表れている。

盛期ルネサンス絵画の展開(その六) 終わり

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資料;;同時代伝記

  • コンデヴィ,A.「ミケランジェロ伝」 著  高田博厚 1978 岩崎美術社

Ascanio Condivi [Vita di Michelangelo Buonarroti,] ed E.SpinaBarelli,MIan.

――The life of Michelangelo trans.by A.S.Wohl Baton Rouge 1976

 

  • ヴァザーリ,G.「ルネサンス画人伝」 平川祏弘他 1982白水社

Giorgio Vasari [La vita di Michelangelo nella redazioni del 1550 e del 1568  ed. Paoro Barocci, Milan and Naple 1962

――The life of Michelangelo, in The lives of the Artists,trans.by George Bull, Harmondworth, 1965

――Lives of the Most Eminente Paintes,Sculptors and Architects, trans.by Guston du C.   de vere with an introduction by David Eksedjion.2 vols. London 1996

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資料;;伝記及び作品論(解釈論)

  • 岩波世界の美術「ミケランジェロ」アンソニー・ヒューズ著 森田義之訳、    2001岩波書店

Athony Hughes  [Michelangelo]、 Phaidon Press Ltd. 1997

盛期ルネサンス絵画の展開(その七)に続く

ミケランジェロ システーナの天井画以降の後期の展開

 

KuniG について

日々見聞きする多くの事柄から自己流の取捨選択により、これまた独善的に普遍性のあると思う事柄に焦点を当てて記録してゆきたい。 当面は、イタリア ルネッサンス 絵画にテーマを絞り、絵の鑑賞とそのために伴う旅日記を記録しよう。先々には日本に戻し、仏像の鑑賞までは広げたいと思う。
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