スクロヴェーニ礼拝堂(パドバ)ジョット―の壁画装飾(1)

ジョット―の最重要作品といえるパドバのスクロヴェーニ礼拝堂の内部の壁画装飾について、前半「マリア伝」までと後半「キリスト伝」の二回に分けて観てゆく。この投稿では前半の「ヨワキム伝」と「マリア伝」を観る。   ジョット―の肖像   ジョットーの生家

ベスピニャーノ・ジョットー生家

キリスト教を主題にした絵画における中世からルネサンスへの遷り

キリスト教の公認(313)、国教化(392)が ターニングポイントで4世紀にヨーロッパは文化面で大きく変わる。

絵画は、文字を読めない人に対して聖書を伝えていくのに、聖堂の中にイラストを描くことに始まり、可視化の素材としての聖堂装飾の必要性と共に発展した。

基盤が出来る過程で、特に重要なのは5世紀から6世紀の時期である。

基盤が出来る過程とは

  • ・図像プログラム  (装飾プログラム)
  • ・図像の規範が出来た(図像伝統が生まれた)
  • ・手本の聖書 (ヒエロニムスのラテン語翻訳したもの)
  • ・様式の統一 (神とは、イエスとは、マリアとは、)規範が作られた

中世美術はこれら規範を保持していくことが基本===規範を守る==5,6世紀から13世紀頃まで 700年くらい守り続けられた。

これは 個の否定に他ならない=>>作者の個性は出ない。

かなり厳しい中での作者の個がないわけではないが、作者の名前はほとんど出てこない。 (古代は、アペリス、クラクンラレス など個の名前が出た)

ヴェネチアのサン マルコ聖堂のモザイクの製作者の名前は分からない。作者名は中世の間はほとんど記録さえされていない。個性は必要ないということであった。

13世紀半ば過ぎから少しずつ変化が出てくる。

そうした流れの中で出てきた作者がジョット-である。

スクロヴェーニ礼拝堂は、1305年に完成。

高利貸しで成功したレギナルド・スクロベーニの孝行な息子エンリコ・スクロベーニが建立。

ローマ時代の円形劇場(アレーナ)の廃墟の地域を購入したのでアレーナ礼拝堂とも言う。

パドバの街でもこの辺りはアレーナ地区といって楕円形の地形になっている。(アレーナ遺跡の壁面が所々に残っているので地形が察せられる。)

1300年頃、エンリコ・スクロベーニが土地を購入し、父の贖罪の目的で礼拝堂を建てた。 献堂式は1305年3月25日行われた。建物は5年で完成した。

ジョットが来た年と装飾が完成した年は分かっていない。1303年ごろと推定されている。2年くらいかけて1305年に内部の装飾を完成させた。

ジョットは1290年代後半にアッシジで仕事をし、1300年にはローマに呼ばれて聖年祭のためにラテラノの壁画を手掛けた。

ローマから戻ってきて、フィレンツェの仕事、オニサンテの聖母子像を完成してから、この堂、スクロヴェーニを装飾した。出来た当初から一般公開されていた。

高利貸しの利子による儲け過ぎで、同家は忌み嫌われ地獄に落ちると考えられていた。社会への還元をする慣わしのあるイタリアでは今も伝統として残る。

入り口から祭壇を見て、正面から見る全体図

礼拝堂の壁面はプレ ルネサンスの巨匠ジョットが描いたフレスコ画で埋め尽くされている。 内容はキリスト教の教義で、紙芝居のように順番にストーリーが展開される。 「ヨアキム伝」「マリア伝」「キリスト伝」寓意の「7美徳と7悪徳」である。

向って右上から40場面前後が描かれる。物語の展開は時計回りに配置されている。

右側一番奥の祭壇よりのところに「最後の晩餐」はある。ヴェネツィアのサン マルコにも「最後の晩餐」の主題がある。年代は12世紀の終わり(1170~1200)。一方、スクロヴェーニ(1300~1304)で、年代差は、120年くらいである。

変化が大きい→→→これを考えていく

ルネッサンスでも描く主題に変化はない。画家は聖書の物語をしっかり把握する。福音書が四つ、「マタイ福音書」、ルカ マルコ、ヨハネ。

天井には ブルーの星空が一面イ広がり、その中央で帯状の装飾で2分され、それぞれの中央にパントクラトールのキリストと聖母子像が描かれその周囲に4人の聖人が描かれている。

礼拝堂の壁面はプレ ルネサンスの巨匠ジョットが描いたフレスコ画で埋め尽くされている。 内容はキリスト教の教義で、紙芝居のように順番にストーリーが展開される。

大塚国際美術館には、まったく同じ大きさの礼拝堂の模型があり、壁画装飾として陶板製の模写が、本物と全く同じように飾られてある。

 

マリアの両親の物語「ヨアキム伝」、聖母マリアの物語「マリア伝」、キリスト教の教祖イエスの物語「キリスト伝」、それに最下層の寓意「7美徳と7悪徳」。時計回りで(3段+最下層1段)にわたり展開される。

この投稿でのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画装飾の鑑賞は、前半のマリアの両親の物語「ヨアキム伝」、聖母マリアの物語「マリア伝」、までとする。

後半のキリスト教の教祖イエスの物語「キリスト伝」は次回の投稿とする。

「ヨアキム伝」の展開 

祭壇に向かって右側の最上層、祭壇側から入り口に向かって6場面で展開される。

1.神殿から追われるヨハキムヨアキム神殿追放)

ヨアキムとその妻アンナは信心深い人でしたが、永年子供がなかった。ヨハキムはナザレ出身で、アンナはベツレヘム出身。

ユダヤ人のしきたりとして三大際(カイヤ)に当たりエルサレムに羊を捧げるためにやってくる。神殿を参拝しようとしたヨアキムは、 「子供が授からないのは神の前で正しくないからだ」という理由で神殿から追放される。羊も受け容れられない。

“生めよ殖えよ”がユダヤの国是である。

建築モチーフは祭壇周辺だけの必要な部分のみを描いて追放されるヨハキムの悲しみを強調する、そのためにコントラストとして、受け容れられて祝福を受けているものもさりげなく描く(対比して見せる)ジョット―の人間性あふれる気遣いの細かいところ。

左から右への流れを見せる工夫として斜めに描く。

2.羊飼いたちのところへ身を寄せるヨハキム (ヨアキムと羊飼い)

屈辱のヨアキム。このままでは故郷ナザレには帰れない。 故郷に帰っても彼は侮辱されるばかり。

ヨアキムはアンナの元へ戻らずしばらく羊飼いの元に身を寄せる。 犬は喜んで飛びついているがヨアキムの表情は晴れない。

ヨアキムの表情がいい。ジョット―の細かいところの妙味が出ている。心理描写が深い。

この時代の犬や羊のスタイルが興味深い。

3.アンナへのお告げ(告知) 

行方知らずの旦那ヨアキムや子供が授からないことを嘆き祈っていたアンナのもとに天使が訪れ、 「あなたは身ごもり、やがて子供が産まれる。門のところであなたの夫と会えるだろう」と告げる場面。

絵には、日常の空間が簡潔な表現で描かれていて、斬新である。

 

4.供物を捧げるヨハキム

一方同じ頃、羊飼いのところでは、ヨアキムは神に祈り、犠牲として羊を祭壇上に捧げた。神が受け取ることを告げる場面。

祭壇に捧げられた羊は焼かれて骨ばかりになっている。観察による写実表現の始まりとみる。

頭上に手が現れて神が受諾の意思表示をしている。

5.ヨハキムの夢

アンナへのお告げがあったと同じころ、犠牲を捧げた後でまどろむヨアキムの夢にも天使が現れお告げが出る。

“アンナに子供が授かる。アンナも心配している。アンナがエルサレムの金門で待つ、行きなさい”

ヨアキムはエルサレムに戻る決心をする場面。

(3)と(5)と同じ頃、神の使いはアンナとヨワヒムのところへ行った。

(3)を前に持ってきた理由としては、フランシスコ修道会の「無原罪の御宿り」の考え方に起因する。

天使の動きに動的な動きが表現されて斬新、対角的に静と動を対比させている。

6.金門での出会い 

ヨアキムがエルサレムに戻ると金門の所で妻アンナが待っている。再会を抱き合って喜ぶ二人。 子供が授かったことを感謝しながら二人はエルサレムを後にする。

 金門の建築モチーフのモデルはリミニの門。一緒に迎える女性たちの表情に心理が読み取れる。

この続きが「マリア伝」。

様式上では、単に一場面で完結するのではなくて場面間のつながりを持たせるのがジョット―の特徴である。

左上層  アンナとヨアヒムの話が、見る側から見て左から右に話は展開する。

六枚の絵で一つの話が展開される、(上層は窓でスペースがとられることがないので六枚である)

全体が、二枚、三枚、一枚のグループで構成されると考える。 最後の一枚がクライマックス。

始めの一枚は、左上から右下に流れがあり、二枚目はそれを受けて左下から右上に流れる。\_/

次の三枚構成では、中の一枚の上部に神の手が描かれ、夫々三枚に神からの流れを示す。/|\  (上記の図)

The Mosaics of the Dafni Monastery -12世紀 Athens. The Daphni

 

 

右上層  マリアの話が、ここも同じように見る側から見て左から右に話は展開する。

六枚の絵で一つの話が展開される、(更に正面に続いて、受胎告知三枚、及びエリザベス訪問の計十枚構成)

こちらも、全体が、二枚、三枚、一枚でグループ構成されると考える。 六枚目の一枚がナザレに向う。

二枚:マリアの誕生と神殿奉献、建築モチーフ、内と外、左から右への流れを建築で受ける―|―|

三枚:壻候補探しと婚約相手を決める、婚約。背景が同じ、エルサレムの神殿祭壇の部分、

一枚:結婚のプロセスとして、実家のあるナザレに向かう


7 マリア誕生

ヨアキム・アンナ夫妻が待ちに待った子供が誕生する。

異時同図 複数のシーンが一枚になっているので、床で産湯を使っているのも、アンナに手渡そうとしている子もマリア。

この時代は赤ちゃんはぐるぐる巻きにする風習( 15~16世紀のイタリアの習慣)で、ジョット以外にもよく似た絵がある。 

 建築モチーフは(3)と同じ(アンナの家)二つの物語が異時同図で描きこまれている。

二つ目は、生まれたばかりの赤ん坊の目を洗っている。

1290年代(スクロヴェーニ直前)の「マリアの誕生」サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会のモザイク装飾(ピエトロ・カヴァリーニ)と比較すると変化が良く分かる。

Apsidal arch: 1. Nativity of the Virgin  1296-1300
Mosaic   Santa Maria in Trastevere, Rome

 8マリアの神殿奉献  マリアは神殿に預けられる。3歳の時のこと。ヨハキムのお告げの際に天使からあなた方の子供は神に捧げられるべきものと言われていた。エルサレムの階段は15の階段。 下にマリアを置いたら一人で階段を上っていったと伝えられている。

(8)はヨハキムが追放される場面と向き合う位置にある。人物、召使が荷物を背負った後姿で描かれている。背中が語るもの。足を一歩踏み出している。アンナ、マリア、司祭の衣が赤―白―赤の交互に配置されリズムが出ている。

アンナの体が大きく表現されて、母親の思いと優しさをデフォルメして表現している。

(マリアの婿の選定の場面3つ)

9マリアの婿選び

マリアが12歳になったとき、神のお告げにより、マリアの婿を選ぶことになり、求婚者は杖を差し出すように言われる。 この杖から芽吹いた人がマリアの夫になるという。

神殿に枝ないしは杖を捧げる求婚者たち。 ダビデの一族の 中から独身者が集められた。枝 ないしは杖を祭司に渡す場面。

並いる求婚者たちの最後尾で自信なさげに立たずむ人が、ヨセフ。こんな歳になっているのに、何で俺までが求婚者に名を連ねなければならないのかと言いたげな様子。気が進まない雰囲気が出ている。彼にだけは光輪を付けている。

10求婚者の祈り

祈祷する求婚者たち。

白い花が咲き、白い鳩が舞い降りる、杖の持ち主が婿に選ばれることになっている。

「どうか私の枝に花を…」と求婚者たちは膝まづき祈る。杖が積み上げられた祭壇の上には神の手が見える。

11マリア結婚

見事(?)ヨセフの杖に花が咲き、白い鳩が舞い降りた。ヨセフが選ばれてマリアの夫と決まり、マリアの婚約が行われる。

マリアの婚約の成立、選にもれた若者が感情をあらわにしている。こうした表情は、その後ルネッサンス絵画の人間表現に大きく影響を与えた。ペルジーノやラファエロの同主題には似た場面が更にいきいきと描かれている。

アプスの神の手はこの場面になると描いていないところなどジョット―の拘るところで気遣いがいい。

12マリアの帰宅

夫を得たマリアは神殿を出て故郷に戻ることになる。

婚礼の行列 ナザレの実家に戻ってゆく 十年振りの帰宅。神殿で一緒の祭司が先導する。友人を何人かお供につける。

家の窓には大きな葉の付いた枝がかざられている。

ここまでが十二場面が「ヨハキム伝」及び「マリア伝」

続きは次の「キリスト伝」へ。

枝を託す→→神に祈る→→婚約の 三場面が同じ建築モチーフを使っている。三枚で一つの連続したものが足りに見せようとする工夫がある。

帰宅の場面では、左から流れてゆく。次の「受胎告知」との関係をつなげたいとの意図が見える。

スクロヴェーニ礼拝堂の壁画装飾(1)を終わる。後半「キリスト伝」は次回の投稿 スクロヴェーニ礼拝堂の壁画装飾(2)になる。

スクロヴェーニ礼拝堂(パドバ)ジョット―壁画装飾(1) 了

「キリスト伝」は

スクロヴェーニ礼拝堂(パドバ)ジョット―壁画装飾(2)で見る。

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盛期ルネサンス絵画の展開(その一)

盛期ルネッサンス絵画の展開(その一)

--フィレンツェ主要二つの工房の果たした進化への役割--

(今までの振り返りとまとめ)

ルネッサンスの定義

古代の写実をよみがえらせる、それはキリスト以前の文化(異教)の蘇りを計る。

すなわち具体的には、キリスト教の聖人(キリスト、マリア、12使徒)の表現を、中世における天上人としての扱いから、現世人として描くように改革。

ルネッサンスの歴史の時代区分

  1. プレ・ルネッサンス 1290’s~1400前後 ジョットー
  2. 初期・ルネッサンス 1420’s     マザッチョ
  3. 盛期・ルネッサンス 1470’s レオナルド/ミケランジェロ/ラファエロ
  4. 後期・ルネッサンス 1510’s     カラバッジョ (マニエリスムの時代を経て)

絵画ではジョットーから始まりおよそカラバッジョまで、300年ほどの期間。但し、ジョットーからの100年は、ジョットーを大きく改革するものが出ていない。17C以降はキリスト教美術が衰退し、聖書が主題ではなくなる。

初期ルネッサンス絵画の展開 (その一)から(その四まで)――マザッチョからフィリッポ・リッピまで--

1420年代  マザッチョの新しいスタイルが始まる。以前はタブーであったものに挑戦した。マザッチョは彫刻のドナテッロブルネルスキーから学んだ。

特徴 3要素

  • 正確な人体表現 筋肉骨格など実在のモデルを使用したと思われる
  • 線遠近法にかなった合理的な空間表現 ブルネルスキーの発明を絵画に応用
  • 光源を統一した光線に基づいた陰影表現

マザッチョが始めてウッチェロ、アンジェリコ、ピエロ、リッピなどがヴァリエーションを創像していった。

 

盛期ルネサンス絵画の展開

1470年代 盛期ルネッサンスに進むステップアップした様式が生まれる。

1510年頃 のラファエロあたりまでを盛期ルネサンス絵画と位置付けている。(ミケランジェロの「最後の審判」、ラファエロの最後の10年の作などは、マニエリスムのはしりともいえる)

なお、(ボッテチェリの活動は1470~1500頃までで、晩年は画家として活動しなくなる)

この投稿の中心テーマ

ヴェロッキオ、ポッライウオーロ(pollaiuolo) 兄弟及び、その工房である。(レオナルド、ボッテチェリ、ラファエロ、ミケランジェロはその後にする)

1470年代 盛期ルネッサンス ステップアップした様式が生まれるのでそこから見てゆく。

1470年代に ヴェロッキオは、様式が変わるきっかけを作った。

他の要素としては 1470年頃から図像が少し変化した。主題に新しいものが現れる。それまではあまりポピュラーでなかった主題が盛んに出てくる。

まずは、ポッライウオーロ の2点の小品を見る

  • 「ヘラクレスとヒュドラ(eracole e idra)」
  • Hercules and the Hydra 
  • c. 1475
    Tempera on wood,
  • 17 x 12 cm
    Galleria degli Uffizi, Florence
  • 「ヘラクレスとアンタイオス(eracole e anteo)」 
  • Hercules and Antaeus
    c. 1478
    Tempera on wood,
  • 16 x 9 cm
    Galleria degli Uffizi, Florence

 

 

 

 

  • 2つとも10cm*20cmほどのサイズ。

 二つとも1470年代の前半の作品である。記録によると1466年にメディチ家がポッライウオーロ にヘラクレスの板絵を3枚注文している。(3枚とも実物は100年後に失われたとヴァザーリ伝にはある)。同じような図像の(大きな板絵)が60年代後半に描かれたと思われる。したがって、2点は画家自身によるそれらのレプリカということになる。

主題のヘラクレスは、キリスト教に関係がない、すなわち聖書の考え方の寓意ではない。異教の主題が描かれた理由を考えてみる。・ヴェロッキオもキューピット、アモレットを主題にしている。・・

  1. 古代文化の研究がフィレンツェで行われていた。

    1439年にコジモ・ディ・メディチがカレッジにアカデミア(古代文化研究所)を作った。60年~70年頃には研究が軌道に乗り出して、アリストテレスの研究や詩の研究など成果を出し始めた。画家たちは、それらの成果から、古代の神々の中に人間の本質を見るようになった。信仰の対象としてではなく人間を見つめる。ヴィーナスやマルスなどは、人間の気持ちが生み出したものと見た。 異教の神々を信仰としてではなく人間は何かを象徴する存在と考え主題とした。

    ヘラクレスは 剛毅、豪気、勇気の象徴と見た。当時フィレンツェには敵対する国が周りにあった。戦う象徴としてヘラクレスが用いられた。

    聖書にない人物が描かれる更にもう一つの理由は

  2. 裸の研究がしやすいという事情  がある。

それ以前の裸の図像の例としてマザッチョの「楽園追放」がある。  他に裸の図像の例としては「キリストの磔」の図像などが以前からあった。しかし聖書ではアダムやキリスト以外で裸を描くことが出来る人物が少ない。服を着ない人物を描くためには人体を正確に研究しなければならない。古代神話上の人物はそのための制約がまったくない。

それでは何のために裸にしたいのか? 人体研究が更に深まっていった。その成果としての研究の再現を試みるのは自然の成り行きである。その目的は?生命力を出す、ヴァイタリティや動きが、それ以前よりはるかに豊かに表現される。

マザッチョから50年、まさにステップアップであった。

マザッチョの「楽園追放」のアダムとイブをポッライウオーロ のヘラクレスの裸の図像と比較する。

    

マザッチョは、人間の体の肉の丸みや筋肉の存在などリアルな肉体表現を生み出したが、ポッライウオーロ は、肉体エネルギーの衝突、フォルムの隅々まで張り詰めた神経、視角の変化に応じて激しく揺れ動く輪郭線などの特徴により、精神性からきり放たれた肉体の運動、生命のドラマに集中したものとなる。

比較により双方の違いがより鮮明になる。

では、ポッライウオーロ は何を工夫したか?

まず、

  1. ポーズに工夫がある。足の踏み出し方、腕の上げ方、それを表現するのに適切な主題を探して選んだ。そして、異教の物語の中に見出した。これが70年代に大きく変わった点である。

人体研究に熱心であった(兄弟のうちでは10歳上の兄がはるかに技量が上である)兄は彫刻もやった。

ヘラクレスとアンタイオス」(ウフィチ 国立バルジェッロ美術館)65^75頃の兄の彫刻 を見る。

 

Hercules and Antaeus
1470s
Bronze,  height 45 cm
Museo Nazionale del Bargello, Florence

 

 

 

 

板絵の小品とまったく同じ構図の彫刻である。 45cmほどのサイズこれはメディチの  館に二つあったうちの一つである。

彫刻は3次元の形を3次元で表現するが、絵は3次元を2次元に表現する。その工夫のために彫刻は良い教材となる。

アントニオ・ポッライウオーロ (兄)は、研究熱心で、解剖を最初にやった芸術家である(ヴァザーリによる)

この時代から解剖学が始まった。

キリスト教では人間の解剖は死罪に匹敵する大罪であった。地中の肉体を甦らせて最後の審判をするので、肉体を壊してはならないとされていた。 

ところが、ペストの蔓延とその対策のために、人体の研究が真剣に行われ、内部を見る必要性が強くなると解剖を行うようになる。その記録のために絵描きが求められた。ポッライウオーロ はその最初の人である。

彼は、そうして得た解剖学的知識を彫刻や絵画に応用した。そしてこれが盛期ルネッサンス絵画の特徴(以前との違い)となった。それ以前とは、知識が大きく違ってきたという背景がある。

更に ポッライウオーロ工房の2点の作品を見る

1.「セバスティアヌスの殉教」縦長の板絵 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

Martyrdom of St Sebastian  1473-75
Panel, 292 x 2023 cm  National Gallery, London

2.「戦う裸体の男たち」 エングレーヴィングによる銅版画 ロンドン大英博物館

Battle of Ten Nudes  1470s
Engraving, 428 x 618 mm

「セバスティアヌスの殉教」の主題のセバスティアヌスは、3Cディオクレティアヌス皇帝時代の軍人であったがキリスト教信者を助けた罪を咎められ、かつ自らも信者であることを告白して処刑に合う。弓矢で処刑された。物語では弓の処刑では死に至らず処刑後ある女性に助けられた。しかし再度処刑された殉教者であり、聖人になった。 

この絵は、元フィレンツェのサン・セバスティアヌス・アンヌンチアタ教会のプチ家礼拝堂に在った

セバスティアヌスも裸にしやすい(で描ける)数少ない聖人の一人である。

この絵の特徴は

1.人体表現にある 

絵は、裸体のセバスティアヌスを中心にして左右対称的に描かれている。弓を射る6人の執行人が、杭に磔にされたセバスティアヌスを囲んで配置されているが、このポーズに工夫がある。3つの基本ポーズが角度を変えて繰り返して配置されている。前の左右端の二人と奥右の一人は長弓を射る同じポーズを3つの角度から描いている。前の中の二人は屈んで弓に矢をつける同じポーズを前と後ろからの二つの角度で描いている、奥の左は弓を射る違うポーズをしている。同じポーズを角度を違えて描くことで、平面に立体の3次元を表現することに成功している。また6人の配置の総合によりこの絵の前景を奥行きのある立体的スペースに表現できている。動きのある人体の模型を作って、それを回転させて描いたと思われる。

これはポッライウオーロの研究の経緯で生まれた知恵である

マザッチョの「貢の銭」を見ながら比較

動きの表現やポーズの工夫など人体表現が進化していることが見て取れる。

2.空気遠近法の採用による背景の奥深さ

この絵はプラトータイプ:手前を丘にしてしまうことで中景をカットし、より深い奥行きを表現する手法:である。ピエロ・デラ・フランチェスカのウルビーノ公モンテ・フェルトロ伯の肖像とその裏側の風景画を見て比較すると良い。

風景は画家が暮らしていたアルノ川周辺の当時の風景である。川の流れの蛇行の描写と奥の山々の描写での空気遠近法の進化した使い方で、ピエロよりも一段と奥行きが出ている。

 

「戦う裸体の男たち」の作品は、エングレーヴィングによる銅版画としては最も早く、そして影響力を持った作品である。しかもその時代の最もサイズの大きな版画である。またこの画家のサインの入った唯一の作品である。彼の永い熱心な研究の結果考えられた表現法であると思われる。主題については過去ほとんど論じられてこなかった。ある人は神話の中の物語を挿絵したという、ある人は人間のポーズを描く際に他に示すための実体模型のパターン片である、またある人は10人の戦いのポーズは、専門剣士による儀礼的な戦いを表現したもので、このプリントは当時のフィレンツェの要人の葬儀の際に使われたなど・・。

いずれにせよ画家の真意は、緊張感に富んだ動きの早い人体を、さまざまなポーズで遠近法の中で表現してみることである。

10人の戦う男たちが夫々二人ずつ注意深く一対に構成された構図が、ダンスをしているように並べてありながら激しい戦いの動きを良く表現している。筋肉はやや不自然に曲げられたり誇張されたりはしているが、画家の熱心な解剖学の研究の成果が遺憾なく表現されている。

「ポルトガル枢機卿礼拝堂の壁画装飾」 三人の聖人 ウフィチ

Altarpiece of the Sts Vincent, James, and Eustace 1468
Tempera on wood, 172 x 179 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

元はサン・ミニアート・アル・モント聖堂に在った(ミケランジェロ広場の上の教会)

ポルトガル枢機卿ヤコポは25歳で枢機卿に抜擢された秀才だが若くして死亡した。本人の名前ヤコポにちなんで聖ヤコブの像が描かれた。

構図は聖ヤコブと他の聖人二人の3人の立ち肖像が並んでいる。プラトータイプである。右の人物の股下からベランダの向うの遠景が、中景をカットして直に描かれている。

人体の研究がよくなされているが、これは着衣の姿である。豪華な衣装が表現されて着物の装飾が細かい。貝殻は巡礼者を象徴するが、足元の帽子の周りに貝殻の細かい装飾が見える。装飾的表現が非常に細かいのはポッライウオーロ工房が金工装飾の請負をやっていたことが影響している。二人による共同制作である。兄がはるかに上手かったので、立ち姿がやや不自然な右の像を弟のピエロが書いたものと思われる。

「トビウスと大天使ラファエロ」 トリーノ サバウダ美術館

Tobias and the Angel  1460
Wood  Galleria Sabauda, Turin

 トビウスの父は病に伏せている。トビウスは父の使いでお金を貸した友人のところに取り立ての旅に出た。途中若者に出会い、一緒に旅をする。実は彼が大天使ラファエロであり、トビウスを安全に導く役割を持つ。途中川を渡る際に大きな魚に襲われる。ラファエロの導きで退治することが出来た。また彼の導きでその魚の内臓を持っている。悪魔祓いや、病気の治癒に使うためである。この時代から、この主題が盛んに描かれるようになった。ヴェロッキオ、フィリッピーノ・リッピなど。この頃から、旅が一般の民衆にも広がりを見せた。大天使ラファエロが旅の守護聖人であったことから、この主題が好まれた。

また犬と共に描くのは犬が忠誠を象徴する動物であるため。衣装の色調と襞の表現など細かく豪華に描かれている。プラトータイプで描かれ、背景はアルノ川周辺で、川の蛇行や空気遠近法の活用で奥が深い。

1470の前後アントニオ&ピエロ・ポッライオーロとヴェロッキオが始めた新しい動き(盛期ルネッサンスへの移行)をまとめる

  • 生き生きとした人体表現――解剖学的に正確な人体の表現

人体解剖が許可されたことが背景にある(絵で記録を残す必要性から画家が参加)

  • 非常に深い奥行きを持つ空間表現 線遠近法を越えて、人工物以外にも遠近法を工夫)
    • 空気遠近法(大気遠近法)を用いる(フランドルは1420頃から)
    • プラトータイプの採用――距離感を出す為に中景をカットする手法
  • 新しい主題を用いた表現――ギリシャ神話などで、人間の内面性を象徴しようとしたポッライオーロとヴェロッキオ共に工房を活用したという問題がある。

復習のため ヘラクレスの2枚の絵を再度見る。

          

工房の製作の必然として、一枚の絵の中に複数の異なる手の挿入が認められるところに注意が必要である。

「トビウスと大天使ラファエロ」の主題の絵 ポッライオーロとヴェロッキオを比較

ヴェロッキオの作品  ロンドン ナショナル・ギャラリー

Tobias and the Angel  1470-80
Egg tempera on poplar, 84 x 66 cm  National Gallery, London

共通点と違いについて

プラトータイプが共通点 ただし風景を描く情熱はポッライオーロが熱い

違い

人体表現が異なる。ヴェロッキオがより動きを感じさせる。――右から左に移っていく動きの表現が豊かである、足の動きや体重の乗せ方に巧さ。

顔の表情もヴェロッキオが表情豊かに表現している。魚に目線が行っているところなど。手に対してもヴェロッキオが繊細な注意を払い、手に表情が出ている。

衣の表現は両者に大きな違いがある。ヴェロッキオは細かい装飾よりは体の動きを失わないように注意を払う。ポッライオーロは細かい装飾が非常に巧い。  ポッライオーロの装飾へのこだわりは、工房としての特徴–力の入れ方が—

ヴェロッキオ工房は、絵画作品は非常に少ない。

「ダヴィディの彫刻」の写真を見る ヴァルジェッロ美術館所蔵

The Young David  1473-75
Bronze, height 125 cm  Museo Nazionale del Bargello, Florence

トビウスの人体表現と顔の表現に彫刻的な検証の効果が見て取れる。

「イルカを抱く少年」パラッツィオ・ヴェッキオ 

Putto with Dolphin   c. 1470
Bronze, height 125 cm  Palazzo Vecchio, Florence

広場の中庭の噴水の上にあった。体重の乗せ方など正中線が微妙にS字を描く—-マニエリスム期には更に正中線がねじれていく。図像が天使ではない–プットーニ、キュービットの周りの童子で、愛を象徴している。 イルカは再生を象徴し、愛が甦ることを詠っている、メディチ家の館に在った彫刻群の一部である。

「キリストの洗礼」ヴェロッキオ工房 ウフィツ トビウスと同年代の作品 1470年代

The Baptism of Christ   1472-75
Oil on wood, 177 x 151 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

(工房で最も有名な作品)

レオナルド・ダヴィンチも参画している(彼は1472年に独立した)。ヴェロッキオはレオナルドの出現で「自分は絵を描くことをあきらめた」といわれる。人体表現が巧い。彫刻からの影響が見て取れる、キリストの人体の表現、4人の人物の表現が豊かである。ヨハネの真剣な表現と二人の天使の愛らしい表現が対象。

ピエロ・デラ・フランチェスカの洗礼と比較してみることにより、初期と盛期の違いがはっきりする。

体重の乗せ方。 奥行き表現は、初期は大きさの比例で表していたのが特徴である、これに対して盛期には空気遠近法を採用している。

工房の問題について

同じ工房の作品でも色合いなどに違いがあったりする。その訳は?

—「トビウス」と「洗礼」の両方の絵を比較して検証する。

 

背景へのこだわりが違う。洗礼はより拘っている ヨルダン川の描き方では空気の密度などに拘って表現している。

ヴァザーリの伝記で左端の天使がレオナルドの手になるものといわれる、1550年の記述。—実際はもっといろいろ描いている? 風景などにもそれらしさを感じるところあり。フィレンツェのサン・サルビ修道院にあった絵。

天使の絵でレオナルドの巧さが良く分かる

内面性の表現が良く描かれて心理描写が出来ている。キリストの衣を持つしぐさ、キリストを見守る表情が良く出ている。

(右側の天使はボッテチェルリ説がある)

1470の レオナルドのスケッチを参考として見る   ――風景のデッサン  洗礼の右奥の風景はレオナルドが描いた。キリストもレオナルドが描いたという説も最近出ている。棕櫚は殉教の象徴であり処女性(童貞)の象徴でもある――弟子が描いた 聖霊も弟子の手

「受胎告知」レオナルド ウフィチ(洗礼の隣に展示)

Annunciation   1472-75
Tempera on wood, 98 x 217 cm   Galleria degli Uffizi, Florence

19cに入ってきた当初はギルランダイオの作といわれていたが、20cになってレオナルドの帰属と成った。

前景の表現、植物、石つくりの書見台の装飾、などがヴェロッキオ工房のものと判定されている。マリアや天使の衣の金属的質感がレオナルド。ヴェロッキオ工房の天使に近い表現、風景の空気遠近法の表現は、レオナルドの特徴。

レオナルドが「受胎告知」のために描いたデッサン

 

構図のバランスは良くない――右側だけに建築モチーフ

ロレンツォ・ディ・クレーディ (ヴェロッキオ工房)の受胎告知と比較Annunciation  1480-85  By LORENZO DI CREDI
Oil on panel, 88 x 71 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

建築モチーフの完成度が疑問、背景の木々の表現がパターン化され単純すぎる。

レオナルドに帰属させるには不思議なところが多い。天使ガブリエルの顔が無表情。  ヴェロッキオ工房の作ではないか?

ロレンツォ・ディ・クレーディと似ている。工房の作品の帰属には難しさがある。

  • 「キリストの洗礼」は、レオナルド的
  • 「受胎告知」は、ヴェロッキオ工房的    と逆になっている。

 

次の投稿、盛期ルネサンス絵画の展開(その二)以降では、

ボッテチェリ、レオナルド ダ ヴィンチの絵画 について観て行きたいと思う。

 

 

 

 

カテゴリー: 0Arte Rinascimentale Itariana, 3Periodo di massimo splendore rinascimentale, 未分類 | コメントする

初期ルネサンス絵画の展開(その四)

初期ルネサンス絵画の展開(その四)

フィリッポ・リッピ 1406年~1469年 について

この投稿ではリッピについて鑑賞する。まずは初期の作品を見る。実は、リッピは年代が明確な作品が少なく、時代区分は難しい面がある。

リッピは、カルミネ修道院の近くの肉屋の子として生まれたが、早くに父親に死に別れ、預けられた先の育ての親からも疎んじられ、15歳(1421年)になった時に、サンタマリア デル カルミネ修道院に入れられた。この修道院では、丁度マザッチョがブランカッチ礼拝堂の壁画連作「ペテロの伝記」を制作中の期間と一致することから、彼はマザッチョの絵を描くところを見て画家としての意欲を持ったのではないかと思われている。

フラ アンジェリコがドメニコ会の敬虔な修道士であったのに比べて、リッピはカルミネ会の修道士ではあったが、当初からカルミネ会の規律には厳密に従うような性格ではなかった。例えば、自分が院長を務める尼僧修道院の修道女 ルクリティア ブウティ(Lucrezia Buti)と恋愛沙汰を起こした上、パトロンであるフィレンツエの権力者コジモ・デ・メディチのとりなしで許されて結婚をし、二人の子をもうけている。その一人がやはりルネサンスの画家フィリッピ―ノ リッピである。

(フィリッポ・リッピ年譜概略)

1452年にプラート大聖堂の壁画を描いているのでこれを軸に区分を試みる

1430(画家組合に登録)  ~~1452--前期

1452(プラート大聖堂の壁画)~~1469--後期

 

  • 1421年に15歳で、カルメル会の修道士になる。  :注ヴァザーリの列伝では別の記載があるが最近の研究では間違いとされている。

(1430年から数年間パドーバに滞在したが作品がない 約7年間)

  • 1437年 「コルネート タルクイニアの聖母」基準作 年代が明確
  • 1438c  「バルバドーリ祭壇画」パリ ルーブル ‘37/3に依頼された
  • 1445c? 「受胎告知」 サンロレンツォ聖堂  時期が不明確
  • 1447   「聖母戴冠」ウフィツィ マリンギが41年に依頼47年に完成
  • 1450c  「聖母と諸聖人」 ウフィツィ         コジモ・ディメディチが1445にサンタクローチェ聖堂のために依頼

 

初期の作品とは?        1430年代には2点の聖母がある。

「謙譲の聖母」ミラノ スフォルツァ城 美術館 Madonna of Humility (Trivulzio Madonna)   c. 1430
Panel         Castello Sforzesco, Milan

「玉座の聖母」 エンポリ コレッジャータ美術館Madonna and Child Enthroned with Saints   c. 1430
Panel, 44 x 34 cm   Museo della Collegiata, Empoli

1430年から数年間パドバに滞在したが、約7年間作品がない。記録もない。多分北部イタリアでフランドルの絵画をじっくり学んだと思われている。そして基準作となるのが7年後のタルクイニアである。

1437年 「コルネート タルクイニアの聖母」基準作 年代が明確 Madonna with Child (Tarquinia Madonna)  1437
Tempera on panel, 151 x 66 cm   Galleria Nazionale d’Arte Antica, Rome

この絵で参照にした画家は、マザッチョの様式とロレンツォ・モナコの様式、これにさらにこの二人を融合したフラ・アンジェリコの様式をミックスし、かつフランドルの影響も見られる.

(マザッチョからリッピのタルクイニア への様式の流れ図)

「コルネート タルクイニアの聖母」はなにを基準にしたかが分かる重要な作品

1438c  「バルバドーリ祭壇画」  パリ ルーブル ‘37/3に依頼された

  Madonna and Child with St Fredianus and St Augustine (the Barbadori Altarpiece     1437-38  Panel, 208 x 244 cm      Muse du Louvre, Paris

1445c? 「受胎告知」 サンロレンツォ聖堂  時期が不明確Annunciation    c. 1445
Wood, 175 x 183 cm      San Lorenzo, Florence

1447   「聖母戴冠」 ウフィツィ  マリンギが41年に依頼47年に完成

 Coronation of the Virgin        1441-47
Tempera on wood, 200 x 287 cm    Galleria degli Uffizi, Florence1450c  

「聖母と諸聖人」 ウフィツィ  Madonna Enthroned with Saints    c. 1445
Tempera on wood, 196 x 196 cm      Galleria degli Uffizi, Florence

コジモ・ディメディチが1445にサンタクローチェ聖堂のために依頼

 

各絵の鑑賞と解説

「コルネート タルクイニアの聖母」

バルベリーニ美術館 国立絵画館  G.N. D'Arte Antica

バルベリーニ広場のバルベリーニ宮殿内に展示されている。フィレンツェ司教ジョバンニ・ヴィテレスキが依頼。サンタ マリア バルベリディ聖堂に有った。

絵の中に年代が記述されている。 この場合は記述を事実と見てよい。彼は、この作品から様式がまったく違ってきている。この前の作品について見てみる。

「カルメル会戒律の承認」

Confirmation of the Carmelite Rule (detail)   c. 1432
Fresco   Museo di Santa Maria del Carmine, Florence

 

左 エンポリー コレジャッタ美術館 カルベ教区修道院と比較

マザッチョ的である。マントの下の身体の彫像性などピサの多翼祭壇画の聖母子のものと近い。手前左上から差し込む光の様子もマザッチョ的である。

 Madonna and Child Enthroned with Saints c. 1430
Panel, 44 x 34 cm  Museo della Collegiata, Empoli

マザッチョの「サンジョベナーレ祭壇画」の聖母子と比較してみる。

San Giovenale Triptych
1422  By Masaccio
Panel, 110 x 65 cm (central), 88 x 44 cm (each wing)
San Pietro, Cascia di Reggello (Florence)

 

上記2作は当にマザッチョに非常に近い。マザッチョのデビュー作という説もあった。

タルクイニアは、これらと比較すると、様式がまったく違っていて これはリッピではないとも言われたほどであった。

人体表現における肉付けや二人の天使の置き方、光の差し方の構図など似た表現がある。

ブランカッチで「貢の銭」などを制作中のマザッチョを間近で見ていたかあるいは手伝っていた。しかし疑問もある、何故、「ピサの多翼祭壇画」は参照にしていないか?時期的には見たはずなのに・・

この前の時期7年間にパドーバで学んだものがある。この間に飛躍的な進化を遂げた。マザッチョから学べないものを学んだ。マザッチョ以外の要素を見つけている。

ではまず、マザッチョ的なものについて見よう。

  • ①しっかりした彫塑性
  • ②キリストの肉付き・元気のよさの表現

フラ・アンジェリコの基準作 リナイオーリの祭壇画と比較する。

聖母子の捕らえ方

  • 人間性をより重視したとらえ方(マザッチョ)
  • 理想化した神聖をより強くしたとらえ方(フラ・アンジェリコ)

リッピは、マザッチョ的な捕らえ方であり、世俗に居る母と子らしさが出ている。一方マリアの表現は、フラ・アンジェリコに近いとらえ方になっている。

母子二人の関係に、マザッチョは、強い絆を表現しているが、これを取り入れている。

衣の表現の仕方では、内側の体の立体感を大切にしている、しかし布の質感はマザッチョよりも硬い。

空間表現では、3次元空間を作っている。玉座の半円形及び前にスペースを置き見るものに迫る効果、後ろの椅子の半円形で奥行き感を作る、凹凸の効果を活用。円による凹凸の感じはマザッチョの創案であり、これを学び取っている。

背景はマザッチョと異なる・・金地背景ではない。右にベッドを置きマリアの寝室を表現、左には奥にアパートの窓が見え、さらに左の窓からはトスカーナの田園風景が描かれている。すなわちこれは現実的空間を表現しようとしたものである。

マリアの表現を見ると世俗化の狙いがうかがえる。後輪が取り除かれている、身につけているものを描いて世俗性を表現した。ベールをとめる道具や指につけた装飾品で人間としてのマリアを表現した。

祭壇画であり、司教からの依頼なのに何故世俗化なのか・・彼の新しい時代への挑戦と見たい。

フランドル絵画 ファン エイクの「ブルージュの聖母」を比較

The Madonna with Canon van der Paele   1436
Oil on wood, 122 x 157 cm    Groeninge Museum, Bruges

サークラ・コンベルサチオーネ(聖会話)の構図。人間表現の質感、 発注者を画面に入れるなど、類似点がある。

パドーバでフランドルの作品を学んだ。ファン アイクの以前であろう。聖母子を置く場所に世俗空間を描く。装飾のブローチや背景の書き方にフランドルの影響。ガラスの質感表現、金属の質感表現は、フランドル特有でイタリアにはなかったもの。衣の表現はフランドルの方が固い。裾の床への余らせ方やその模様もフランドル風。マザッチョにない要素をフランドルに見る。

国際ゴシック様式の特徴である威厳は出ていない。

1438c  「バルバドーリ祭壇画」を見る

サンスピリット教会 カルミネ修道院の近くアウグスティネス会が37年に発注した。

過去とは違うものを描く意欲が出ている作品である。立っている聖母子、後輪は薄いがある、金地背景ではないなど。

フラ・アンジェリコ 40年 アンナレーナと比較  

Annalena Altarpiece   c. 1440 By Angelico Fra.
Tempera and gold on panel, 200 x 235 cm Museo di San Marco, Florence

聖会話様式。フラ・アンジェリコより早くに、フランドル的になっている。

30年代の進んだ絵である。リッピはフランドルに着目したもっとも早い画家である。構図が横長に広がる。

工夫点は何か

建築モチーフに気遣いがある、コルネートからさらに発展させようとの意欲がある。玉座を三段にして、前景を下段に置き。中段にマリア、上段に天使を配置。背景に実際の壁を使い高さの実感を出し横の広がりに仕切りを入れるなど。

遠近法の使い方がマザッチョと差がある。マザッチョは厳格に描くがリッピは不自然な使い方をしている、本を中心で開いたような描き方である。「聖母戴冠」と並べて比較 前側に広い空間を構成した。

40年代の受胎告知

1445c? 「受胎告知」サンロレンツォ聖堂 を見る 

Annunciation  c. 1445
Wood, 175 x 183 cm  San Lorenzo, Florence

サンロレンツォ聖堂のthe Martelli Chapel に描かれた絵で、今も描いた時と同じ礼拝堂に祀られている。この場所はブルネルスキーが設計した空間であり、リッピはかなりこの空間構成を意識したのではないか。線遠近法による奥行を深くとろうとしている。

中央の柱から右と左で人体表現が違う、マリアとガブリエルを同じ右側の空間に描いている。ガブリエルが下から見上げるようにガラスの器から引き抜いたゆりの花をマリアにかざしている。だまし絵(trompe l’oeil)の手法がうかがえる。マリアの表現が上手い。

ガラスの器と光の表し方がフランドル的である。

柱の左側、それ以前の受胎告知では描かれない場面が描かれている。天使ミカエレの顔がおかしい、バルトロメオ(ナイフ)などの表現が幼稚に感じる。

1447  「聖母戴冠」を見る ウフィツイ サンタンブロージュ礼拝堂祭壇用

「聖母戴冠」の主題について

「聖母戴冠」の主題は聖書外典に基づいているが、13世紀にヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』によって広く普及した。この挿話は、時間的な順序としては「聖母被昇天」に続くものであり、天上で聖母がキリストによって迎えられ、立ち並ぶ多くの福者たちの上に就けられる。

リッピは、前景に多くの聖人や要人を描いて夫々に名前が書いてある。一番目立つ、殉教したエウスタキウスと妻コンビウスとその子供二人(悲劇的な人生の家族)

マリアに冠を被せるのがイエスではなく神そのものである。守護聖人として、アンブロージュ (この町)とヨハネ(フィレンツェ)を両側にどっしりと配置している。

右下にリッピの自画像?(マリンギの息子との説もある){この絵はわたしにより完成した}と書かれた紐。

後輪がごく薄いのは、聖人より世俗人として描きたい画家の意志。

構図的には、空間の出し方が本を開いたような遠近法の玉座。しかし段の高さの違いで玉座に居る父なる神とマリアへ高まり感を持たせて見るものをいざなっている。主題に沿って非常に多くの登場人物を配しているが、特に中央の人物たちの衣の色彩は豊かに描かれていてまとまりを持たせている。その繊細な描き方と画面を漂う淡い光の表現は独特である。

14年ほど前にフラアンジェリコが描いた同主題の絵を参考に見ることにする。Coronation of the Virgin  1434-35 By  Angelico Fra.
Tempera on panel, 213 x 211 cm  Muse du Louvre, Paris

作品の構図は、階段の下で跪く聖人たちの集まりを底辺として。階段状に上に向かい頂点の天井の玉座へといざなう形で組み立てられている点で同じである。ただ、線遠近法の使い方はマザッチョを踏襲できているのはアンジェリコの方で中央マグダラのマリアが持つ香炉の上に消失点をおいて正確に描かれているのに対し、リッピは本を見開いたような形状になっている。聖人や要人のそれぞれの彫像性においては、リッピの方がより現実性を表現し、写実という点で進んでいる。色彩はアンジェリコがモナコを踏襲した絢爛さの色彩感であるのに対して、リッピはあくまでも世俗性に拘っている。

 

1450c  「聖母と諸聖人」 ウフィツィ

Madonna Enthroned with Saints   c. 1445
Tempera on wood, 196 x 196 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

コジモ・ディメディチが1445にサンタクローチェ聖堂のために依頼。オレンジ色のマントをまとった聖人はメデチ家の守護聖人St Damian, St Cosmas である。一番左が聖フランシスコ。光の射し方は、写実である。人物の彫像は写実でありかつ動きを持たせようとしている。しかし、動きのポーズがかえってぎこちない印象を与えている。背景等には世俗性の描写を控えているように見えるが、マリアの幼児キリストを抱く手の表情に工夫をして神聖と母としての情愛を融合させている。

1450c  「受胎告知」 バルベリーニ美術館Annunciation with two Kneeling Donors   c. 1440
Oil on panel, 155 x 144 cm
Galleria Nazionale d’Arte Antica, Rome

サンロレンツォと比較

リッピがマザッチョの改革をカスターニョを通じて継承しつつ、モナコやフラアンジェリコの様式も取り入れ、フランドルの様式を学んだ上で世俗化等の工夫による写実への自己の様式を作っていった過程がうかがえる。

受胎告知は 他に the National Gallery in London,the Alte Pinakothek in Munich, the Uffizi in Florence, the Galleria Nazionale in Rome,  the National Gallery in Washington. がある。     The Annunciation    1435-40
Tempera on panel, 100 x 161 cm  National Gallery of Art, Washington

プラート ステェファノ大聖堂 の壁画 について

ピエロのサン フランシスコ 聖堂の壁画と同時期に制作された。

プラートは、フィレンツェに近い町。リッピが色々と問題を起こした町でもある-ルクレティア プーティと暮らし始めた町。

プラート ステファノ大聖堂 大聖堂(DOMO):その町の司教の椅子が置かれていたところ

聖ステファノを奉る サント ステファノ大聖堂

左側壁に–ステファノの物語   右側壁に–洗礼者ヨハネの物語

注:ピエロの「聖十字架物語」が配置等で特異な手法を使っているのに対し、リッピは二つの話を順序に従い描いて、一般的手法を用いている

壁画の連作を描く際の画家のやり方 について

  • テキストを読む  聖書
  •          民間に伝承・・「黄金伝説」など
  • 前例・同じ主題を以前の画家がいかに描いたかを学び取る
  • 洗礼者ヨハネ・・フィレンツェの洗礼堂 モザイクの連作15場面     1280~1320頃の制作
  • ステファノ・・フラ アンジェリコ ヴァティカン ニコラス礼拝堂         1447~1450頃の制作

これらにリッピのオリジナリティが加わっている。

リッピが50年にプラートに居住を移し、65年までかけて描いた力作である。15年近い間の画家の様式の展開がわかる連作でもある。その後のルネサンス絵画の展開に大きな影響を与えた作品である。

主題について

天井に4人の福音者たちを描く ヨハネ、マルコ ルカ マタイ 

左ルカ             右ヨハネ

右側壁 (ルネッタ)

Birth and Naming St John   1452-65
Fresco   Duomo, Prato

建築モチーフで2つの場面に分割・・「ヨハネの誕生と命名」

洗礼堂のモザイクにテキストの内容が明確に描かれている。

「ガリアの司祭 エリザベスが母《マリアの従妹》」624日が誕生日 キリストより6ヶ月早い。ガブリエルがエリザベスに懐妊を伝えるが、夫のザカリアは信じない、その結果神の怒り買ったザカリアは口が利けなくなる言葉を発することが出来なくなる。命名に当たって エリザベスはヨハネとするように頼む。ザカリアは紙に名前を書く-—偶然二人の考えが一致したため、ヨハネとする。書いたとたんに神の怒りが解けてザカリアは口が利けるようになる。

命名の場面は、奥行きが広がっている。

(中層)

St John Taking Leave of His Parents   1452-65
Fresco  Duomo, Prato

3,4,5の三つの場面が描かれる 異時間図:左から右へ、が普通だがここは逆

ヨハネは子供のときに両親に分かれて荒野の修行に出る。禁欲的な生活により、人間は生まれながらにして罪びとであると悟る場面。

説教をする場面。自覚できた人はどうするのが良いか・洗礼がよい、ヨルダン川での洗礼の図。

丁度、洗礼をしているところへ、キリストが現れた。 キリストを指してヨハネが言う「人の罪を贖う神の子羊が現れた」 イエスに洗礼を施す。天の声が聞こえる。聖霊が舞い降りる。12歳から30歳の頃の出来事。

(下層)

Herod’s Banquet   1452-65  Fresco  Duomo, Prato

奥の壁(正面)にはみ出している。ヘロデ王はガレリア領の王 権力を亡兄から継承するため兄の妻ヘロディアを娶る。これをヨハネが批判する。(モザイクの連作)ヘロディアが恐れて、ヨハネを牢に入れるようにヘロデに頼む。

ヨハネは弟子たちに使いを出す、キリストが本当に神の子かの確認を指示した。イエスのところにやってくる。足を直しているところを見て神の子を確信する。

宴席ではヘロディアがヨハネを殺す機会を狙っている。娘サロメ(ヘロデ王にとっては姪)が舞を披露 褒美をくれるといわれて、ヘロディアのたっての頼みのとおり、サロメはヨハネの首をほしいと言う。ヨハネの首を皿に入れてヘロディアに差し出す場面・・弟子たちが埋葬する。

The Beheading of John the Baptist  1452-65
Fresco   Duomo, Prato

手にもつ首のところで角度を変えている(隅を使う)例:マゾリーノの壁画(同主題)コモ湖の近くカステルオーネ・オローナ 1435頃がある。

左側壁 ステファノ物語ステファノの誕生(使徒行伝第7章)の場面。

St Stephen is Born and Replaced by Another Child
1452-65   Fresco   Duomo, Prato

ステファノは最初の殉教者であるキリストと同時代

子供の頃、悪魔によって攫われ、すり替えられて荒野に置き去りにされたところを動物(鹿)が育てる。女性が拾って司祭(ユリアヌス)に預ける。

(中層)左から右へ展開 Disputation in the Synagogue   1452-65
Fresco  Duomo, Prato

成長してユリアヌスに別れを告げる場面。ガリラヤに行ってキリストの仲間に入る、ペテロから助祭に任じられる・・12使徒を手伝う(貧しい人々の面倒を見る)役割。

右側 悪魔祓いをする図「サン ヘドリンのステファノ」 聖書の物語「使徒行伝」6,7章からの物語。サン ヘドリン(ユダヤ教の祭祀たちのいるところ異教徒の会堂)に行き、旧約を全部話す(良く纏められている)異教徒(パリサイ人)と討論をする。

(下層)

The F.uneral of St Stephen   1460
Fresco  Duomo, Prato

ステファノが捕らえられる、石打の刑にて殉教する。

サウロという男がその場に居る。後にキリスト信者になる。彼は、ダマスカスにおいてキリスト側に改宗――パウロになる。

フラ アンジェリコ ヴァティカン ニコラス礼拝堂の壁画と比較して見る。「7人の助祭の一人と伝えられる」が第1場面 聖書に忠実に描いている。

リッピは主題の扱いが違う。彼がアレンジを加えている理由は何か?ヨハネに重点を置いたと思われる――ヨハネの物語の構成を先に決めた。

ステファノの物語をそれに合わせている。これをタイポロジーの手法という。

殉教の話が両方ともに、正面にはみ出している。

The Martyrdom of St Stephen  1460
Fresco  Duomo, Prato

様式について

プラートのステファノ大聖堂の壁画の主題についてこれまで見てきた。長い年月をかけて制作したので様式に変化がある。

  •    天井と上層      中層      下層
  •      ‘45        ‘50c      ‘60頃

(上層)1450年前半 「受胎告知」バルベリーニ美術館 ラリオーニ家礼拝のため

(中層)《幼児期リストへの礼拝》ウフィツィ カマルドーリ修道院                             他の2点の同主題の作品

(下層)《聖母子》  ピッティ美術館

    《聖母子と二天使》 ウフィツィ  ‘55~60c

同時期に製作した作品との関連について、特徴を関連付けながら見ていく(前出のプラートの壁画の写真を振り返りながら検討)人物の描き方、建物の遠近法が下層に置いて進歩のあとが見える。

(上層) 主題のみならず様式も同じである。

建築モチーフのアンバランスはプラートと共通の特徴、奥行きが出し切れない(出そうとはしている)

線遠近法を用いるが使いこなせていないところがある。2枚貝を見開いたような傾向が見える。不合理性が排除されるに至っていない、曖昧を残している。  ピエロが合理性を徹底するのと差が有る。遠近法を使っているにも関らず奥行きが少ない感じがする。

人物が細めに描かれている。 中層の人物像と比較すると存在感が薄い。

(中層)関心が移っていく。建築モチーフに拘らず屋外の「岩」や「木」などを多用したものになる。上の方に積みあがって行くような様式になっている。

リッピは奥行きがない、空がない。奥行きを塞いでいるし、色調も遠近で同じ調子になっている。奥行きを出したいのか、あるいは出したくないのかが分かりにくい。

(下層)

この時期、再び建築モチーフに関心が戻る。(図像の要素だけではない)上層に比べ、より重厚で深い奥行きを出そうという意欲が感じ取れる。

開扇のような不自然な遠近法は相変わらず残る。建築モチーフの最前景と人物の配置が不合理のままである。

人物は(中層)より更に堂々として重々しさが出て、がっちりした印象を与える。

踊るサロメの動的表現がダイナミック、衣が舞っている線の表現が繊細に描写されている。敢えて、シンメトリーを崩していてダイナミズムが生まれている。

この頃50歳のリッピはサンタ・マルゲリータ尼僧修道院の礼拝堂付き司祭になっていた。52歳の時に自分の努める修道院の修道女と駆け落ちし一緒に暮らすようになった。禁を犯した廉で訴えられたが、コジモに救われて、画家としても活動を続けることができた。

同時代の作品を見る

1450年前半 「受胎告知」ラリオーニ家礼拝のためバルベリーニ美術館

建築モチーフのアンバランス プラートと共通の特徴

奥行きが出し切れない(出そうとはしている)

 

 

 

 

1450c半ば  「幼児キリストへの礼拝」アンナレーナ修道院 

Adoration of the Child  c. 1455
Tempera on wood, 137 x 134 cm  Galleria degli Uffizi, Florence(the Benedictine Annalena nunnery in Florence )

1455頃 キリストが生まれたばかりの瞬間を描いたもの。 羊飼いがいる。普通降誕には描かれない。 フィレンツェでは新しい図像であるが、フランドルには例がある――ロベール カンバン 作 (ディジョン美術館) 

キリストが地べたに置かれる、これは、キリストの謙虚さを象徴している。

聖母の後ろの聖女はマグダラのマリアが自らの過ちを悔いている図。左奥の人物はヒエロニムス説が有力、石で胸を叩いている――砂漠において煩悩を悔いている図。

罪を悔いる男女を併記した

 アンナレーナ修道院長を左下に描いた。プラートの壁画の(中層)の様式に近い様式である。

木を多く置いて奥行きを出そうとしている。遠近法を用いるが大きさの計算が曖昧である、統一されていない。一方、マリアの像は美しい、手の表情が良い。ベールの線表現も良く纏っている。

同時期

ウフィツィの他1点の「幼児期リストへの礼拝」Adoration of the Child with Saints c. 1463
Tempera on wood, 140 x 130 cm  Galleria degli Uffizi, Florence
この絵は1463年頃、Camaldoliの館のためにLucrezia Tornabuoni(ピエロ デ メデチの妻)から依頼された。

主題が微妙に違う 登場人物が変わっている。前の絵は キリストの降誕と羊飼いが中心である それに対してこれは、マリアとキリスト、洗礼者ヨハネ(文字の入った紙を持つ)

「ほら神の小羊が」

洗礼者ヨハネは、6ヶ月しか違わないはずだが、この絵はその点に拘らない(構わない)

神の手と聖霊が中心である キリストが輝いている。右下がヒエロニムス。マリアの図像は聖人ブリジェット(St Bridget of Sweden’s) がもとになる。祈る聖母の源となった聖人で、この時期フィレンツェで人気が有った。

岩の積み上げの図像は共通している。地平線が見えず、空がない。そのため奥行きが出し切れない。

他の1点 ベルリンの「幼児期リストへの礼拝」

Madonna in the Forest   c. 1460
Oil on panel, 127 x 116 cm   Staatliche Museen, Berlin

メディティ家 リッカルディにあった。 質がもっとも高い。ヴェネツィア派ゴーツォリ(画家)にピエロ・ディ・メデティが描かせたものと共に有った  ピエロ・ディ・メデティが依頼したものだと推測される。

その場所に、現在は、複製が置かれている。

キリストの周りの花の表現が美しい―ボッテチェリに影響した。マリアのベールは聖母の処女性を象徴、衣にキリストの足だけがかかる、ベールは透明で美しい。

ウッチェロの「夜の狩」オックスフォード 木が多く描かれる 1450頃

「聖母子」 トンド ピッティ美術館 バルトリーニ家 1455~60  Madonna with the Child and Scenes from the Life of St Anne
1452
Oil on panel, diameter 135 cm  Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence

主題:背後に2つの物語

  •    マリアの両親 ヨワヒムとアンナの金門での再会
  •    アンナがマリアを生んだ図

マリアの両親 ヨワヒムとアンナの金門での再会マリアに関する話をフィレンツェの貴族の館をモチーフに描いた。

プラートと比べると(下層)に近い様式である。マリアの顔の描写が変わってきている。ヘロデの宴のサロメに近い表情描写。

修道女ルクレツィアと出逢った後、彼女を具体的なモデルにしたと思われる。  衣のひらひらした感じがサロメに似ている。

制作年代の推定は、研究者により違っている。プラートの(下層)に近いと見る。

「聖母子と二天使」

Madonna with the Child and two Angels  1465
Tempera on wood, 95 x 62 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

聖母はルクレツィアをモデルにした。晩年(66年スポレートに行く前)の作 65年頃とされている。聖母は世俗的に描こうとしている。前々からその意志がある。しかし時代によって顔の様子は変化している。窓の前に座った構図 椅子の肘掛の渦巻き模様は共通。ウフィツィの中でもっとも質の高い作品、デッサンが残されている。背景表現がこれまでになかった空気遠近法を使う。 地平線、空を描く。新しい試みをしている。ピエロの空気遠近法と同時期のこと。

繊細な線的表現が始まる—ボッテチェリに継がれていく。(ボッテチェリはリッピの工房にいた)

髪の装飾もより大胆になっている。世俗性は継承されているし、かつ、より洗練されている。親子の関係に自身が薄かったので、その思いが出ているのかもしれない。

ミュンヘンの「聖母子」 これはリッピとは違うかも知れない 弟子に描かせた可能性あり

スポレート大聖堂 アプスの壁画  フレスコ (アプス全景)   

View of the Apse of the Cathedral 1467-69
Fresco  Cathedral, Spoleto

このフレスコ画の連作は、聖母の物語で、リッピ 最晩年の作品であり生涯で最も意欲的な作品と言われている。作品の完成を間近にしてリッピは死を迎えたが、まだ若年(16,7歳)の息子フィリッピ―ノが引き継いで数ヶ月後の69年12月には完成させている。

上部の半円球部分と下部の壁面の2層で構成されていて、上部は「聖母戴冠」下部は中央に「マリアの死」、左に受胎告知、右に「マリアの誕生」という4場面御構成である。

受胎告知                マリアの誕生

 Death of the Virgin    1467-69
Fresco   Duomo, Spoleto

Coronation of the Virgin  1467-69
Fresco  Duomo, Spoleto

「聖母戴冠」(中央部)

プラートの連作とスポレートの連作でリッピが使った絵の具の豪華さと種類の多さを見ただけでも、彼の最晩年において更に大きく才能が発揮されていることが推察できる。

リッピは晩年になって力強さが出る 彼からダヴィンチへ継がれていく。

 

 

リッピを終了したところで、初期ルネサンスの絵画の展開は、(その一)から(その四)まで完了する。

次は いよいよ 盛期ルネサンスの絵画の展開 に進む。   了

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初期ルネサンス絵画の展開(その三) 

初期ルネッサンス絵画の展開(その三)

ピエロ デッラ フランチェスカ  1440~1470半ばに活動

PIERO DELLA FRANCESCA
(b. 1416, Borgo San Sepolcro, d. 1492, Borgo San Sepolcro)

ピエロは、サン セポルクロで生まれ、故郷の他、ウルビーノ、リミニなどイタリア中央部の小都市で活動をした。ドメニコ ヴェネティアーノの弟子

カスターニョとの共通点は

  1. 1440同時代の活動である
  2. ドメニコ・ヴェネティアーノと密接に関係する(ピエロは弟子であるが、カスターニョは弟子か共同制作者かはっきりしない)

カスターニョとの相違点に焦点を当てて鑑賞してゆく。

カスターニョはマザッチョを正当に素直に継承している。すなわち、正確な線遠近法、光を入れる、人体表現のリアリズム(衣の下の肉体の表現など)を素直に引き継いでいる様式である。ピエロはどうだろうか?

ピエロ デッラ フランチェスカの活動期を3期に分割

  1. 第1段階 40年~52年
  2. 第2段階 52年~62年アレツオのサン・フランチェスコ壁画制作約10年
  3. 第3段階 62年~75年

 

  1. 第1段階 40年~55年

初期の代表作ということが判断がつきがたい。

「聖シジスモンドとシジスモンド・マラテスタ」 リミニ

  • St Sigismund and Sigismondo Pandolfo Malatesta  ( 1451)
    Fresco, 257 x 345 cm  Tempio Malatestiano, Rimini

年代はハッキリしない。この絵はリミニの領主シジスモンド・マラテスタのために、the Tempio Malatestianoとして知られる領主の家族を祭る教会、通称、マラテスタ家の神殿の祭壇画として描かれた。領主 シジスモンド マラテスタ (1429~1468)は道徳的には悪い人、4回結婚した。一人は殺した。4人目のIsottaと上手くいった。

若い王子が彼の守護聖人である聖シジスモンドの前に跪いている。王子は真横を向いていて、守護聖人も完全に正面は向いていない。保存が悪く顔以外は輪郭がわかる程度である。

教会のこと

サンフランチェスコ聖堂(テンピア マラテェスティアーノ:マラテェスタの神殿)  建築設計 アルベルティ

1450年頃、レオン バティスタ アルベルティに既存13cのサン フランチェスコを改築させて マラテスタ家の菩提寺としてサン フランチェスコ教会をより豪華なものにした。自分をアウグスツスに見立てようとして、ローマ時代の神殿のようにしたいと希望。キリスト教会に異教の殻を被せた。教皇ピウス2世に咎められ破門された。(真実は、言いがかりで排斥の種に使われたかもしれない)教養はあった人、1468年に死亡。教会改築は未完に終わる。(正面上部旧教会が見える)

「キリストの鞭打ち」(‘52)

  • The Flagellation   c. 1452
  • Oil and tempera on panel, 59 x 82 cm
    Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

ピエロの代表的な作品の一つ。最初のウルビーノ滞在中に製作された。主題はキリストの鞭打ちだが、前景手前右側に3人の登場人物を居ている。画家は同時代の主要な出来事を現す副主題を込めているらしいが、現代では分りにくい。前の3人の人物の意味?真ん中の人だけが質素な身なりで聖人らしい。コンスタンチノポリスに差し迫ったトルコの攻勢を受けて、東方の教会と西方の教会の再統合・和解の会合( the reconciliation) の話題が込められているという説もある。建築モチーフによる線遠近法を使って奥行きを深く表現している。

特徴 キリストを一番奥に配置して見るものの目の動きを誘い出す。ウッチェロの《サンタ・マリア・ノベッラ聖堂の付属修道院(ドミニコ会)の壁画》の第4カンパータの《ノアの箱舟》と同様の寓意がこめられたという説、キリスト教会は11Cに分離していたものを再度あわせようという動きがあった。エウゲニウス4世(右の箱舟)の両者がフィレンツェで会合、その意を絵に込めた?

《カスターニョの聖母子像》 フィレンツェ 旧コンティーニ ボナコッシ・コレクション(ピッティ宮の中)   一般公開をしていない

Madonna and Child with Saints   c. 1445
Fresco, 290 x 212 cm   Contini Bonacossi Collection, Florence

人体表現のリアリティがあり衣の内の表現にはモデルを使用したと言われる、光の取り入れはフランドルからの影響である。

  • ドメニコ・ヴェネティアーノの「サンタ・ルチアの祭壇画」Palazzo Pitti
  • The Madonna and Child with Saints c. 1445
    Tempera on wood, 209 x 216 cm
    Galleria degli Uffizi, Florence

光、遠近法、衣のひだ;マザッチョの特徴と類似 但しルチアの首の長さに注目、 (ピエロはヴェネティアーノの弟子)

  1. ウフィツィの初期ルネッサンスの部屋に展示されている。
  2. マザッチョを受け継いだ上でより世俗的になってきている、衣の表現が違う-ひだの中の線の描写、肖像だけでなく細かい装飾をきっちりと描きこんでいる
  3. さらに、サークラ・コンベルサチオーネ(聖会話)の採用:同じ板の中に聖母子と聖人とを一緒に描きこむ、依頼者の肖像も描きこみ、(但し子供として;信仰の世界の位の差を意味する描き方)
  4. 線遠近法による空間の作り方(消失点が中央にある)、・・マザッチョの特徴と一致

「キリストの洗礼」(‘40~45)   ピエロ デッラ フランチェスコ 

Baptism of Christ   1448-50
Egg tempera on poplar panel, 167 x 116 cm
National Gallery, London

絵画への遠近法の取込み法を著した人。――顔の図面化;顔の描き方の図法を編み出した。

この絵は、生まれた町のキオク聖堂サンジョバンニ聖堂の多翼の中央パネルとして、他翼のパネルは別人が描いた。趣が異なる。

構図の定め方には数学的な考察の上で纏めたと思われる

**絵画を描く板を、上部の半円と下部の正方形の組み合わせととらえる

  • ①鳩すなわち聖霊(これが中心)の位置決め–上部の半円の中心点におく
  • ②キリスト像全体すなわちキリストの顔と足の位置決め、正方形の1辺を半径にした円弧の交点に置いた。
  • ③洗礼者ヨハネの位置決め、縦の中心線すなわちキリスト像に対し対象の位置に、ヨハネと木を配置している。
  1. ヨハネの後ろの二人との大きさの関係4;2;1として、人物の大きさの違いで、遠近法による奥行きを出している。
  2. 3人の天使の構図に多様性を出している――向き、衣の形と色、被り物など
  3. ほかにも《聖シジスモンドの前のシジスモンド・マラテスタ》 リミニ マラテスタ神殿(マラテスチアーノ)、《シジスモンド・マラテスタの肖像画》 パリ・ルーブル、 《モンテフェルトロとその妃バティスタの肖像画》ウフィチ、 など横顔を好んで描いた。

「苦行するヒエロニムス」(‘50)ピエロ デッラ フランチェスコ 

The Penance of St Jerome  c. 1450
Panel, 51 x 38 cm  Staatliche Museen, Berlin

マザッチョの改革に影響を受けた3人ではあるが、カスターニョが素直にマザッチョの様式を引き継いだのに対してドメニコ・ヴェネティアーノはさらに独自の空間構成を想像し、彫像性においても抽象化がみられる。

ピエロ・デッラ・フランチェスカは、カスターニョよりはドメニコ・ヴェネティアーノに近い。

《キリストの洗礼》とカスターニョの《十字架像のキリスト》と比較

人体表現が抽象化されている、形態の単純化がさらに徹底しているし、人体、景色、木や柱の形が幾何学的な計算に基づいている。

後にセザンヌが着目、弟子への手紙に「自然は円柱、円錐と三角錐」でとらえよと助言したというエピソードがある。

  • キリストの顔が正面なのに、ヨハネは真横向き、その意味は?
  • 顔はよく似たものにしているのは?

絵画への遠近法の取込み法を著した人。――顔の図面化;顔の描き方の図法を編み出した。

―ピエロ・デ・フランチェスカは当時のフィレンツェでは人気がなかったが、後世のセザンヌマチスなどから評価が高まった画家である。

ピエロ デラ フランチェスコ の代表作

  • 聖十字架伝説(Legend of the True Cross) Arezzo       サン フランシスコ聖堂(Basilica di San Francesco)

  • 内部外観

  

全部で10場面あり、最初の3場面はキリスト以前のお話、最後の10番目に受胎告知。他の多段祭壇画と展開を異にしている。Chronologyの順になっていない。 物語は13cにGenoaのJacobus da Voragineによって編纂された(the Golden Legends)からの引用である。全部を見るのは後の機会に回し、ここでは代表的な場面を見て特徴を知る。

 

  1. ピエロ・デ・フランチェスカが全体を構成する上での図象学的な考えを反映した配置にした。
  2. 数学的思考を持った、線遠近法による空間の出し方に工夫、人物表現にも幾何学的手法を用いた。

[時代背景]東ローマ帝国がイスラムの脅威に晒されて助けを求めたヨセフス(左)とエウゲニウス4世の両者がフィレンツェで会合した。すなわち、1439のコンスタンチノポリス(東ローマ)とローマ(西ローマ)両教会の合議 参照前出《キリストの笞打ち》ウルビーノ マルケ州の国立美術館

このカッペラ マッジョーレの聖十字架物語のような連作を鑑賞する際のポイントは、

  • 主題 (引用した教典や黄金伝説など
  • 様式上の特徴(場面全部の各場面毎に検証)
  • 全体のプログラム、
  • 図象プログラム、
  • 装飾プログラム  を見るという手順で見る

この連作の全体像の様式の違いについては、1452から1462の10年間の制作の展開を通じての様式の変遷がある。(注:この間に不在期間(59~60)(ローマのヴァティカンでの壁画制作(紛失))

はじめ、Bicci di Lorenzo に依頼されたが一部を制作したのみで死亡したため、ピエロ・デッラ・フランチェスコが後を引き継いだ。正面上層の左右2場面は「預言者」、ピエロ以外の手?

上層右側第1場面「アダムの遺言」アダムの死についての4つの物語が描かれている。アダムが死期を悟った時息子のセス(セツ)に指示して大天使ミカエルに身体を清める油を頂きに自分が追われた楽園の門に行かせる。Death of Adam   1452-66
Fresco, 390 x 747 cm   San Francesco, Arezzo

セスは大天使に面会するが、それには直接は応えてもらえずにアダムとイブが楽園時代に禁を犯した知恵の木の実を渡されて、アダムが死んで埋葬する際にはこれをアダムの口に入れるように言われる。セスと家族はアダムを埋葬する際にミカエルのくれた 実をアダムの口に入れる(この絵では実ではなく苗木になっている)。時代が移ってユダヤ人の家長の墓には大きな木が育っている。異時同図4場面。

中層右側 第2場面「聖なる木への崇拝ーソロモン王に拝謁するシバの女王」ソロモン王の時代(BC10c) ダビデの息子ソロモン王を Shebaの女王が表敬し、謁見する。円環構図が特徴である(中心人物を人々が囲む構図)、会見の構図は珍しい(描かれていることが少ない)前例としては洗礼堂(フィレンチェ)の扉の装飾がある。1430年頃から現れた構図。寓意として東西教会の統一会議が背景にある(1439)ピエロはそれを意識した?   Procession of the Queen of Sheba; Meeting between the Queen of Sheba and King Solomon   1452-66
Fresco, 336 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

アダムの口から育った聖なる木は、ソロモン王の時代に切り取られて使い道がなかったために川の橋を作る資材と使われる。シバの女王は道すがらこの橋を渡る際に不思議な予感がしてその橋げたに崇拝した。中層正面は第3場面「聖なる木の埋葬」シバの女王からその話を聞いたソロモンは王国の危機につながるかもしれない奇妙な木を橋げたから外して穴に埋葬させる。雲の描き方に注目、マザッチョが雲を描き始めた。

下層正面右の絵第4場面 紀元4世紀の出来事「コンスタンティヌスの夢」。左斜め上からガブリエールがお告げをしている――十字架と共に戦いなさい==。Vision of Constantine   1452-66
Fresco, 329 x 190 cm  San Francesco, Arezzo

構図が大胆である。光の使い方が異なる。夜の風景闇の中の光のコントラストが上手い。質の高い絵である。それ以前の絵画にはなかった様式である。キリスト教徒に光をもたらす意味を含めた。ピエロの「出産の聖母」の映像を比較として見ると良い。ガブリエールの姿を短縮法にして、対角線に働きかける構図。ラファエロがウルビーノからこれを見て参考にした。ローマでの壁画も見ている。1511年以降のラファエロの絵に影響している。ピエロは50年ほど先行していた。ルネッサンスの次の時代につながっていく(先例となった)

下層右側第5場面「ミルヴィオ橋の戦い「battle of Ponte Milvio」」。コンスタンティヌス皇帝はキリスト教を擁護した。どっちつかずの態度をとったマクセンティウスとの戦いにコンスタンティヌスが勝利した戦いの絵。 Constantine’s Victory over Maxentius   1452-66
Fresco, 322 x 764 cm   San Francesco, Arezzo

真ん中にコンスタンチヌスが十字架を持っている。十字架は小さく描いている。キリスト教の増加に対する姿勢のとり方の差を表現。真ん中に蛇行する川を描く。画面下の方、馬の足を多くしっかり描いている。右マクセンティウスが橋を渡って街中に逃げようとして橋が折れて落ちる図 ウッチェロのサンロマーノの戦いと比較(視点が複数)ピエロは視点を統一した(1430頃)

中層正面に第6場面「ユダの拷問」その左側面に第7場面「聖十字架の発見」、ミラノ勅令(313)によるキリスト教の公認が大きく影響している。コンスタンチヌスの母が洗礼を受け、息子の夢のお告げに強く感動。聖十字架を見つけるために、エルサレムまで行く。Finding and Recognition of the True Cross   1452-66
Fresco, 356 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

ユダという男が知っていることを聞き、拷問により白状させる図。 Torture of the Jew   1452-66
Fresco, 356 x 193 cm   San Francesco, Arezzo

井戸に漬ける拷問による男の証言でゴルゴダのVenus神殿から三つの十字架を発見(左半分の構図)その後、葬儀の列で死者生きかえりの奇跡が起こるのを試して三つの中から真の十字架を確認する図(右半分の構図) 死者が生き返る奇跡の構図。エルサレムの街並み きれいな円環構図である。

下層左側 第8場面 「ヘラクレイウスの勝利」話は3世紀ほど後 ペルシャのコスロエス王によって聖十字架が盗まれる(AD615)。ビザンティンの皇帝ヘラクレイウスが戦って取り返す話。ペルシャのコスロエス(ホスロー)2世がイエルサレムで十字架を奪い自分の宮廷にもちこみ、右に十字架、左に鶏を置いて自分は神であると称す。東ローマ皇帝ヘラクレイウスはコスロエス(ホスロー)に戦いを挑み奪い返す。画面右隅にコスロエスが処罰を受けている。Battle between Heraclius and Chosroes   1452-66
Fresco, 329 x 747 cm  San Francesco, Arezzo

AD628の出来事。細部に凄惨な残酷な場面がいくつも描かれている。左右の大場面に戦いの絵を向き合わせている。

上層部左側面に第9場面「取り返した聖十字架をエルサレムに返す図」皇帝が、イエスがしたときと同じように自ら十字架をもって裸足になって町に入るところ。 中心の皇帝のところが剥落している。

Exaltation of the Cross   1452-66
Fresco, 390 x 747 cm   San Francesco, Arezzo

はじめ馬上で通過しようとするが、神の声でキリストの謙虚な姿勢を思い返し、皇帝の身分を示すことなく、裸足で謙虚に返還に臨む。

全体構成

装飾プログラム(図像プログラム)――タイポロジー伝統的に知れているテーマを対比させる。 しかし、この絵では、ピエロ自身が考え出したタイポロジーを表現している。組み合わせが絶妙である――前と後の物語――神学的タイポロジー

  • 第5場面と第8場面 戦いの絵
  • 下層正面左側に「受胎告知」右側に「コンスタンティヌスの夢
  • 中層正面右側に 「聖なる木の埋葬」 ソロモンの指示で木を橋から外し埋葬する図 と左側に「ユダの拷問」 穴がモチーフ

正面の4場面は、中央にかけられるキリストの十字架像に背後の連作を繋げる橋渡しの役割を持っている。ピエロは、キリストの磔刑に深く関係する場面をここに持ってきている。

  • 2面モチーフ・・木の橋に対する礼拝の場面とソロモンとの会見の2場面を建築モチーフの柱で区分

壁画の様式について

  •  上層(1452~55)~中層(55~58)~下層(60~62)  での様式の違い

物語の展開が他と異なり、時代順が入り混じっている。様式の変遷を製作期間10年間(1452~62)の様式の変化としてとらえる。この期間に平行して、ミゼルコルディア同心会との契約で、ボルゴ・サンセポルクロの多翼祭壇画(板絵)を制作している(1445~1462)。時代の移りの中で様式に変化があるかどうか、ミゼルコルディアの多翼祭壇画と対比しながら変化を探ることが面白い。

様式の変遷 

  • 上層 (52~55)

ルネッタの絵――最初(アダムの死)と最後(十字架をエルサレムに返還)旧約聖書と新約聖書で確立している。――多少無理なこじつけも感じられるが・・―― アダムの木と十字架で対象にし、構図的には、絵の中央に木を配して類似させている。

 アダムの死 アダムがセツに遺言を告げるところ

  • 人体表現が未熟で稚い素描力が弱い――後ろ向きの人体の足の力のかけ方、腕の表現、エバの表情など稚拙さが感じられる。
  • 円環構図を取り入れてはいるが、空間の出し方が弱い。

中層 (55~58) 大きく変わっている

 聖木への礼拝と橋への礼拝、ヘレナとシバの女王、エルサレムのヴィーナス神殿とソロモンの神殿、画面のモチーフによる2分割、室内と室外、大理石の模様の描き方(カスターニョ風?)十字架の勝利、構図的には勝利するものが左側にあり左から右への流れを出している。

  • 円環構図がきれいに朝待っている。
  • 人物表現が巧みになっている、半円が、ソロモンを中心にしたものと、シバを中心にしたものへレンを中心にしたもので、夫々しっかり出来ている。
  • 女性像が単純化されている。シバを囲む女性たちが、首を長く頭を卵形にして形態を単純化した。
  • 線遠近法を駆使している。
  • カスターニョと同じように、印象的な模様の大理石の化粧版を背景に使う。
  • 中断期間(58,59)=ローマ滞在壁画制作(喪失)下層 (60~62)側面

下層  ピエロの困難への挑戦する姿勢が現れている。

  • 人物の多さが特徴、人物を多く描くと混乱しやすく困難な構図である。ピエロが敢て挑んだ構図である。多くの人物を画面の奥の方までしっかり描いているが、画面の混沌を避けて上手く整理した。
  • 動きがダイナミックになっている。(上層 預言者 ピエロ以外の手が入っている。)立っている足の安定感がやや弱い、衣の襞が硬い、左側が幼稚、これと「聖木を埋める絵」の目と髪が似ている。

中断期間(58,59)=ローマ滞在壁画制作(喪失)

下層 (60~62)側面

「お告げ」をテーマのタイポロジー。左上から右下への流れ。右の「夢の絵」の質が高く、様式的に最も進んだ表現をしている。後の時代に見本になったといってよい。ラファエロも参照。

まとめ

PIEROの代表作である。

助手は何人か居た。正面の上部の預言者像など、右端はPIEROだが 左は助手の手。‘穴’の二つの絵も助手、シバの左の馬を扱うところも助手。

PIEROの描いた時期は

  • 上層  ~52年
  • 中層  ~55
  • 下層  ~58乃至は62

群像の表現、人物の配置の仕方に時代ごとの変化が見られる。

中の層はきわめて整然と配置されている。

サークル コンバルサチオーネがしっかりと構成されている。主役の二人を中心に半円を作って配置する。建築モチーフとも巧く調和している。1450年頃のPIEROが考えていた様式である。

上層は しっかりした企画はまだ出来ていない。

下層は 非常に多くの人を配置、特徴は、足をしっかりと描くこと。

光の使い方が巧い、コンスタンティヌスの夢の場面で、天使の右肩の光る表現がなんとも美しい。また、テントの光は斬新である。

後にラファエロに影響し、ヴァチカンのヘリオドロスの間に描かれた「ペテロの解放」に反映されている。                        聖十字架物語 終わり

後半から晩年の作品を見る

ミゼルコルディア(Mizericordia)祭壇画1444~1464 サンセポルクロ

(ミゼリコルディア同信会と契約)

Polyptych of the Misericordia  1445-1462
Oil and tempera on panel, base 330 cm, height 273 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

San Sepolcro;聖墳墓の町  キリストが埋葬された、という意味。

町の名前の由来

中世に二人の巡礼者がエルサレムからキリストのお墓の一部を持ってきた。ここは古代ローマからの要所であった。アペニー山脈、アドレア海が近く、戦略的に恵まれた土地。古代ローマの基盤があった。

地理的な条件故に歴史上で運命的な展開があったというようなことは、現地に行って、見て聞いて初めてなるほど!と肯ける所がある。

この絵は1445年に ボルゴ サン セポルクロの街の教会の慈善団体からの依頼で描いたもの。当時既に人気を得ていたピエロにとって、3年以内に完成すること、金地背景にすることという二つの注文条件は、生まれ故郷とはいえ承知しがたいものであった。結局、他の仕事の合間を見て描いたので、完成には20年近くの日を要した。したがって、パネルごとに手を付けた年代が違い、それによって様式が変わってゆくのが見て取れる。絵の場所によって時代が大きく違い、したがって様式が異なっている。「マリアの慈愛」がもっとも時代が新しい。1460~62 右側パネル アンデレとベルナルディーノ ベルナルディーノが1450に列聖。衣の襞の表現、顔の表情が上手くなっている。1452

Sts Sebastian and John the Baptist   1445-
Oil and tempera on panel, 108 x 90 cm

もっとも古い絵がメインパネルの左横の聖セバスティアヌスと洗礼者ヨハネ像。(上図)

聖セバスティアヌスの裸体像は、優雅さにおいては劣るものの写実性においてはマザッチョの裸体像に近い。

The Expulsion from the Garden of Eden   1426-27
Fresco, 208 x 88 cm
Cappella Brancacci, Santa Maria del Carmine, Florence

by MASACCIO

Polyptych of the Misericordia: Madonna of Mercy 1460-62
Oil and tempera on panel, 134 x 91 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

最後に描かれた絵が中央パネルの慈愛の聖母像(Madonna della Misericordia)である。依頼者からの厳しい条件である金地背景と新しい時代の様式としてピエロが望む写実描写との矛盾を解決する工夫として、ピエロは聖母が広げたマントの中に写実空間を作り、祭壇画を依頼した同信会の会員たちが輪になって膝まづく姿を写実で表現した。あたかも聖母のマントが教会のアプスのような役割をしている。聖母マリアは正面を向いて立ちその背景は依頼者の言う通り金地背景にした。ピエロの独特の慈愛の聖母像である。

ペルージアの「サンタントニア祭壇画」

「サンタントニオの祭壇画」 

Pieroが 女子修道院に描いた。記録はなかったが、最近記録を発見し、1460年に支払いを受けたことがわかった。

中央の部分 背景が単なる金地ではなく、建築モチーフがある。スペインの画家がやっていた。ピエロはスペインの画家とは1458~59にローマで接触している。Arezzoやミゼルコルディア以降の作品である。

Polyptych of St Anthony   c. 1460
Panel, 338 x 230 cm
Galleria Nazionale dell’Umbria, Perugia

 聖母子後輪がしっかり描かれる、頭の髪のベールが映っているなど写実性の追及が始まっている証、光を意識している、暗から明への動き。

真ん中が特に質が高く、周囲が劣ることから、ピエロは中央のみを制作し、周囲は助手が描いたと推測される。

上部の「受胎告知」 ピエロ 60年代後半か?中の建物の遠近法への拘りが特徴で、柱の数がやたらと多い(10本)。光が計算されて使われている。光と陰の扱い方がすばらしい。Pieroの特徴の一つに為っている。ただ、建物にこだわったあまり、見るものの目が建物に行き過ぎるきらいが出た感じはする?

特徴

単純形態化が消えてより写実的になってくる。

50年代の作品の単純化されどっしりしたモニュメンタルな感じがこの絵には無い、フランドル的な要素が強くなってくる。光輪に厚みがある。

聖母の頭の部分の光輪には頭が反射している。この頃から始まるレオナルド的な光輪は無い。

プレデッラ

フランシスコの奇蹟の物語の聖痕拝受、パドバの聖アントニオの奇蹟、ハンガリーの聖エリザベスの奇蹟(井戸に落ちた男の子を助け出す)この3枚は、上部の側パネルの聖人と対応している。

「バティスタとモンテフェルトロ公の肖像」

Portraits of Federico da Montefeltro and His Wife Battista Sforza  1465-66
Tempera on panel, 47 x 33 cm (each)
Galleria degli Uffizi, Florence

モンテフェルトロ公が42^3才の頃の肖像で、背景にウルビーノの街の様子も描く。

モンテフェルトロ公は、1444にウルビーノ公となり’74にローマ教皇からドーカの称号を受ける。ドーカ=「総督」とか「君主」の意味

ピエロは、ウルビーノに滞在しフランドルの画家や数学者と交流をして刺激を受けたといわれる。

モンテフェルトロ公は元々傭兵隊長であった。そのときの顔の怪我で左側しか見せない。

世俗の君主の肖像画の始まりの時期。リミニ公、シジスモンド・マラテスタなどが残る。

フランドルでは1420~30頃から始まった。イタリアは1450頃からである。イタリアの画家が肖像画で手本にしたのは、ローマ時代のコインからの参照である。

初期には、プロフィールを描く、濃い色で周りを塗りつぶすのが特徴であった。’60頃から変化が現れた。後ろを明るくし、背景に窓から風景を見下ろす様式が使われた。70年代にはやや正面を向いた構図が出る。

妃の肖像の背景は同じマルケ州の田園風景である。40年代は背景に関心が薄い。

肖像画の裏の絵に注目(reverse sides)

(reverse sides)

プラトー・タイプの構図を用いる画面の中位に小高い丘を配置して、その先に遠景の景色を書いて、中間の景色を省略する手法–。小さい板で、深い奥行きまで表現している。

参考として、「聖ヒエロニムスと帰依者」を比較(1445^48)プラトー・タイプは使われていない。

50年代までは、モチーフの大きさの違いで空間を表現した。60年代以降は、空気遠近法すなわち色調の濃いものから次第に淡い色にしていくことで遠くを表現した。プラトー・タイプ、空気遠近法ともフランドルから吸収したもの。

「聖母子と聖人達、モンテフェルトロ」74年以前 ミラノ ブレラ美術館

Madonna and Child with Saints (Montefeltro Altarpiece)
1472-74   Oil and tempera on panel, 248 x 170 cm
Pinacoteca di Brera, Milan

モンテフェルトロが「ドーカ(伯爵)」になる前の絵、キリストの姿、表現に特徴、眠れる幼児キリストは深い哀悼を象徴する。赤い珊瑚の首輪は魔よけの徴(ギリシャ神話に起源)でフランドル的要素。ピエロは、ウルビーノでフランドルの影響を受け、60年代以降の仕事に反映している。フィリッポ・リッピにはフランドルの影響がより強く出る。

建物をしっかり描くのはフィレンツェ流ルネッサンスの特徴。ルネッサンス式建物と人物との大きさのバランスがよく取られたしっかりと計算された遠近法の技法である。やわらかい光が神聖な場面にふさわしい明るい天上の雰囲気をかもし出す。頭上の(駝鳥の)卵はマリアの処女性と、生命の復活の象徴。公の妃バティスタは女児ばかり生んでいたが、やっと男児を出産した後すぐに亡くなった (1472)。ピエロは恩人モンテフェルトロの妻への深い哀悼の気持ちを「眠れる幼児キリスト」のエンジェル・ピエタ的な犠牲に重ね合わせて表現している。この無念の死は祈りにより鎮められ、駝鳥の卵が復活の象徴として思いを託されている。

幾何学研究の一人者としての能力と創造力豊かな画家の素質とが、張り詰めた緊張感と共に一つの主題の中に融合し、深い信仰心が凝縮された名品である。

洗礼者ヨハネ  聖オウグスティヌスの祭壇画のパネル

NYのフリック・コレクションのヨハネの板絵 4人の聖人のパネルの一枚。重い本を支える手の描写は写実が進んでいる、一方で後輪がしっかり描かれている。

Polyptych of St Augustine: St John the Evangelist  c. 1460
Tempera on panel, 132 x 58 cm
Frick Collection, New York

「キリストの復活」  全く記録が残っていない。

元元市庁舎であった。裁判を行ったところ。別の部屋にあったものを市の美術館に持ってきた。

年代が不明 1450年代後半から1460年代前半くらいの作品。

Resurrection  ( 1458-65)
Mural in fresco and tempera, 225 x 200 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

右下の兵士が寄りかかっている石が、‘聖なる墳墓’(サン セポルクロ)を表現しているかもしれない。

左側の木が枯れ木であるが右側の木は繁っている。左から右へ復活の意味を込めている。

左から2番目の兵士は、‘PIEROの自画像’という説もある。

右の兵士が傾けて置かれている、頭が手前に出てくる。短縮法で奥行きを表現するための工夫と思われる。

カスターニョ サンタアポリナーレ フィレンツェ 1447年に似ている。Resurrection (detail=部分)  1447  Fresco
Sant’Apollonia, Florence

1439年にフィレンツェにいる。ドメニコ ベネツィアーノがフィレンツェで仕事をしていた。カスターニョは、ドメニコの弟子という関係があり影響が出ているかもしれない。

イエスのピンクの衣は、Niccolo di Segna 1348年 のイメージ

絵にはフレームを作っている。人工的な柱2本に挟まれたいるのはその工夫。上と下にも鴨居と台を描いた。 修復がされていない。

「Madonna del Parto」  出産の聖母 

Santa Maria a Momentana 教会にあった。

サンセポルクロの近郊の小高い丘の上の城塞都市としてMonterchiの街はある。 Pieroのお母さんの出身地 元元あったところに戻ってきてここにある。製作された年ははっきりしない。1458年頃

Pieroはローマに居たが、1459年11月母が死んだので戻った。 ‘60年頃母を想いながら描いたものと思われる。

Pieroは、その当時出産により亡くなる人が多いので安産の祈願を込めている。

天蓋の模様に柘榴が描かれている、これは受難の象徴ではあるがもう一つ増殖の意味もある。モンテルキの繁栄を願って柘榴を描いた。

聖母のポーズは世俗的に描かれている。二人の天使のポーズは全く同じでカルトーネは同じである。(裏返した)あまり好まれない手法をあえて使った。二人の天使のポーズと表情がなんとも誇らしげである。

モンテルキの妊婦の安産を祈ったもの。モンテルキでは妊婦たちが今でも礼拝に訪れるという。この作品は礼拝の対象にもなっている絵。

天蓋の模様にはセッコ技法も併用されている。右側はそのセッコがはがれている。聖母の目は左右非対称。

  • 「ゼニガリアの聖母」(未完)

 Madonna of Senigallia  c. 1470
Panel, 61 x 53 cm
Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

光の指し方が上手い。孔雀の血:不死の象徴 永遠性を表現する

 

「キリストの降誕」75 最晩年の作品 空気遠近法

Nativity   1470-75
Oil on poplar panel, 124 x 123 cm
National Gallery, London

ピエロ デッラ フランチェスコ (了)

初期ルネサンス絵画の展開(その三)を終わる。(その四)では、フィリッポ リッピを観る。

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ヴァチカン・システーナ礼拝堂の天井装飾

システーナ礼拝堂 とは?

礼拝堂の大きさは凡そ 13M*40M( *20M(高さ))

礼拝堂は実は三階建てで、一階部分がもっとも大きく、実用的な窓がはめ込まれた壁面と円天井、そしてヴァチカン宮殿へと通じる出入り口で構成されているという。

システィーナ礼拝堂のもっとも重要な階層といえるのが二階部分で、奥行き40.9m、幅13.4mで、これは『旧約聖書』の『列王記』6章にあるソロモン王の神殿の比率と同じである。天井は筒形の円天井で高さは20.7m、壁両側面にはそれぞれ6枚の細長いアーチ状の窓があり、片端面には2枚の窓がある。(三階部分は衛士の控え室となっているらしい。)

重要な2階部分は、側壁と天井と正面祭壇、背面と周囲の壁一面にフレスコ画の装飾がある。

その装飾は、3つの異なる制作時代による3区分の構成からなっている。

  1. 側壁 中段/下段(81^82)  フィレンツェの画家4人が中心
  2. 天井画/側壁最上部(08~12) ミケランジェロ 
  3. 祭壇画(40前後)       ミケランジェロ

システーナ礼拝堂のあるヴァチカンの位置

今回の連作の場所は、フィレンツェ近郊から離れてローマである。ローマ市の中心に近いところテベレ川の外側にヴァチカンはある。

ヴァチカンのサン ピエトロ寺院はブラマンテの設計による。右奥にシステーナ礼拝堂が見える。

システーナ礼拝堂(The Sistine Chapel )は 門閥ローヴレ家出身のシスト4世( Sixtus IV della Rovere)によって1475年から 1483年に建てられた。簡素な外観で、建築様式上の特徴も装飾もなく、建てられた当初も現在とほぼ同じ外観であったという。西側も上層部の窓は2面あるが行列用の入り口はない。

システーナ礼拝堂の内部

 

システーナ礼拝堂内部全体の写真

天井画はミケランジェロが弟子をほとんど使わずに、1508~1512の期間で一人で描きあげた。

正面は同じくミケランジェロが描いた最後の審判で 1535~1541年の期間で完成した。

下の写真は祭壇と反対の西側を見た外観。

壁画の鑑賞をする観光客は図の赤い線に沿って右上の入り口から入って下右側の出口から去ることになっている。

天井装飾の依頼の経緯など

ミケランジェロの時代には、礼拝堂の装飾はすでに出来ていた。天井には星空が描かれていた。側壁最上部にもペルジーノらの絵があった。

これらを壊して装飾をやり直すことが、ミケランジェロに与えられたミッション。:::天井画と側壁最上部が対象。

東祭壇側上層部には西側と同じ二面の窓があったことがわかる。これは後にミケランジェロによって「最後の審判」を装飾する際に取り壊された。

シスト4世の甥であるユリウス2世がミケランジェロに依頼した。   1508/09年開始して1512年には完成した。

天井画装飾の作者のこと

ミケランジェロ・ブオナローティ (1475~1564)

ジョルジョ・ヴァザーリ (1511~1574)の「美術家列伝」 1550(1568年改訂)とア スカニオ・コンディヴィ(1525~1574)の「ミケランジェロ伝」の二つの伝記がある。

ミケランジェロは「貴族の家系 で、カノッサ伯の子孫」とコンデヴィは描いた(実際は違う)。

ミケランジェロの初期 (もともと彫刻家である)

  • 「ピエタ」  サンピエトロ大聖堂内にある。
  • 「バッカス」 ・・・ローマ時代の神(異教の神を主題にした)
  • 「ダビデ」  ・・・フィレンツェに戻った後

(注)「聖家族」はジャンルが異なる

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年表の確認

  • 88ギルランダイオ工房(13歳頃) サンタマリア・ノベッラ マリア伝を描いていた(手伝った?)
  • 94Venezia、Bolognaに逃げる。フランス王シャルル8世の侵攻を避けた。
    • Veneziaでは作品を作らない
    • Bolognaには3体の彫刻が残っている・・祭壇画の中の装飾
  • 96ローマに行く・・・・5年滞在、「ピエタ」と「バッカス」を制作
  • 1502フィレンツェが共和国宣言、フィレンツェに戻り「ダビデ」を作る
  • 08ローマに再び行く   —-ここから様式が変わり始める
  • 08~12システーナ礼拝堂天井画装飾・・・・・この投稿のテーマ

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天井を一望する写真

The ceiling   1508-12   Fresco    Cappella Sistina, Vatican

天井画の装飾について

主題・・・・・4つのグループに分けられる。一瞥してとても複雑に見える装飾もこの4つに区分してみてゆくと、内容が容易に理解できる

天井画全景 と主題による四区分の色分けを下に図示する。

  1. 中央を横断している大場面4つ、小場面5つの装飾(グレーの網掛け)の主題が『旧約聖書』:(全32冊)のうち「創世記」の連作形式(Cycle(Cicle))
  2. 四隅の絵(グリーンの網掛)が旧約聖書中の神によるユダヤ人の救済物語
  3. 周囲の12場面の絵(ブルーの網掛)が預言者と巫女の肖像
  4. 8か所の三角(スパンドル)と14か所の半円形(ルネッタ)の絵(網掛け無し)がマタイ伝によるキリストの先祖たちの肖像。

 

創世記の物語 九場面の説明

Ⅰ 中央を横断している 『旧約聖書』:(全32冊)のうち「創世記」の中の物語を連作形式(Cycle、(伊)Cicle) 3場面ずつの3区分の物語

  1.  天地創造  1章:神による7日間の創造  1~3場面
  2.  アダムとエバ 2章、3章         4~6場面
  3.  ノア     6章~9章         7~9場面

連作は伝統的に祭壇から入り口へ向って展開することを基本としている。ミケランジェロもこの伝統を採用している。したがって、製作年代の順は物語の展開の順とは逆になっている。すなわち、3.ノア から描き始めて、1.天地創造で完成となる。

物語は主祭壇から後陣に向かって下記の順番になっている。製作はこの逆順。

  • 天地創造 『光と闇の分離』
  • 天地創造 『太陽、月、植物の創造』
  • 天地創造 『大地と水の分離』
  • アダムとエバ 『アダムの創造』
  • アダムとエバ 『エヴァの創造』
  • アダムとエバ 『原罪と楽園追放』
  • ノア   『ノアの燔祭』
  • ノア   『大洪水』
  • ノア   『ノアの泥酔』

ミケランジェロは天井画(08~12)を描くにあたって、既に描かれていた側壁画(81^82)の内容を十分に考慮した。物語の順番と絵の配置が入れ違っている部分があるのはそうした絵と絵の関係を配慮したものと考えられている。

 

個々の場面の主題を物語順に説明する。

.天地創造   祭壇から最初の3場面::::7日間の天地創造

写真の下から上に (第3場面は切れて次の写真の一番下にある)

  • 1場面  光と闇の分離(第1日目の創造)
  • 第2場面 大地(植物)の創造と太陽と月(天体)の創造(第3日目と4日目の創造)    神が二人描かれている・・異時同図
  • 第3場面(この写真では切れている) 水の層を上下に分けて空気の層を創造(第2日目の創造)  カオス状態(=水中)を分離して生存の世界(=空気の層)を創造した

この順番が入れ替わった理由は、ミケランジェロが既にある側壁の構成に出来るだけ合わせた。

5,6,7日目が省かれている・・鳥の創造、獣の創造、安息を省いた。

b.アダムとエバ 

写真は下から上に (この写真の一番下は第3場面が来ている)

  • 第4場面 アダムの創造 アダムに神が息を吹き込んだ 最も美しい絵
  • 第5場面 エバの創造 神は、アダムの肋骨を使ってエバを創る
  • 第6場面 原罪と楽園追放 アダムとエバは、神から、この木の実を食べてはならないと言われていた。蛇の誘いでエバが知恵の木の実を食べる、アダムにも勧める。
  • 神との約束を破ったことに神が怒り、命の木を食べてしまう前に楽園を追放する。

c.ノア   話が大きく飛ぶ・・4章5章が省かれる(息子のカイン、アベルのことが省略)

構成が8場面を中心に組み立てられている、8――7――9の順番となる(写真の一番下が第7場面)

  • 第8場面 予言の通り大洪水で人々を一掃する
  • 第7場面 ノアの家族8人と動物たち 神への感謝のため、祭壇に羊を置いて焼く。神はそれを見て天から虹を降ろして、2度とこのようなことをしないと約束する  「ノアの橎祭」
  • 第9場面 ノアの家族の話  ノアはワインも造り、自分で飲みすぎて眠ってしまう。右端の息子ハムがノアを見て嘲笑する。ヤペテとセムは見ないようにして布をかけてやる。後でハムの嘲笑を聞いたノアは、ハムの子カナンに呪いをかける。

   改めて創世記の装飾の位置関係を確認しておく。

  • .天地創造 祭壇から最初の3場面::::7日間の天地創造
  • b.アダムとエバ 
  • c.ノア  話が大きく飛ぶ・・4章5章が省かれる(カイン、アベルのことが省略)構  成が8場面を中心に組み立てられている。

九場面夫々を構成や図像を考えながら詳しく見てゆく

1場面  光と闇の分離(第1日目の創造).

神の右手が黒く塗りつぶされ、一方左手は白い雲が光を受けて明るく描き分けられている。従来キリスト教では右手にある(いる)ことと左手では重要な意味の違いがある。この絵では左手に最も重要な「光」を持ってきているが、これは従来の考えと違っている点である。

ミケランジェロは、全体の構図の必要性から、この点で伝統に従わなかった。身体のひねり、上半身の大きな動きなど忙しく働く様子が劇的な図像である。

奇数場面には回りに裸体の青年像が置かれている。 意味は分かっていない;;4つの主要元素/天使/人間の気質/を表す;などいろいろな説がある。 決定付ける特徴、象徴などが描かれていない。

第2場面 大地(植物)の創造と太陽と月(天体)の創造(第3日目と4日目の創造)

神が二人描かれている・・異時同図 左側奥の方から手前に飛び出してくる神の飛翔する図像で、左側手前から奥の方へ飛び去っていく姿の神の像。二人の神を短縮技法を駆使して大きく表現し、休みなく動いて創造している神を動的に描いている。

第3場面 水の層を上下に分けて空気の層を創造(第2日目の創造)

カオス状態(=水中)を分離して生存の世界(=空気の層)を創造した。天使と共に動き回る神の姿を短縮法で描き、大きく腕を広げながら奥から手前に飛び出してくる様子がすこぶる動的である。

この順番が入れ替わった理由は、既にある側壁の構成にミケランジェロが出来るだけ合わせた。

b.アダムとエバ 

第4場面 アダムの創造 

アダムに神が息を吹き込んだ瞬間を描いた。 最も美しい絵。ヘブライ語のアダマ(=土)からアダムを作り、息を吹き込むとアダムの上半身から生気が生まれる。差し出した指と指が今まさに接して生命を誕生させる瞬間をダイナミックに描いている。地平線を省き創造する神とアダムの二つの人物像に焦点を絞って描いている。しかし、構図的には、神とアダムが両側に対峙していて、左右のバランスはしっかりと保っている。

最も美しい絵・・天井画の様式を考える際にポイントになる絵である。

 

第5場面 エバの創造

神は、アダムの行動を見守り、生き物たちの中から誰を伴侶に選ぶか見ていたが、アダムを現存の中からは選ばなかったので、アダムの肋骨を使ってエバを創る。アダムを深い眠りにつかせて、その肋骨を取り出して創った。     伝統的な図像ではアダムの脇からじかにエバが出てくる。この絵も伝統に従っている。

第6場面 原罪と楽園追放

アダムとエバは、神からこの木の実を食べてはならないと言われていた。

生き物の中で最も賢いといわれる蛇の誘いでエバが知恵の木の実を食べる、アダムにも勧める。(りんごの木とは聖書には書かれていない)

知恵の木を食べたことで知恵がついた、裸に気づく、恥ずかしさが出て、無花果の葉で隠す。

神との約束を破ったことに神が怒り、命の木を食べてしまう前に楽園を追放する。 追放にあたり、原罪に対して罰を与えた。蛇は生涯地を這い回る。アダムは労働の苦しみ、エバは産みの苦しみを与えられた。

聖書では、神は追放にあたり毛皮で服を作ってやり楽園の門まで見送った。門に炎の剣を置いた。 この絵では、神が炎の剣で追い出している。

人物像は主役のみに絞っているし、風景も単純化している。しかし、地平線をしっかりと描き入れて従来のバランスのある図像を引き継いでいる。

c.ノアの物語

話が大きく飛ぶ・・4章5章が省かれる(カイン、アベルのことが省略された)

神は‘産めよ増えよ‘で増えた人々を見ていた。はじめに思ったことと違う、そこで一掃することに決めた。

唯一正しいノアに告げる。箱舟を作って備えるように詳しい作り方も伝授した。

構成が8場面を中心に組み立てられている、8――7――9の順番

第8場面 ノアの洪水  予言の通り大洪水で人々を一掃する。

箱舟を奥に一番小さく配置した。伝統と異なる。

時間を少し前に戻して、洪水で逃げ惑う人々を描いた。

4つのグループ群像で表現している。

第7場面 「ノアの橎祭」 

ノアの家族  8人と動物たち。神への感謝のため、祭壇に羊を置いて焼く。神はそれを見て天から虹を降ろして、2度とこのようなことをしないと約束する。

第9場面 「ノアの泥酔」 ノアの家族の話

ノアは自分で地を耕し食べ物を作る。

ワインも造り、自分で飲みすぎて眠ってしまう。息子たち3人(ハムとヤペテとセム)がそれを見る。右端のハムがノアを見て嘲笑する。ヤペテとセムは見ないようにして布をかけてやる。

後でハムの嘲笑を聞いたノアは、ハムの子カナンに呪いをかける。

大場面で描いているのが、第2場面と第4場面と第6場面及び第8場面。主題の表現上で重要な意味がある4場面の絵である。

もう一つは、側壁の連作との関係で順番を入れ替えた。ミケランジェロは天井画(08~12)を描くにあたって、既に描かれていた側壁画(81^82)の内容を十分に考慮した。

 

四角のペンデンティブの絵について

 第2グループ  建物の四隅(ペンデンティブ)の絵

パンダーティック=(仏)宙ぶらりんの意味

旧約聖書中の四場面を構成したものだが連作ではない。

ユダヤ人の歴史の中からとった物語。神によるユダヤ人救済の話。ユダヤ人は、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなどから迫害された歴史がある。

ダビデとゴリアテ  ダビデ;BC10c頃のイスラエルの王2代目 初めて王国を築いた。

ペリシテ人の大将ゴリアテを投石器一つで挑み、相手の油断を誘い、首を切る。いずれダビデの子孫から救済者が出る・・メシヤ(ギリシャ語でキリスト)イエスはダビデの子孫である。

ユデイトとホロフェルネス

ベツレヤ(ユダヤの町)がアッシリアに包囲されていた。ユデイトは知恵を働かせて、アッシリアの王、ホロフェルネスの館に入り込み油断を見て寝首を取る。いずれも神が後ろにいて救済をしたという考え。

③反対側 青銅の蛇 モーセの「出エジプト記」の中から

モーゼの時代、ユダヤ人はエジプトで奴隷として働いていた。カナンに向う途中の道で苦難から民が不満を言う。神が怒り毒蛇を送り蝦ませる。毒に苦しみ反省をする民をモーセが神にとりなす。

青銅の蛇を作り毒を消す。反省をすれば救済されるという寓意である。

④ 「エステル記」ハマンの処刑  ペルシャに移住していたときの話

ハシュエロス王に仕える長官ハマンはユダヤ人抹殺の計画を作る。エステルは知恵と勇気でハマンをハシュエロス王に直訴し、王がハマンを処刑する。

Ⅲ 第3グループ 預言者と巫女

礼拝堂の左右それぞれ5箇所と後陣側と主祭壇側それぞれ1箇所にもペンデンティヴ部分がある。

第1グループの周囲にあたるこの位置に、預言者たちと巫女たち(異教徒)が置かれた。預言者と巫女が交互に配置されている。

Zechariah   1509  Fresco, 360 x 390 cm  Cappella Sistina, Vatican ゼカリア 後塵側  祭壇側のヨナと向き合う位置

主祭壇側には預言者ヨナが、後陣側には預言者ゼカリヤがそれぞれ描かれている。残りの10名は左右に分かれて男女交互に描かれており、主祭壇上部のヨナから時計回りに以下の人物像が描かれている。

巫女たちは聖書には出てこない。敢えて女性を描くために、ギリシャの巫女を入れる。ミケランジェロの創意であり彼の人間味と信念が読み取れる。

  • 『ヨナ』 – 主祭壇上部
  • 『エレミヤ』
  • 『ペルシアの巫女』 (Persian Sibyl)
  • 『エゼキエル』
  • 『エリュトレイアの巫女』 (Erythraean Sibyl)
  • 『ヨエル』
  • 『ゼカリヤ』 – 後陣上部
  • 『デルフォイの巫女』 (Delphic Sibyl)
  • 『イザヤ』
  • 『クエマの巫女』 (Cumaean Sibyl)
  • 『ダニエル』
  • 『リビアの巫女』 (Libyan Sibyl)

 Jonah  1511  Fresco, 400 x 380 cm  Cappella Sistina, Vatican     ヨナ 祭壇側上部   後陣側 ゼカリアと向き合う位置

 The Persian Sibyl  1511  Fresco, 400 x 380 cm  Cappella Sistina, Vatican    ペルシャの巫女

Ezekiel (detail)  1510  Fresco  Cappella Sistina, Vatican      預言者エゼキエル

   The Cumaean Sibyl  1510  Fresco, 375 x 380 cm
Cappella Sistina, Vatican     クエマの巫女

 Isaiah  1509  Fresco, 365 x 380 cm  Cappella Sistina, Vatican    預言者イザヤ

   The Libyan Sibyl  1511  Fresco, 395 x 380 cm
Cappella Sistina, Vatican    リビアの巫女

  Joel  1509  Fresco, 355 x 380 cm  Cappella Sistina, Vatican     預言者 ヨエル

   The Delphic Sibyl  1509  Fresco, 350 x 380 cm
Cappella Sistina, Vatican   デルファイの巫女    

各像の足元にプットー(幼い天使)が彩色大理石板を支えているのが絵描かれていて、そこに刻まれた銘文によって誰が描かれているのかを識別することができる。

なお、西側礼拝堂への入り口の上の方、ザカリアの銘板の下には、ローブレ家の紋章に教皇の三重冠と12個の金の実を付けた樫の木を彫り込んだ楯が掛けられていて、入り口を入って振り返った上部に位置しシステーナ礼拝堂を創立した二人のローブレ家出身の教皇を記念している。

また預言者像の両脇上部、裸体の青年像が座る柱の柱頭を支える部分には天使(putti)が描かれている。製作した時期により様々なポーズがある。

 

Ⅳ 第4グループ  キリストの先祖たち (マタイ伝) 

三角形(スパンドル)8か所と半円形(ルネッタ)14か所がある。

ヨセフの血はイエスには流れていないのだから、先祖というには矛盾がある。ユダヤは男系社会であり、聖書にはいろいろ矛盾はある。

   家族の絆のいろいろな形が見えてほほえましい絵の数々である。ミケランジェロの豊かな人間性が見える良い絵の一覧である。

 

救済物語の上部の四隅の柱の隙間にもモニュメント的な装飾がしてある。

男の若者の裸体像

奇数場面には回りに裸体の青年像が置かれている。

意味は分かっていない;;4つの主要元素/天使/人間の気質/を表すなどいろいろな説がある。決定付ける特徴、象徴などが描かれていない。

肉体表現がすぐれていて美しく、ラファエロはじめ後に続く画家たちに影響を与えた。

製作の時期と様式について

ミケランジェロは ユリウス2世から 1505に依頼されるが、暫らく逡巡したが、結局 1508/夏頃~1512の期間で制作した。

1506年にローマ市内の地下から古代ギリシャの彫刻《ロ―時代の正確な大理石模刻)ラオコーンが発掘され、大きな衝撃を与えた。ミケランジェロはこの彫刻をよく観察したといわれる。

1508/5に教皇庁から入金がある、という記録がある。4年間かかりっぱなしではなく、途中(10/夏~11/夏)中断期間があった。

ミケランジェロ研究者;トルナイ氏は、様式を研究する上で、製作の  時期を二つに分けた。 前期/後期出特徴を捉える。

その後、 前期が更に二つに分けられるようになった、

すなわち、 前期前半・前期後半

09/冬に中断している。気候と絵の具の状態の関係などで問題の解決の必要性が?あったのではないかと思われている。

現在では、全体を3期に分けて特徴を見るのが通常となっている。

  • 前期;;1508~1510  前半 08/夏~09/秋
  •                後半 10/初春~10夏
  • 後期;;1511~1512

様式を見るための抽出されるべき時代区分とその画面について

Ⅰ期 《大洪水》

Ⅱ期 《楽園追放》/ 《アダムの創造》は意見が分かれる→Ⅱ期orⅢ期

Ⅲ期 《天体の創造》

 

側壁画とのタイポロジー 

第6場面 「コラン、ダタン、アブラムの懲罰」 ボッテチェリ

モーセは、荒野の旅を続けていく。大変な苦難の旅で、民からの救済の訴えを聞いては、神の救いにより一つ一つの困難を乗り越えながら、延々と旅を続ける。

民は不満を常に言う。(こんなことならエジプトを出るんじゃなかった)など。モーセが神の声を聞いて、アアロンがそれを民に伝える。不満を宥める役割

画面の右側、コラ、ダタン、アブラムがモーセに反乱し、石を持ってモーセを攻める。ヨシヤが防いでいる。アーロンの役割を私たちに替わりにやらせろと主張する。

画面の中央 モーセは、祭司とは香炉を上手く振ることが出来る人でないといけない。上手く振れた人にその役割を与えようと提案。皆が香炉を振っている場面。アーロンは悠々と誇らしげに振っている。アーロンは、三重冠風の帽子を冠っているが、ローマ法王を象徴しているといわれている

他のものは香炉振りが上手くいかずに焼けどを負ってしまう。後景の凱旋門の銘には、次の内容が書かれている。「祭司という職業は、アアロンのように選ばれたもののみが出来るのであって、誰でも出来るものではない」。「祭司」を「ローマ法王」と置き換えて読むと、時の法王シスト4世を称えている銘となる

左端は、反逆への報いの画面。地が割れて、反逆者たちが地中に吸い込まれている。3,000人くらいの大勢が地中に落ちた。ユダヤ人でも神に従わないものは、地中に落ちるという戒めである。

第6場面「ペテロへの天国の鍵の授与」 ペルジーノ

Christ Handing the Keys to St. Peter 1481-82 Fresco, 335 x 550 cm

イエスは、自分は処刑される身であるが、その後、人々を天国へ導きなさい、と伝えてペテロに鍵を渡す。

ペテロは教会を建てる。それがこのサン・ピエトロ聖堂(ヴァティカン)

キリスト教会のルーツを語っている。ローマ法王に関する全ての起源として非常に重要な位置づけである。ヴァティカンの礼拝堂に描かれていることに重要な意味がある。

描かれている凱旋門の銘版の意味は「シスト4世はソロモンに匹敵する法王である」とある。ソロモンはイスラエルに神殿を建てた。

シスト4世がペテロから続くローマ法王の系譜上にある」ことを言いたかった。

奥の景の2場面 (人が踊っているように見えるところ)キリストに対する反逆者のことを描いている。

左は「貢の銭」 キリストとユダヤの兵士達。ユダヤはローマの植民地であり、税金を払っていることに不満を言うユダヤ兵。キリストは、かれらの稼いだコインを見せてもらう。コインの裏に刻まれたカエサルの肖像を見て、「カエサルのものはカエサルに」といって、上手くはぐらかす

右側キリストと人々。「律法は完全ではない」というキリストに疑いを持つものたちが石を持て殴りかかる図。

⑦.G : g  法の伝達

最後の晩餐は、伝達の儀式、聖餐式(パンはキリストの肉、ワインはキリストの血)キリストの肉と血を弟子たちに入れた。  死を認識し、福音を遺言として、引き継いでくれと伝えた。

モーセは、カナンに到着し、モラブの地でカナンに入る際の「法の細則」を伝えた。そして、後継者=ヨシヤを指名し、神から授かった杖をヨシヤに渡す。そして死の場面。

⑥.F : f  始祖への反逆

キリスト伝では、天国への鍵をペテロに渡す・・ローマ法王のルーツを描いた。銘文には「イエスキリストへの反逆」とある。絵の中心にはローマ教皇のルーツを描いて反逆の場面は後景に小さく二つ描いた。

モーセ伝では明確に反逆の場面を3つ中心に描いた。キリストでは反逆を弱く表現して、モーセ伝のタイポロジーで反逆の事実が伝わるようにした。

ミケランジェロは側壁画のタイポロジーの意味を出来る限り活かして天井画の創世記の連作と関連付けようと努めている。概要をまとめると下記の表のようになる。

天井画の配置相互の位置関係

第四グループキリストの先祖たちは、第7代までは正面に描かれ、その後左右にジグザグに進む。タイポロジーとして共通化したテーマを、天井画にも配慮し、側壁との三角形を構成しようとした。ラティン語の銘文が重要な意味を持つ。下記によりその訳をみる。

  • ①.A :   a  始祖の誕生
  • ②.B : b  再生のための儀式
  • ③. C : c  始祖に与えられた試練
  • ④.D : d  始祖に同意するものたちの集い
  • ⑤.E : e  法の公布
  • ⑥.F : f  始祖への反逆

もう一つ、「選ばれたもの」が側壁画とのタイポロジーのテーマである。

キリストに仕えるペテロと、モーセに仕えるアーロンが対称。 司祭(教会)は選ばれたものがやる

アーロンが三重冠を冠っている。キリスト教の教皇の姿を表現し、その意識を信仰する者たちに伝える意図がある。

キリストの死の場面とモーセの死の場面が絵の中に占める位置で対置している。

古代彫刻の発掘が様式が変化するきっかけに

15世紀末から16世紀の初め、すなわちミケランジェロの活躍の時代に、芸術表現上に影響を与える大きな出来事があった。古代ギリシャ彫刻(ローマ時代の正確な大理石摸刻)の相次ぐ発掘である。ローマ市民は、千五百年も前に到達した完璧な写実表現を目の当たりにすることになる。それを超える芸術作品の創造に対するミケランジェロへの期待は大きかった。

様式を見るための抽出される4画面とその時代区分

  • Ⅰ期 《大洪水》
  • Ⅱ期 《楽園追放》 《アダムの創造》は意見が分かれる→Ⅱ期orⅢ期
  • Ⅲ期 《天体の創造》

完璧な古代彫刻の発掘の後で製作されたミケランジェロの《大洪水》は、それまでのフィレンツェの盛期ルネサンスの画家たちの様式とはどのように変わったか?側壁画との違いは何か?

調和の点を左右対称にはしていない→ジグザグに配置している、しかしバランスは大きくは崩れていない。動きを表現する工夫が込められている。

登場人物のポーズは激しい動きを表現している。ペルジーノやギルランダイオと違いが鮮明になっている。画面に「動」を与えるという意図が見える。ドラマ性を強調している。

空間性(イリュージョン);(高い天井という特性も考慮)空間を作ろうとする工夫を捨ててはいない。メインのモチーフを後ろに置いて観る人の目が行くようにいざなう工夫がある。しかし、合理的で完全な空間を作ることには熱心ではない。

大洪水を描いた時点では、伝統的な表現とつながりを保ちながらも、聖書にも書かれていないような人間の行動を表現し、彼らの作り出すドラマを描こうとする。人間の作り出すドラマを描くことに主眼を置いて、先生とは違う描き方をしようとする自覚があったと思われる。

弱点は何か?;細かすぎて観る人に良く分からない。20mの距離の影響を想定できていない。自分の意図を見る人に伝えきれない失望。足場を外して下から見て初めて自覚した?

《アダムの創造》

《大洪水》との違いを把握する。 このことがシステーナの様式を理解するポイントである。

  • 登場人物が大きくなった。主役に集中しそれ以外をあまり登場させない
  • 奥行きがほとんどなくなった。登場人物を絞り込んで手前に大きく描く。奥行きは伝わらない
  • ドラマを作ろうという意図。フィレンツェ洗礼堂のモザイク画《アダムの創造》の伝統的様式と比較。神が飛来する(宙に浮遊する神)→→「動」を表現する工夫。神のポーズが、流れるような、飛ぶような表現に、また周りの人を簡略にして動きを出すための位置づけにしている。一方アダムは、「静」的に描く。双方のコントラストを明確に出した。手(指)の表現が劇的である。画家たちは頭と手の表現に特に注意を払う。
  • 背景もほとんど描かない。アダムの下に一応「土」は描いたが、大雑把で概略の存在を示しただけ。人間以外のモチーフに払われる注力が少ない。
  • 空間を無くすことで動きを出す。ミケランジェロの、その開き直りがすばらしいところ。

ガスパレル・インナーという版画家が、この絵を普及させようと版画に模写した。残念ながら、彼は、ミケランジェロの意図を理解していなかった。

同時代の人たちでも、なにが凄さを生み出しているのか、良く分からなかった?

ミケランジェロは元々彫刻家であり、彫刻家は人物像の創造に当たりリアリティを重視するものであるが、彼は、天井画を描くにあたり、その束縛から開き直った。

Ⅱ期 《楽園追放》     →→《アダムの創造》より時期が早い

イリュージョンを棄て切れていない。3次元的な空間が描かれている。地平線、木の配置。伝統的な図像から離れ切れていない

人物像を大きくした。ドラマ性を目指すのは一貫している。神がアダムに突きつける剣の先など。しかし、空間作りは、引きずったまま。

アダム・・で開き直った結果、更に大きく展開できた。

4つの画面、それぞれが違う様式となった。

全体の中でこの4画面を押さえることが理解のポイントである。

大洪水とアダムをまず比較して、違いを理解したうえで、4つの違いを知ることが理解を容易にする。

Ⅲ期 《天体の創造》

《アダムの創造》とまた違ってきている。

共通点は?   余計なものは描かない。主役をより大きく

違いは?

  • ダイナミズムを更に強調するようにした。                                                                                                                                                     アダム・・では、動きの方向が右上から画面に平行に進む。
  • 天体では、右の神は右奥から手前方向に立体的なベクトル。
  • 左の神は左向こう側に退いていくベクトル。動きに変化やリズムをつけている
  • 神の両手は画面に対して角度をつけて広げる。人物のポーズによって空間を作る工夫がある。
  • 足の裏から神を描いた。足の裏を手前に描き、手の先を一番奥に描いた。

アダム・・で開き直った結果、更に大きく展開できた。       

大画面である4つの画面、それぞれが違う様式となった。

全体の中でこの4画面を押さえることが理解のポイントである。

大洪水とアダムをまず比較して、違いを理解したうえで、4つの違いを知ることが理解を容易にする。鑑賞がなお面白くなる。

こうした3期に分割された製作期間ごとの様式の違いは、中央の大画面4つの比較で明らかになるが、当然、周囲の預言者と巫女の像にも同様の様式の違いが出ている。最初の09年に製作した預言者ザカリアと最後11年に製作したヨナの違いは大きい。ヨナはスペースをはみ出すように大きく、ポーズもダイナミックになっている。

   

裸体の青年たちが座る柱の柱頭を支えるputtiのポーズも同じように様式を違えて周囲の様式と統一がされている。ミケランジェロの画面の隅々まで疎かにしない芸の細かいところ、凄いところが見える。

同じ場所で、ミケランジェロの先生であるギルランダイオの側壁画と比較ができる点も面白い。

第4場面「弟子たちの召喚」 ギルランダイオ

Calling of the First Apostles 1481 Fresco Cappella Sistina, Vatican

弟子を増強していく話

左ガリラヤ湖にやって来た時漁をしていたペテロとアンデロに合う。「魚を取るのではなく人を採る仕事をしないか?」と誘う

中、ペテロとアンデロがキリストに従うことを決めている。

右側中景キリストがペテロとアンデロを従えて、船上にいるヨハネとヤコブの兄弟を誘っている。ヨハネやヤコブのことは聖書にはほとんど書かれていないが、左右のバランスを考慮して、兄弟を弟子にする話として入れた。

 

ミケランジェロは「ノアの洪水」で様式を大きく変えているが、第Ⅱ期以降そこから更に大きく様式を進化させている。システーナ礼拝堂の天井画がラファエロはじめ後に続く画家に大きな影響を与えた。

システーナ礼拝堂 の 装飾 (了)

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イタリアルネサンスにおける聖母子像の写実の変遷

キリスト教絵画では、同じ主題が、いろいろな時代、いろいろな画家によって描かれる。その時代別や画家別に、あるいは画家自身の年代別に、様式を比較することで、特に写実の表現の進化を読み取れる。

ここでは、「聖母子像」の主題で、ルネサンスの写実がどのように進展したのかを概観する。

(了)

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初期ルネサンス絵画の展開(その二) 

  • 初期ルネサンス絵画の展開(その二)

1430年以降 マザッチョに続く時期

フラ・アンジェリコ  

ANGELICO, Fra (b. ca. 1400, Vicchio nell Mugello, d. 1455, Roma)

フラ アンジェリコという名まえは、「天使のような修道士」という意味のあだ名。彼の死後14年以上経ってから呼ばれるようになった。バザーリの美術家列伝に書かれてから一般的になった(1550)。俗名はグイード ディ ピエロ 14世紀末の生まれ。1425年より前にドメニコ会の修道士になった。聖職者になる前、1417年ごろには画家として活動していたという記録がある。 基準作は、1433年の リナイオーリ祭壇画。

修道士として神への仕えの精神が底にあるので、マザッチョのようなリアリティではなく、畏敬(形式)の姿を表現。基本はロレンツォ・モナコにおいている。

受胎告知(3種ある)を鑑賞し、師匠である L.モナコ(金地背景)と比較してみる。

  • The Annunciation  1430-32
    Tempera on wood, 194 x 194 cm  Museo del Prado, Madrid
  • この絵は基準作といわれるリナイオーリの少し前の作品であるが、帰属は明確ではない。同一パネルのプレデッラには聖母の物語が5場面(各23*35cmの小さな枠)が描かれている。プレデッラを含めて絵の質の高さから彼であろうということ。もとはフィレンツェの郊外のフィエゾレのサント ドメニコ教会にあった。17世紀の初めにスペインに売られて今プラドにある。建築モチーフにはルネサンスに向かう線遠近法が用いられ中央奥の部屋には長椅子が見えるなど世俗的要素を加える一方で、金箔の贅沢な使用や天使の羽の色彩など中世の装飾性を継承している。コルトーナ、サン マルコの同主題の絵の構図の原型といえる。

  • 受胎告知の話は  ルカ伝  1章 26~38節にある。
  • 天使がマリアのもとに訪れ、キリストを身ごもった事を告げる。
  •  (話の展開)
  •   1.天使ガブリエル   「主があなたと共にいる」  
  •    マリアが戸惑う
  •   2.ガブリエル   「マリアよおめでとう、あなたは身籠って男の子を産む」 
  •   マリアは反論する  「そんなはずがありません。私は男の人を知りませんから。」
  •   3.ガブリエル   「聖なる神には不可能なことは一つもない。」
  •   マリアはが受け容れる私は神の端女です。あなたのお言葉のように私におきますように」と祈る 
  • 画家たちが3段階のどの部分を描くかによって図像が異なってくる。
  • [受け入れ]は、ジョットが最初に採用した。アンジェリコもジョットの流れを踏襲して受け入れの図像である。

Annunciation  1433-34
Tempera on wood, 150 x 180 cm  Museo Diocesano, Cortona

プレデッラに マリアの生涯 5場面がまとめられて描かれている。ブレーシャのサンタレッサンドロ聖堂のために受胎告知を製作していたもののこの聖堂には納められなかったと言うことが分かっている。

この絵はそのブレーシャに行くはずのものであったのではないかと言われている。ロレンツォ モナコの様式を踏襲している。図像、色彩特に大天使の羽根の細かな装飾及び理想化された優美な人物像、箱型の建築モチーフなど、一方、線遠近法も取り入れているが、消失点は左端に寄せている。マリアは胸に手を当てて[受け入れ]の姿勢を見せている。

The Annunciation  1442-43
Fresco, 230 x 321 cm  Convento di San Marco, Florence

サン マルコ修道院の2階北回廊の壁にかけられている。下から階段を上がってい行くと目の上に掛けられていて、訪れた人の心を魅了する。

階段を上がってゆくと段上の突き当たりに見える。階段を上るときは、「アベ マリーア」と唱えながら膝まずいて入るのが習慣であったという。そのためにこの場所に掲げられている。ガブリエルのような姿勢で「アベ マリーア」と唱える。遠近法の消失点は下から見上げるように見ることを考えて描かれた。階段の踊り場付近から膝まずいて見上げると目の前の階段から絵の中に繋がっているように見える。

天使の羽の色彩や天使ガブリエルとマリアには後輪があるなどモナコの影響を残すものの建築モチーフの線遠近法の消失点は中央に置かれ正確さが増している他、人物の彫像性も写実性を増している。1430年代前半の前記二作品とは、大きい違いがある。

「受胎告知」  フラ アンジェリコ  1450頃 僧坊2階はドミニコ修道会の修道士の居住空間 北側一番左端、東側との角に近いところにある。

 

 

ロレンツォ モナコ の 聖母戴冠

The Coronation of the Virgin  1414 by LORENZO Monaco
Tempera on wood, 450 x 350 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

フラ アンジェリコに戻り、十字架降下、キリストの磔刑(サン・マルコ修道院の壁画)  を比較しつつ鑑賞しよう。

Deposition from the Cross (Pala di Santa Trinità)    1437-40
Tempera on panel, 176 x 185 cm
Museo di San Marco, Florence

モナコの影響が残っている作品。人物の彫像性は写実的であるが、玉座の描写や人物たちの背景になる空間構成、それに衣の長さや振り方に国際ゴシック様式の流れを継承している。

キリストの十字架に礼拝するサンドメニコ

Saint Dominic Adoring the Crucifixion    1441-42
Fresco, 340 x 206 cm   Convento di San Marco, Florence

サン・マルコ修道院では、1430代の「リナイオーリの祭壇画」と僧坊の1440代の壁画(40枚ほど)を実際に比較して見ることが出来る。

僧坊のフレスコ画

僧坊はコの字型に部屋が配置され、配置図の北側→印から階段を上がって入り口になる。修道士を修道の経験に応じてブロックに分けて住まわせた。部屋ごとに構図を単純化したフレスコ画が描かれていて、フレスコの主題はブロックごとに異なる。

この僧坊は、1436年にミケロッツィが改築を始めて1441年に献堂した。コルトーナの「受胎告知の10年後。

僧坊の装飾について概略  僧坊の部屋のレイアウト

北側廊下の僧坊が正式な修道士ではない客人(メデティ家の人など)が使う、壁画の主題は聖書の物語からとった内容である。

東側が入り口から奥に向って、修道士の居住区であり 修道を通じてイエスに近づく為の部屋として使われる。壁画の主題は、キリスト伝から、 誕生/受難/復活など。

南側は修練中の修道士の部屋   フレスコ画の主題は、磔刑図が中心。

東側僧坊のフレスコについて 1440~42年

吾に触れるな、キリストの埋葬、受胎告知、他フラ アンジェリコの自身の作品が1~9室 及び 廊下の二点がアンジェリコ自身の作。

他の10室は、工房の弟子が描いた。  ベノッゾ ゴッツォーリとの 共作もある。リストは上記に。(各部屋のフレスコ画の説明と写真は別の機会に投稿したい。)

ちなみに aが受胎告知、cが影の聖母、3の僧坊が受胎告知である。

 

Annunciation (Cell 3)1440-42
Fresco, 176 x 148 cm
Convento di San Marco, Florence

  • 僧坊の個室の一つのフレスコ。  こじんまりとして単純な個室が、壁に描かれた絵によって、あたかも奥行きの深い空間が実際にあるかのよう。イリュージョニズム。空間構成が進化している。
  • 構図は極端に単純化されているのは、実際の部屋の構造に調和させている。

 

「影の聖母子」  東廊下の壁  1443  or  1450~  Sacra Conversazione   c. 1443 or 1450
Fresco, 195 x 273 cm  Convento di San Marco, Florence     Madonna in trono con il Bambino tra i Santi Domenico, Cosma, Damiano, Marco, Giovanni Evangelista, Tommaso, Lorenzo, Pietro martire

絵の中の柱頭の葉の模様に窓から光が射して壁にその陰が出来たように描かれているので通称「影の聖母」。

主題は、聖会話で、8人の聖人の中に、修道会の守護聖人のほかに、発注者であるメデティの守護聖人コスマとダミアヌスが含まれる。制作年は、この僧坊のフレスコ画が完成した最後に描いたという説と、彼がローマに行って帰ってきた1450年以降という説がある。

右端 頭から血が出ているドメニココ修道士は聖人ピエトロ。象徴として金網を持った聖人がラウレンティウス(Lorenzo)。

 

 

  •   ニコラス礼拝堂壁画 連作 (ヴァチカンの中)

Frescoes in the Cappella Niccolina of the Palazzi Pontifici in Vatican     (1447-49)      by Fra ANGELICO

キリスト教で最初の殉教者であるステファノとラウレンティウスの生涯を、両者の強い信仰の活動を並行に説明する流れで表現した連作画。礼拝堂内面の、祭壇側を除く3面に書かれている。2層で上がステファノ、下がラウレンテェウスの生涯。西側壁が始まりで北、東と続く。3面であるが1面を建築モチーフで区分けして、それぞれ6場面で構成。

 

Condemnation of St Lawrence by the Emperor Valerian 1447-49
Fresco, 271 x 235 cm
Cappella Niccolina, Palazzi Pontifici, Vatican

St Stephen Being Led to his Martyrdom  1447-49
Fresco   Cappella Niccolina, Palazzi Pontifici, Vatican

ステファノは当時の処刑方式である石で殴り殺された、ラウレンテェウスは火あぶりで処刑(AC285)、そろそろ背中は焼けたから裏返しにしたらどうかと、いったとか、毅然として死んでいったことのエピソードとして・・

晩年の作品

ボスコ アイ フラーティ 祭壇画  1450

Bosco ai Frati Altarpiece   c. 1450
Tempera and gold on panel, 174 x 173 cm  Museo di San Marco, Florence

ローマから戻ってからの絵。聖会話型( sacra conversazione)で。中央前景には円形空間が作られている。影を正しく描き光の直進性を明確にし、マリアのマントの内の身体の彫像性など写実が進んでいる。右側の聖人には、 メデチ家の守護聖人Sts Cosmas, Damian が描かれていて、依頼主はコジモ ディ メデチと推察される。

彼の晩年は、装飾画の要請に応えるために広範囲に旅をして歩いた。

そして1455年2月18日にローマにあるサンタ マリア ソープラ ミネルバ修道院にて世を去った。同修道院には彼の姿を浮き彫りした墓が現在もある。

 

Tomb of Fra Angelico By ISAIA DA PISA

after 1455
Marble, life-size
Santa Maria sopra Minerva, Rome

 

 

 

 

 

***************

ウッチェロ   1430頃~1460頃迄。

Uccello (鳥)の意  動物を描くのが好きでこの渾名。活動時期 1430頃~1460頃迄。フラ・アンジェリコの活動時期と重なるが10年位ウッチェロが長い。

年代のはっきりわかる絵が少ない。基準作(=年代を記録で明確に特定できる絵)が2点のみ。

ジョン・ホークウッドの騎馬像(1436) パウロ・ウッチェロの名前がある

Funerary Monument to Sir John Hawkwood   1436
Fresco, 820 x 515 cm   Duomo, Florence

大聖堂造営局(オペラ・ディ・ドーモ)が委託

ジョン・ホークウッドはイギリス人で傭兵隊長でカッシーナの戦いでフィレツェのために活躍したことを称えたもの。大聖堂の壁に飾られている。

‚4大預言者の頭部を伴う24時間制の時計

Clock with Heads of Prophets   1443
Fresco, 470 x 470 cm   Duomo, Florence

(オペラ・ディ・ドーモが委託)時計の周りに4人の預言者の頭部を装飾として描かれている。大聖堂の中の扉の装飾。

  

Head of Prophet 1443  Fresco、 Duomo,Florence

ウッチェロの描いた他の重要な作品(年代不詳)

サンタ・マリア・ノベッラ聖堂の付属修道院(ドミニコ会)の壁画。通称キヨストロベルデ(Chiostro Verde=緑の回廊)の壁画――1430頃から1450頃まで継続的に行われたプロジェクト。

キヨストロChiostro=修道院の中庭に面した回廊で、廊下には屋根がある。聖堂のハサード(アルベルディの設計)に向かって左側、聖堂の外に付属の修道院がある。その東側の壁、すなわち聖堂に接した側の壁の4つのカンパータ(柱間)に、4面の上下に8場面の絵――― 旧約聖書の物語がモチーフ(創世記1~9章)で 其の内、第1カンパータと第4カンパータがウッチェロ本人の書いたもの。

ノアの洪水 ウッチェロ キヨストロ・ヴェルデ  ノヴェッラ聖堂

第2と第3カンパータはウッチェロ工房の弟子たちが描いた。

絵の具が単純な Terra Verde(通常下絵に使う緑の絵の具だけを使っている)のため、地味な絵である。しかも外にあるため湿気に晒されて、保存状態が悪い。(2012年現在各カンパータ取り外して順に修復中である。)

第1カンパータ 天地創造(6日間)のうちアダムを作るまでのモチーフ

Genesis cycle (detail)  1432-36  Fresco
Green Cloister, Santa Maria Novella, Florence            (光と闇の分離、空と水の分離、陸と海と植物の創造、        天体(太陽、月、星)の創造、鳥と魚の創造、獣と人間の創造)

様式:人物はやや細く長い国際ゴシック様式を残している――幻想的雰囲気を表現。岩の表現も国際ゴシック様式。

上下の仕切りのところに騙し絵的な遠近法が使われている――マザッチョ的で、すなわち国際ゴシック様式ながらも遠近法を加えている。下には原罪をモチーフにしたもの。

マゾリーノの原罪と比較   1430年頃に描かれたと思われる。

画(技)法はセッコー(フレスコではない)卵で絵の具を付着させる――もちはよくない

 

 

 

第2カンパータ 技法が異なる フレスコを用いる 弟子の作  カインとアベルの子供

第3カンパータ セッコー技法 弟子が担当した。   ノアの話  明暗のコントラストが強い。下の面には箱舟に動物を乗船させる絵。

第4カンパータ  ウッチェロ本人が描いた。

Flood and Waters Subsiding  1447-48
Fresco, 215 x 510 cm  Green Cloister, Santa Maria Novella, Florence

40日間の大洪水の絵であるが、特異な構図である。画家が自分の想像力を発揮した絵である。これ以前の中世は聖書の中身のコピーを作る(挿絵)などタイプが画一的であった。聖書の内容を議論するようになって、画家の想像力を活かす道が開かれた。

3つの不思議(といわれる)

箱舟が二艘描かれている

‚人々(民)が生きていて争いをしている  注:マゾッティ(帽子の一種)

ƒ絵の主役がノア以外の人である点などが極めて独創的である。

1970年代の解釈では、  描かれた当時の社会情勢を入れ込んでいる。教会(舟に例えた)による救いとダブらせた寓意である。

1439年の出来事として、コンスタンチノポリス(東ローマ)とローマ(西ローマ)教会の合議がある。11Cに分離していたものを再度併せようという動きがあった。東ローマ帝国がイスラムの脅威に晒されて助けを求めたヨセフスと西のエウゲニウス4世の両者がフィレンツェで会合した歴史的事象を暗示して、異教徒との戦いを描いた。したがって、絵の主役はエウゲニウス4世、ノアの位置に居るのがヨセフス。

エウゲニウス4世の亡くなった1447年の制作と推定される。

箱舟の奥行きは遠近法で、風に吹き流される木の枝や葉にリアリティがある。人の描き方、死人を描き入れるなど新しい動きがある。

Uccello  《サン・ロマーノの戦い》・・代表作 製作年不詳

三部作(横長3枚)で、メディチ家が戦勝記念としてUccelloに発注したもので、3部が並べてあったものを同時に発見した。

a.《ニッコロ・ダ・トレンティーノ》;;ロンドン・ナショナルギャラリー

b.《ベルナルディーノ・デラ・チャルダ》;;フィレンツェ・ウフィツ

c.《ミケレット・ダ・コティニョーラ》;; パリ・ルーブル

並び方・・・但し論議あり・・・ 画中の槍の方向性などから判断 下記

 a   b  c

傭兵隊長たちの功績を称える絵である。

制作年は、1435頃、1450頃の2説あり、後者が多数、前者の意見は「ジョンホークウッドの騎馬像」との類似性を指摘している。

現在3枚が、それぞれ3カ国に分離して保存されている。保存状態からそれぞれの国の保存に対する考え方の違いが見えてくる。イギリス;よく洗う、フランス;極力修復しないで変色などもまた美である。イタリア;両者の中間的な考え。

サン・ロマーノの戦いとは、フィレンツェがシエナ(後ろにミラノが支援)との戦いに勝利した。15世紀前半の戦いである。

聖書の話やグローバルに知れている話ではなく、現実の出来事を題材にした。同時代の事件を絵にしたもので前例がない。自由に書ける利点が生きて、自分らしさが発揮された。

重視された点

  • ①線遠近法による(視点を集中させる)
  • ②視点を1点に統一していない
  • ③前景と後景で別のニュアンスにしている

a.《ニッコロ・ダ・トレンティーノ》の絵について解説

前景について 地面に何も描いていない(すっきりさせている)

建築モチーフを以外の対象に線遠近法を用いた。死者、人物表現に線遠近法を用いた、・・短縮法という。

b.《ベルナルディーノ・デラ・チャルダ》の絵の解説

馬の描き方がやや抽象化されているように見える。構図上左から右へ、入場→退場の意味を表現している。

背景にうさぎ狩ののどかな風景に描き、前景と背景で表現の分離がなされている。

馬の描き方がカスターニョの騎馬像(1456)と比較すると単純化されている。リアリズムをあまり求めていなかったと思われるカスターニョとの考え方の相違点である。

c.《ミケレット・ダ・コティニョーラ》の絵の解説

兵士たちが履いているタイツの色彩が多様である、槍の描き方が一様で装飾的な要素が強い、馬と騎乗する将たちの図像が統一化されているなど、

対象を単純化したり、繰り返したり、並べたりと画家が自らの意図を強く表現しようという意志がうかがえる。

3枚の絵を通してウッチェロの特徴として

非現実と現実を融合し、対象から自分が消化したものを描く。この姿勢は、20Cの芸術の考え方と似通う点がある。

逆にカスターニョの影響で写実性が出たという説もある。

バザーリとウッチェロは遠近法に熱心であった。デザイン力、スケッチ力に劣るという評もあるが、キュービズム以降見直せれて評価されている

 

カスターニョ Andrea del Castagno, 1421年頃 – 1457年

・ドーモの《騎馬像》でウッチェロのそれと比較– 

Monument to Niccolò da Tolentino  1456
Fresco  Duomo, Florence

デッサンがしっかりしていて写実性が明確、生き生きと描かれ馬の命が感じられる。

・《キリスト十字架磔の像》(20歳の頃)サンタ・マリア・ヌオーバ修道院(当時;現在病院) 

Crucifixion and Saints  1440-41
Fresco  Ospedale Santa Maria Nuova, Florence

徹底した写実主義である。マザッチョの正統な継承者といわれる所以である。

・《最後の晩餐》サンタ・アポローニャ(聖アポリナリス)

Last Supper   1447
Fresco, 453 x 975 cm   Sant’Apollonia, Florence

修道院の奥の壁画‘で47に依頼。

この壁画の影響で、「修道院の食堂の奥に最後の晩餐を描く」ことが盛んになる。ギルランダイオ(サンマルコ、オニサンテ)レオナルド(ミラノ)など。

その先駆として、サンタクローチェ修道院(タテオ・カッティ;1330)があるが主張が不明確。

カスターニョの主張は、イリュージョイズムである。キリストと12使徒たちがまるでそこに共に居いるかのように、晩餐をした場面を再現されたように描いた。

「最後の晩餐」ではキリストとヨハネ、ペテロ、ユダの位置や表情が重要。ペテロがヨハネに裏切るものについてキリストに問いただすように頼むと、キリストは、自分がパンを差し出す相手がユダ、とヨハネに伝える。

 

 

 

遠近法の採用、窓をつけて右から光を入れて明暗をつけている。

人物表現と建築モチーフにも光を入れている(マザッチョの方式)

絵に遊びを入れているすなわち、ユダの後ろの大理石の壁がそこだけ模様が特殊でユダを指し示しているかのよう。またユダには後輪を描いていない。

マザッチョからレオナルドへつなぐる役割を、カスターニョがしている

ギオルギュースと龍・・・1450~1460――

伝説の聖人(聖書にはない)東ローマのカッパドキアの風景。王女が街を表し、龍が異教徒を象徴している。

初期ルネサンスの絵画の展開(その二) 終わり

(その三)へと続く。ピエロ デッラ フランチェスコ を観る。

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初期ルネサンス絵画の展開(その一) 

 初期ルネサンス絵画の展開(その一)

イントロダクション

ルネサンスの定義

古代の写実をよみがえらせる、それはキリスト以前の文化(異教)の蘇りを計る。すなわち具体的には、キリスト教の聖人(キリスト、マリア、12使徒)の表現を、中世における天上人としての扱いから、現世人として描くように改革。

ルネサンスの歴史の時代区分

  • プレ・ルネサンス 1290’s~ ジョットー
  • 初期・ルネサンス 1420’s  マザッチョ(建築はやや早くから)
  • 盛期・ルネサンス 1470’s レオナルド/ミケランジェロ/ラファエロ
  • 後期・ルネサンス 1510’s  カラバッジョ(マニエリスムの時代)

絵画ではジョットーから始まりおよそカラバッジョまで、300年ほどの期間がルネサンスと呼ばれる。

但し、ジョットーからの100年は、ジョットーを大きく改革するものが出ていない。17C以降はキリスト教美術が衰退し、聖書が主題ではなくなる。

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期・ルネサンス

フィレンツェ洗礼堂の青銅の扉装飾のコンクールが動きの始まり。

:テーマ「イサクの犠牲」(浮き彫り)ギベルディ、ブルネルスキーが 最終選考に残る。

決着は共同制作を嫌ったブルネルスキーの譲歩で、ギベルディが制作した。

 

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フィレンツェの歴史について概略

伝説によれば、皇帝ホノリウスが東ゴート族に勝利したのを記念して、元サン・サルヴェトーレ教会のあった場所にサンタ・レパラータ教会を建てたのが5世紀前半のこと。戦いに際して、レパラータが十字の旗を持って中空に現れ,皇帝ホノリウスの逆転勝利につながった。サンタ・レパラータはパレスティナ地方のカエサレア生まれで,デキウス帝に10才代で斬首された殉教者である。デキウス帝の在位が248年から251年なので,レパラータは3世紀半ばの人。1296年にサンタ・レパラータ聖堂を建て替える形で現在のドゥオーモを建設したがレパラータ教会は5世紀から中世における街の教会であった。大聖堂の地下にはレパラータ教会の遺跡が残っており、そこに聖遺物が祀られていて守護聖人の一人として信仰されている。洗礼堂は、レパラータ教会の傍に位置し、11世紀に起工し13世紀初頭に完成した。

洗礼堂が完成した後は実際にはレパラータ教会の代わりに洗礼堂が街の礼拝堂として使われていた。14世紀ドォーモの完成に伴って堂の改修を行い新たに洗礼堂とした。

14世紀を境に都市国家が力をつけ、一人の君主に権力が集中するシニョーリア制へと変わっていく。

個性的な君主(メデチ家など)が多く現れるようになり、力による血なまぐさい周辺制圧と同時に学芸の奨励に熱心に取り組む。

金や権力が先か優秀な芸術家が先かはともかく、あらゆる分野で綺羅星の如く天才が出現する。イタリア中が学芸にのめりこんでゆく。

メデチ家が率いたフィレンツェの絵画を中心にルネッサンスを学んでいく。

ギベルティ作

フィレンツェは経済面では、13世紀からトスカーナの中心地として毛織物産業で繁栄が本格的になる。羊の毛を輸入し製品化して売ることが主体であった。(銀行業はコジモ・ディ・メディチ(15世紀)から)

大聖堂の建設13Cに開始し15Cに完成(アルノ・ディ・カミヨ)鐘楼はジョットーがデザイン、

洗礼堂はヨハネを祀ることからフィレンツェの街は、ヨハネが守護聖人となる。ヨハネは.キリストを「見よ!神の子羊を!」と呼んだ最初の人である。Agnus Dei。また、洗礼者ヨハネをあらわす紋章が 「子羊」 。

1401年、洗礼堂の北側の扉の製作者公募が公告された。これはコンクール形式で製作者が選ばれた最初の例といわれている。鐘楼デザインしたのがジョットーであり、彼は13世紀末からキリストを人間として描く試みをした。

フィレンツェは、経済の発展と共に、ジョット―の後の100年の芸術の停滞を打破したい気持ちになっていた。

コンクールを主催したのは、「カリマーラ」毛織物組合(聖堂など施設の管理を受け持つ)。組合が オペラ・ディ・ドオーモ(ドーモの管理組合)を担っていた。

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1401年 洗礼堂北扉の浮き彫り彫刻コンクール 主題「イサクの犠牲」

  • 現在もフィレンツェのバルジェッロ美術館に並べて展示されている。
  •   ギベルティ                            ブルネルスキー

両者の応募作品を鑑賞し比較する

テーマの説明;「犠牲」とは、神にささげる=殺して祭壇に供える こと

アブラハムとサラの間にやっと出来たかけがえのない子を神への忠誠の証としてささげることを要請され、アブラハムが応えようとする瞬間の図。ロバで山奥へささげる場所を求めていく。羊は神により用意された。

両者の比較

ギベルディ;構成の美しさがある。右下から左上への弧(凹)を描いた斜めのライン(父アブラハムとイサクと天使と羊とロバの配置と全体の流れ)

ブルネルスキー;空間の出し方が新しい、平面芸術に奥行きを持たせた。脇役を手前に配置し観る側に目の動きを持たせる工夫がある。

イサクへの刃物の当て方、神の静止の動作等の表現にリアリティが強く感じられる。リアリティの重視・これは建築家としての発想からきている。

この奥行きとリアリティの主張がこの後の画家たちに影響し、ルネサンスの発展のきっかけになったと言われる。

ブルネルスキーの肉体表現の写実な彫像性(リアリティ)を、主要な主題である「キリストの十字架像」を観賞して、彫刻家ドナテッロと比較してみる。

   

  Crucifix  1412-13          Crucifix  1412-13
Wood, 168 x 173 cm         Polychromed wood, 170 x 170 cm
Santa Croce, Florence        Santa Maria Novella, Florence
左ドナテッロの十字架像(サンタ クローチェ教会)と右ブルネルスキーのキリストの十字架像(サンタ マリア・ノベッラ教会)とを比較 (1410代)

肉体の表現に、中世になかったリアリティが現れる。

バザーリの評論の中に曰く、ドナテッロがよりリアリティが増したものを造るも、上品さで難あり(農夫みたい)とブルネルスキーの批判(反駁)があった?

どちらもルネサンスの彫刻として重要なものである。

 

ブルネルスキーの建築設計と彫刻のリアリティ表現を、マザッチョが学び絵画の表現に応用した。そのポイントは「空間構成とリアリティ」

写真チマブーエの十字架像(サン・フランチェスコ大聖堂アッシジ)=左 とジョットー(スクロベーニ教会パドバ)=中と「三位一体」(サンタ・マリア・ノベッラ教会)=右の比較。 ポイントは3つある。

肉体の彫塑性(写実)、空間表現(線遠近法)、光の直進性(明と影)

Trinity    1425-28
Fresco, 640 x 317 cm
Santa Maria Novella, Florence

   (scheme of the perspective)

マザッチョの特徴は、

  •  人体表現が正確であること、モデルを使用したと思われる。
  •  平面の中に奥行きを作る(ブルネルスキーの考案をマザッチョが絵に応用)正確な線遠近法の採用
  •   光の表現が豊かになっている。直進性を理解した。

ピサの多翼祭壇画の中央パネルの聖母子をジョットーの聖母子と比較

 

ジョットー(右)が明暗法を用いて主体化しているのに対し、マザッチョ(左)は右上から差し込んでくる自然の光でリアリティを表現している。玉座の線遠近法表現が正確。

 

ブランカッチの礼拝堂 「貢ぎの銭」の鑑賞 (1420代)

Tribute Money    1426-27
Fresco, 255 x 598 cm
Cappella Brancacci, Santa Maria del Carmine, Florence

構成 キリストの頭部に中心を置いた遠近法、右斜めから差し込む光は実際の窓を意識している、実際にあるかのような光の使い方(イリューショニズム)

国際ゴシック様式やジョットー様式の打破を狙う、線の美しさ、色の鮮やかさが際立つ。細部に亘り一筆も疎かにしないマザッチョの集中力がうかがえる。右上から差し込んでくる自然の光を活かしてリアリティを表現。

ロレンツォ・モナコ  「謙譲の聖母子」の鑑賞

  • Madonna of Humility  1420-22
    Tempera on panel, 116 x 64 cm   Brooklyn Museum, New York

金地背景であり、玉座の奥行き感はほとんどない、イエスとマリアには後輪がある。比較すると同じ時代のマザッチョの革新が見えてくる。

 

1430代以降  マザッチョが若くして世を去って以降、 反動が現れ、またより戻しでそれを繰り返した。すなわち、リアリティの探求と装飾性(反現実主義:神への畏敬重視)との”ゆれ”がしばらく続いた。

初期ルネサンス絵画の展開(その一)を終わります。

次は、フラ アンジェリコ、ウッチェロ、カスターニョを鑑賞します。

次回(その二)に続く

 

 

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聖母子像に見るルネサンス期の写実の進化

 

  • 聖母子像に見る進化

 「聖母子像」はキリスト教絵画の重要主題であり信者に最も好まれた。「キリストの磔刑図」「聖母子像」「聖フランシスコ像」が主要三主題。
ここでは「聖母子像」の主題に絞って、ルネッサンス期の絵画の 写実の進化を見る。

 ルネサンスの定義と時代区分
ルネサンスの定義

古代の写実をよみがえらせる。具体的には、キリスト教の聖人たちの表現を、 中世における天上人としての扱いから、現世人として描くように改革する。 それはキリスト以前の文化の蘇りを計る。

絵画史の大きな流れ
(西洋美術史)を概要で言うと
Ⅰ 古代     B.C.7C~AD5C       写実
Ⅱ 中世     AD6C ~AD13C    非写実
Ⅲ 近世     AD14C~19C(前半)   写実
Ⅳ 近代/現代  19C(後半)~21C    非写実

  • 写実性の比較

    ジョット以前の「聖母子像」には、「偶像崇拝禁止」対「視覚的な素材の必要性」の間で厳しい葛藤が見られる。結果として厳しい規範のもとでの絵画表現が許された。 6世紀に表現上の厳しい制約条件が整備された。
    その後、約7百年間、様式は全く変化しないという現実がある。
    12~3世紀、写実への兆しが起こる

  •   ルネッサンスの意義
    人間性への覚醒
    人間の尊厳への確信と啓蒙の意志
    自然の観察の徹底
    自然をそのまま写しとることが最高のこと
  • ルネサンスの歴史の時代区分
  • 1.プレ・ルネサンス  1290頃~1420頃      ジョット
  • 2.初期・ルネサンス  1420頃~1470頃     マザッチョ
  • 3.盛期・ルネサンス  1470頃~1520頃     レオナルド                         4.後期・ルネサンス  1520頃~1610頃   カラヴァッジョ
  • (ミケランジェロ、 ラファエロは盛期の巨匠)

各時代の特徴
• プレ・ルネサンス  人間として表現したいという願望
• 初期・ルネサンス  光と三次元空間とリアルな彫像、タブーに挑戦
• 盛期・ルネサンス   正確な肉体の把握とダイナミズム 、空気遠近法
• 後期・ルネサンス   光と闇の対照効果、事象のクライマックスを表現

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プレ・ルネサンス

ジョットの革新

Ognissanti Madonna (Madonna in Maestà)
c. 1310  Tempera on wood, 325 x 204 cm
Galleria degli Uffizi, Florence

ジョットの革新
中世からルネサンスへの変化が 13世紀に起こる
ジョットがそれ以前の絵画様式をどのように変えたのか?
主題は中世と基本的に変わらない。様式が大きく変わり、より写実的な表現に変化していく。
聖人を人間的に表現しようという概念がある。この聖母子では、それ以前には見られなかった自然さがある。聖母が頭に冠った透き通る素材の微妙な表現や、聖母の着衣を通してやわらかな膨らみさえも感じる母なる女性の崇高な表現はほとんど自然そのものに思える。
神の子であるイエスとその周辺の聖人たちを、一人の人間として表現したいという願望が写実を進める原動力となった。→→→芸術意欲を引き出した。

初期・ルネサンス

マザッチョの改革

   Madonna with Child and Angels   1426                                                        Egg tempera on poplar, 136 x 73 cm                National Gallery, London

マザッチョの改革  ジョットを受け継いだ上で新しい様式を創造した。

  • 人体表現が正確である
  • 平面の中に奥行きを作る
  • 光の表現が正確で豊かになる

ジョットーが明暗法を用いて主体化しているのに対し、右上から差し込んでくる自然の光でリアリティを表現してる点など写実がより正確性を増している。

フラ アンジェリコ Linaioli Tabernacle (shutters open)  c. 1433

  • Tempera on panel, 260 x 330 cm
  • Museo di San Marco, Florence
    リナイオーリの祭壇画 フラ アンジェリコ
  • サン マルコ聖堂 フィレンツェ

サン・マルコ修道院では、1430代の「リナイオーリの祭壇画」と1440代の壁画(40枚ほど)を実際に比較して見ることが出来る。

フラ アンジェリコは  「受胎告知」  で日本人にもなじみが深い。修道士でもあるアンジェリコは、マザッチョと同じ時代の画家であるが、聖人たちの神聖を尊重し、過去の規範を残し、奥行感の表現などには写実性の追求が見られるもののマザッチョほどの革新性は見せていない

  • フィリッポ リッピの宗教的タブーへの挑戦 タルクイニアの聖母  ローマ 国立絵画美術館

  • Madonna with Child (Tarquinia Madonna)  1437
  • Tempera on panel, 151 x 66 cm
  • Galleria Nazionale d’Arte Antica, Rome

フィリッポ リッピによる 世俗化と人間的な情愛の表現

背景はマザッチョと異なり、金地背景ではない。右にベッドを置きマリアの寝室を表現、左には奥にアパートの窓が見え、さらに左の窓からはトスカーナの田園風景が描かれている。すなわちこれは現実的空間を表現しようとしたものである。マリアの表現を見ると世俗化の狙いがうかがえる。   光臨が取り除かれている上、身につけるものを描いて世俗性を表現した。ベールをとめる道具や指につけた装飾品で人間としてのマリアを表現している。

祭壇画であり、司教からの依頼であるにもかかわらず敢て世俗化したのには彼の新しい時代への挑戦と考えたい。しかも教会のタブーの強さを考えるとその信念のお強さがうかがえる。

 

  • 聖母子と二天使 1465 ウフィチ美術館 フィレンツェ
  • Madonna with the Child and two Angels  1465
    Tempera on wood, 95 x 62 cm
    Galleria degli Uffizi, Florence

聖母は画家の妻ルクレツィアをモデルにしたと言われている。晩年(66年スポレートに行く前)の作 65年頃の作とされている。聖母は世俗的に描こうとしている。前々からその意志がある。しかし歳と共に顔の様子は変化している。窓の前に座った構図と椅子の肘掛の渦巻き模様は共通している。

ウフィツィの中で もっとも質の高い作品であり、デッサンが残されている。背景表現がこれまでになかった空気遠近法を使い、地平線、空を描く新しい試みをしている ピエロの空気遠近法と同時期のことである。繊細な線的表現が始り、この様式はボッテチェリに継がれていく。(ボッテチェリはリッピの工房にいた)。髪の装飾もより大胆になっていて世俗性は継承されて、かつより洗練されている。単に聖母子を描いたというよりは明らかに、世俗的母子の情愛が強く表れていて、親子の関係に自身が薄かったのでその思いが出ているのかもしれない。

ピエロ  デッラ  フランチャスカの創意 

  • 聖母子と聖人達とウルビーノ公(モンテフェルトロ)ブレラ
  • Madonna and Child with Saints
  • (Montefeltro Altarpiece) 1472-74
  •  Oil and tempera on panel, 248 x 170 cm
  • Pinacoteca di Brera, Milan

ピエロの遠近法と身体像のデフォルメ

キリストの姿、表現に特徴がり、眠れる幼児キリストは深い哀悼を象徴する。赤い珊瑚の首輪は魔よけの徴(ギリシャ神話に起源)でフランドル的要素。ピエロは、ウルビーノでフランドルの影響を受け、60年代以降の仕事に反映している。フィリッポ・リッピにはフランドルの影響がより強く出る。建物をしっかり描くのはフィレンツェ流ルネサンスの特徴。ルネサンス式建物と人物との大きさのバランスがよく取られたしっかりと計算された遠近法の技法である。身体像は独特のデフォルメがされているが、それが聖なる場所の静謐性をより深く表現するのにいきている。

やわらかい光が神聖な場面にふさわしい明るい天上の雰囲気をかもし出す。頭上の(駝鳥の)卵はマリアの処女性と、生命の復活の象徴。公の妃バティスタは女児ばかり生んでいたが、やっと男児を出産した後すぐに亡くなった (1472)。

ピエロは恩人モンテフェルトロの妻への深い哀悼の気持ちを「眠れる幼児キリスト」のエンジェル・ピエタ的な犠牲に重ね合わせて表現している。この無念の死は祈りにより鎮められ、駝鳥の卵が復活の象徴として思いを託されている。

  • マグダラのマリア Arezzoのドーモ
  • Saint Mary Magdalen  1460
  • Fresco, 190 x 105 cm Duomo, Arezzo

この絵は、彼の生涯をかけた代表作サン フランシスコ聖堂の「聖十字架物語」の完成とほぼ同時期に描かれた。聖女のマントの赤と白の色の大胆な使い方は時代に先駆けている。手に持つ香水の瓶にあたる明るい光の表現や、マリアの肩にかかる豊かな髪の毛は一本一本を丁寧に描き、作者の熟練した技が見て取れる。

盛期・ルネサンス

ボッテチェッリの絵画的装飾性

  • マニフィカートの聖母 ボッテチェリ 1480-81  ウフィチ フィレンツェ
  • Madonna of the Magnificat (Madonna del Magnificat)  1480-81
  • Tempera on panel, diameter 118 cm  Galleria degli Uffizi, Florence

 +++++++

  • 「書斎の聖母子」 1480頃 ミラノ ペッツォーリ美術館
  • Madonna of the Book (Madonna del Libro)   c. 1483
    Tempera on panel, 58 x 39,5 cm  Museo Poldi Pezzoli, Milan

ボッテチェッリ の技巧と絵画的装飾性

ボッテチェリのこの絵は、時代の流れに沿って描かれている。レオナルド・ダ・ヴィンチの「ブノワの聖母子」と比較するとこれを強く意識して描いた作品といえる。小道具を使って複雑な心理描写をしようとした。幼児キリストの表情に、自分の死を意識している様子を表現できている。ボッテチェリの「書斎の聖母子」に描かれた、象徴としての小道具を見ると茨の冠を持っている、3本の釘を手にもつ==磔の際の道具で手と足の釘を意味する==受難の象徴を持ちながら、マリアの手に触っている。

構図全体もレオナルドを意識している・・窓から空が見える暗い側と明るい側の背景など・・

日本人に人気のある「春」ではまったく違う様式を現す

「マニフィカートの聖母子」ウフィツ 81年前 システーナ礼拝堂に招かれるの直前の絵である。周りの天使の表情が少しパターン化されている気がする。受難の象徴である柘榴を持つ =赤色と種=受難と増殖。この作品と「柘榴の聖母子」(トンド)c. 1487 が近くに展示されている。彼はリッピの影響受けた前期とシステーナ礼拝堂を手掛けた時期及びフィレンツェの戻った後、更にサボナローラに影響を受けた後と時間と共に様式が変わって行く。並列に展示されているマニフィカートと柘榴を見ることで、彼の変化の一つの過程を知る手掛かりになる。

レオナルド ダ ヴィンチ の革新

  • ブノアの聖母 c. 1478   エルミタージュ美術館
  • Madonna with a Flower (Madonna Benois) c. 1478
  • Oil on canvas transferred from wood, 50 x 32 cm
  • The Hermitage, St. Petersburg

マリアの顔、キリストの顔にレオナルドの特徴であるスフマート技法を用いている。スフマートの言葉の意味は煙で暈すということ。色を暈して立体感を出すのに使う技法。これにより陰影表現がデリケートになっている。

心理描写が優れている。主題に工夫されている。「白い花」は受難の象徴、死を予感させる。

白い花を活用して、聖母と神の子の関係を内面にまで深めて表現する。キリストが人類の罪を背負い、人類のために償いをするその運命を感じさせる内面の心理までも描こうとしている。マリアはキリストに眼をやりやさしく微笑んでいるのに対して、キリストはマリアを見ないで白い花を見つめて、やがて来る自分の死を見据えていることを暗示している。マリアの腕から手を通じてキリストに二人の関係がしっかりと伝わる構図(白い花は棕櫚かオリーブの花)

ベースになったものは、10年前に描かれたリッピの「聖母子と二人の天使」。 聖母が全身ではなく半身像であり、構図にある部屋の形態、窓があり光が差し込む。メディチ家のために描いたものでありレオナルドは見ている。マリアの顔の表情や姿が一般の女性の姿をしている。同時代の生活を模した構図は、レオナルドにインスピレーションを与えた。

心理描写が良く出ている。レオナルドは「人間は心のある存在」を訴えようとしている。

「ブノワの聖母」は帰属に問題のない作品(ただし記録はない)1470代。衣に質感が金属的で硬い。襞に遊びを入れるのも特徴である。髪型には強い関心があり、拘って描く。「ブノワの聖母」の髪は編んで更に束ねている。「リッタの聖母」エルミタージュ の聖母の髪型も複雑な模様。このための人物のデッサン を見る 拘って描いた跡がうかがえる。主題に心理的な交流をうまく描き込む工夫がされている。「白い花」は受難の象徴、死を予感させる。

ラファエロの特徴と創意

  • 「牧場の聖母子」ラファエロ 1506  ウイーン美術史美術館
  • Madonna of Belvedere (Madonna del Prato) 1506
  • Oil on wood, 113 x 88 cm   Kunsthistorisches Museum, Vienna
  • 「牧場の聖母子」(マリアの衣の襟筋のところに年代が1506と書かれている)

マリアの座り方は、聖家族の謙虚さの表現である。座っている所が自然の地肌の上。質素にするために玉座ではなくなっている。・・・・フィリッポ・リッピの「キリストの降誕」が始まりである。

ペルジーノの「祭壇画」the Polytych of Certosa di Pavia ロンドン・ナショナル・ギャラリーと比較。 先生と比較するとどうなるか?

「牧場の聖母子」と「祭壇画」の中央の聖家族の比較

ペルジーノは、「キリストの磔刑」からの発展図法–謙虚さを表す。上方に天使が三人描かれ、マリアが神の子を宿したことを歌う。

ラファエロは、マリアがキリストに手を合わせていない、天使でなくヨハネがいる、ヨハネが十字架を持っている、ヨハネとキリストの絡みを描いている、マリアがヨハネを見ている、ヨハネからキリストを遠ざけようとしている、ヨハネに自ら近づこうとするキリストをマリアが遠ざけようと気遣う心情が表現されている。

  • 野原にアネモネの赤い花・・・キリストの死の象徴
  • ・・・キリストを受難から離そうとするマリア
  • 伝統的な図像とは異なる
  • 「ひわの聖母」  1507  ウフィチ
  • Madonna del Cardellino   1507
  • Oil on wood, 107 x 77 cm   Galleria degli Uffizi, Florence

近年修復が終わった。作品の質が高い。牧場との変更点は何か?

コンセプトは同じである。十字架の変わりに‘ひわ鳥’を持っている。‘ひわ鳥’は目の下に赤いしみがある鳥・・キリストの返り血であると信じられ受難の象徴である。美術においては、ひわは十字架の代わりになる。構図は似ているようで違っている・・・マリアの右足の位置に注目してみる。自然のポーズで描かれている・・・これによりキリストとの親密感が強く出ている。三角形のピラミッド図形から離れて、楕円形が作られている。マリアの両手の場所が異なる。つながりは強くなるが、コンセプトの見方が見えにくくなる。・・意図的なものを消そうとしている。死に対する思いは別の点で表現・・・キリストの顔の表情をきつくした。キリスト自身の気持ちで受難のコンセプトを表現した。

マリアとキリストのつながりがより親密により自然に見える。・・マリアの足の間にキリストを立たせて足と足を重ねて強さを表現している。

  • フォリーニョの聖母子 1511-1512 ピナコテカ ヴァチカン
  • The Madonna of Foligno  1511-12
  • Oil on canvas, 320 x 194 cm   Pinacoteca, Vatican

新しい空間表現と人物像への試みがある。雲の中に天使が居る。オレンジ色の光の円形玉座、登場人物によって作られる創造的な空間である。

背景には、砲弾が打ち込まれているフォリーニョの街が描かれている。マリアに街が助けられ被害は無かった。洗礼者ヨハネ、ヒエロニムスとそれに伴われる寄進者シジスモンド・デ・コンテである。

ラファエロの革新のポイント

  1. 奥行きのあるリアルな空間を作ろうとしていない、下から上に上昇する方向性を強調しようとする。
  2. 人物表現が、ダイナミックな動きを強調している。
  3. 光の使い方 主役の背後から来る強い光は、演出された神の光として見るものに強い印象を残す。

(創造的な空間と現実空間の共存は、ラファエロが1512年以降ローマで工夫を重ねてゆくが、この絵ではまだ変化は過渡的といえる)

  • シストの聖母  1513-14  ドレスデン
  • The Sistine Madonna 1513-14
  • Oil on canvas, 270 x 201 cm   Gemäldegalerie, Dresden

ドレスデン市の美術館にあるが、元元は北イタリアのピアチェンツァにあるシスト修道院のユリウス2世のお墓を飾るために描かれたといわれている。

その後、神聖ローマ皇帝アウグスツス3世に町が占領された折に皇帝に寄贈されてドレスデンに移った。第2次世界大戦後モスクワに持って行かれたが、後に返却されて今はドレスデンイにある。

聖母に描かれた女性の肖像画としての魅力的な表情が世界中からの鑑賞者を魅惑している。 また下に描かれた二人の天使達が、それだけで一人歩きして、世界中に知られるようになっている。

雲に乗って天(空想の世界)から地上(現実の世界)に降りてくる聖母子を、左の聖シスト(この時代の少し前のローマ教皇でユリウス2世と同じ門閥)と右の聖バーバラ(光の守聖人)が地上(現実の見る人のいる側)の世界に誘う。

重々しいカーテンが両側に開かれて聖母の登場を劇場的な雰囲気に造っている。聖母の後から手前に向って光が差し込んでいて、この効果と(現実の世界とは違った)重力から解放され下から上へと向う浮力の効果が、見るものに無意識のうちに幻想の世界を感じさせる。

絵の下部には地上の世界と天井の世界を分ける手すりが描かれており、その手すりに二人の天使がもたれて居て二つの世界を橋渡しする。

手すりの左端にカソリック教会の最高位ローマ教皇の被る三重冠が置かれ、この橋渡しを司るのが教皇であることを表す。

ルネサンスは写実が進んだ時代だが、ラファエロはその頂点にいる画家である。写実の頂点に達したラファエロは、人間が空想する世界もまた一つの写実であると考えた。この絵はそれを表現した代表的な作品である。

  • 椅子の聖母  1514 パラティナ美術館 フィレンツェ
  • Madonna della Seggiola (Sedia)(framed)    1514
  • Oil on wood, diameter 71 cm  Galleria Palatina (Palazzo Pitti), Florence

ラファエロは、この絵をヴァチカンのエリオドロスの間の装飾を終えた直後に描いた。18世紀末にナポレオンがパリに運んだあと1815にフィレンツェに戻されたという曰くがある。トンドそのものは15世紀末にフィレンツェでよく使われたものだが、ラファエロはこのトンドの円形の空間に不自然さがなく登場人物を配置して彼の柔軟な対応力を示している。窮屈な空間をむしろ人物間の親密性を高めるためにうまく活かしている。

後期・ルネサンス

カラヴァッジョの新たな写実

ロレートの聖母 サンタゴステーノ聖堂カヴァレッチ礼拝堂 ローマ

  • Madonna di Loreto 1603-05
  • Oil on canvas, 260 x 150 cm  Sant’Agostino, Rome

主題のこと」

アドレア海に面する一都市でアンコナに近い。北から下がるとリミニを過ぎてアンコナの南にロレートはある。伝説によると13世紀の終わり1291あるいは1304年にサラセン人が十字軍を追ってナザレを攻撃した。ナザレはマリアが受胎告知を受けた家があるところ。マリアの家が壊されそうになったとき天使がマリアの家をダルマティアに移し、更にロレートに移した。ロレートは信者の巡礼地となり、サンタ・カーサ(Santa casa di Nazareth)と呼ばれる聖堂があった。

同主題の他の画家の作品

アンニバレ・カラッチ   天使が家を運んでいる図

ルカ・シニョレッリ、ピエロ・デッラ・フランチェスカも同主題を描いた。カラヴァッジョは、カラッチなどそれまでの絵とは違う表現で描いた。

カラヴァッジョの新しい写実表現(マニエリスムからの回帰)

サンタ・カーサの入り口で聖母子が巡礼者を温かく迎えている様子を描いた。従来のような空想的なイメージは使わなかった。依頼者のことをよく考えながら描いた。巡礼者たちはロレートに着くとまずサンタ・カーサを3度周回した。それから入り口に跪いてその姿勢のまますり足で中に入ったといわれる。カーサの中には聖母子像が置かれていて、巡礼者はそれを拝み、大きな感動に包まれたたという。カラヴァッジョは、サンタ・カーサに行ったと言う説がある。トレンティーノに居たという記録がある。(In the winter of 1603-4 Caravaggio had been in Tolentino)ロレートから近い所である。巡礼者の様子を観察して知っていたと思われる。サンタ・カーサの玄関の左端がかけている。それもリアルに表現している。

マリアの表現が誠にリアルである。恋人であった娼婦レーナをモデルにしたといわれる。

巡礼者は、比較的若い男と年老いた婦人(依頼者の母親か?)登場人物を対角線上に配置し、背景には建築モチーフが描かれており、バックの処理はチェラージの作品とは違えている。したがって前にせり出てくる印象は薄らいでいる。 すなわちリアリズムに徹して描かれた。

ローマにやってくる巡礼者の立場に立ったリアリズムに基本を置いた。カラヴァッジョの主眼は二人の巡礼者に置かれている。カラヴァッジョはロレートの巡礼者を良く観察した上でローマに帰り、更にローマの巡礼者をよく観察した。その上で「ロレートの聖母」は描かれた。マリアの顔を傾けて首筋を見せた人体造形は実にリアルで、説得力がある女性像になっている。

                               Madonna del Rosario   c. 1607
Oil on canvas, 365 x 250 cm       Kunsthistorisches Museum, Vienna

ナポリへ逃亡中の作品  安定感のしっかりした美しい絵

図像の説明

中央に居る聖母子が主役、聖母は右に居る(見る側からは左)ドメニコを見ている。キリストは正面、見るものの方を真っ直ぐ見ている。信者がキリストに祈りを捧げる回数を数えるために糸に玉を通した紐を使った。ロザリオである。これをドメニコが(13c)考案した。ロザリオを考案した功績をたたえる絵である。白と黒のマンとはドメニコ会の修道士の服。右の修道士は頭から血を流している。ドメニコの最も信頼するピエトロ修道士。寄付を募る役割を果たしていたら、刺殺を送られ殺される。左は依頼者か。何を意味するかはよくは分らない。当時、対抗宗教改革のために生まれたイエズス会(新興)とドメニコ会は対抗していた。イエズス会の主旨は善行によって救われる。ドメニコ会は一人ひとりの 信仰こそ大切。ドメニコ会の正当性を訴える絵か?

ドメニコと彼が手にもつロザリオ、それに手を差し伸べる信者たちがドメニコ会を表現する。

大勢の登場人物のまとまりが良くなっている。

絵の底辺から聖母の頭部頂点までを三層にして組み立てられている。底辺から信者たちの頭部までが第一層、さらにドメニコやピエトロの頭部までが第二層、そして聖母の頭部までが第三層、その上を入れると4層である

夫々の層で人物は、跪いて、立って、台の上に座って三層を構成している。

レオナルドのピラミッド構図(三角構図)を採ることによって安定したどっしりした印象の絵になっている。「マリアの死」とも比較すると理解しやすい。

マリアを頂点とする三角形、ドメニコを頂点とする三角形、ピエトロを頂点とする三角形の三つの三角形が調和している。

この絵から登場人物たちの「絆」が安定している印象を受けるのは、三つのピラミッド構図が巧く調和しているからであろう。

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